013
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「……………………マスター?」
崩れるようにソーマが倒れた。
胸を貫かれて、その胸には大きな風穴が空いている。
それを見て気が動転したシロナは膝を突くと足元に転がる心臓や肉片を急いで拾う。
「マスター、心臓が……心臓を早く戻さないと」
ソーマは「ゴフッ」と口から夥しい血を噴き出す。
咳込んだ血がシロナの顔に飛び散った。
「…………そ、そうだ……ポーションを飲んでください。そうすれば血が止まるはずです」
ソーマの腰に仕舞ってあるポーション瓶を取り出すと震える手で栓を抜き、血が噴き出す口に流し込む。しかし、呑み込めるはずも無く全て流れ出てしまう。
それでも残っているポーション瓶を取り出し、必死に口へ流し込む。
全てのポーションを使い切っても一向に血が止まらない。
「どうしよう……ど、どうしよう……どうしたらいいの、マスター?」
徐々にソーマの青い瞳から光が失せていく。もう既にその瞳は何も見えていなかった。
辛うじて耳だけは音を拾っているのか「…………ァ…………ァ」と何か言葉を発しようとしている。しかし、喉に血が溜まっている所為で上手く声を発せられない。
「マスターッ!」
このままソーマがどこかへ行ってしまわないよう彼の手をギュッと両手で握る。
氷のような手の冷たさにシロナはゾッと恐怖と不安を覚える。
今にも瞳が閉じて眠ってしまいそうなソーマを起こそうと必死に「マスターッ!」と呼び続ける。
ゴホッと喉に溜まっていた血が一気に噴き出すと微かに声を発した。それはあまりに小さくて風の音で掻き消されてしまうような声だった。
だが、人間よりも優れた聴覚を持つシロナはソーマの言葉を聞き逃さなかった。
ソーマは霞む意識の中で発したのは、
「…………あり……が、と」
というたった四文字の言葉だった。
その言葉を最後に、シロナが幾ら呼びかけても答えることはなかった。
何度も何度も体を揺さぶってもソーマの瞳は開かない。
「……ますたぁ……起きて下さい。早く、逃げましょう……ますたぁ?」
目に溜まった涙が今にも零れ落ちそうになるのをグッと堪え、声を震わせた。
突然、シロナの背後で立ち尽くしていたザクロが叫び声を上げながら泣き出した。
ワンワンと泣く姿は大切な玩具が壊れてしまい泣き喚く幼い子供のようだった。
それを呆然と見上げていたシロナは、何でお前が泣くんだよ、と言いたげな視線を向ける。
ソーマの心臓を貫いたザクロは泣き喚き、その赤黒い瞳に怒りと涙を浮かべる。
その怒りに満ちた瞳をシロナに向けると「お前の所為で死んでしまったんだ!」と言わんばかりに怨嗟の叫び声を上げる。
ザクロは理性と自我を失っても尚、ソーマを自分のマスターだと思い込んでいた。
大切なマスターを死なせたシロナが許せなくて、怒りのままに襲い掛かる。鋭く伸びた爪が振り下ろされ、咄嗟にシロナはソーマを護ろうと覆い被さる。
「早く逃げなさい!」
不意に聴こえてきた声と共に誰かがザクロの脇腹を殴り飛ばした。
くの字に体を曲げて吹き飛んだザクロは地面を転がると透かさず顔を起こす。
さっきまでザクロが立っていた場所には倒したはずのミスティの姿があった。
右腕を肩から失い、腹と胸には深い爪痕が刻まれており、ダラダラと血が流れ出ている。
死んでいないことが不思議なくらいの傷だった。
突如、ミスティの右肩がモゴモゴと膨らみ出すと肩の断面から右腕が一気に生えた。
ミスティとしては出来れば使いたくは無かった能力だった。
高速再生とは違い、元の腕に再生する訳でもない。何よりも魔力と体力の消耗が激しいのだ。
それは上位の甲殻種モンスターだけが使えるアビリティ『脱皮』で、失った手足を即座に再生可能な能力。しかし、再生したばかりの手足の筋肉は細くなってしまうというデメリットがあった。
ミスティは腰に付けていたポーチから全てのポーション瓶を取り出すと一気に口へ流し込む。
空になった瓶を投げ捨てると足回りの着物をビリビリと破き捨てる。
大きく脚を開いて身構えたミスティの顔から微笑は消え失せていた。ミスティの瞳に宿るのは殺意と怒りだけだった。
ミスティが初めて見せた殺意の感情にシロナは息を呑む。
シロナが脅えているのを察したのかミスティは首を振り返らせてくる。その額にあったはずの紋章は消えていた。
シロナを安心させようとミスティは微笑を浮かべる。
「怖がらせてごめんなさい……。怒っているけれど、私は冷静よ……。だから安心して。私が怒っているのは……マスターを護れなかった私自身だから……」
そう言ってミスティは首を戻すとザクロと対峙する。
その横顔から微笑が消え失せるとミスティは呟く。
「本当なら今すぐにでも自分を殺してしまいたい気分なのよね……」
「ミスティ……さん」
「私なら大丈夫だから、ここから早く逃げなさい」
「で、でも……ミスティさんはどうするんですか?」
「……マスターを置いては逃げられないわ。だから、私達のことは気にせず行きなさい」
「そ、そんなの自殺行為です! ボロボロの体で戦って勝てる相手じゃ――」
「いいから逃げなさい! 早く!」
ミスティからは想像も出来ない大きな声にシロナの肩がビクリと震える。
そして唐突に戦闘の火蓋が切られる。先に仕掛けたのはザクロだった。
地面を蹴り砕き、一瞬でミスティとの距離を喰らい尽くすと体を大きく捻って左腕を振り回す。
ミスティはその攻撃を甲殻に覆われた腕で弾き返すと透かさずザクロは反対の右腕を振り下ろしてくる。
ミスティは身を翻して振り下ろされた爪を躱す。
すると、ザクロは更に踏み込み、左腕を袈裟懸けに振り上げる。ミスティは甲殻に覆われた脚で爪による斬撃を防ぎ、そのまま体を捻るとザクロの側頭部に回し蹴りを叩き込む。
強烈な回し蹴りが側頭部を捉え、ザクロの体が横へ吹き飛んでいくとミスティは透かさず地面を蹴って追撃の拳を打ち込む。
しかし、中空で身を翻したザクロはミスティの拳を往なすと爪を振り下ろす。
斬撃を体に浴びて血肉が飛び散る。その痛みをグッと堪えると拳に衝撃波を纏わせ、ザクロの顔を目掛けて撃ち込む。
殴打の威力に衝撃波の力が加わり、ザクロの体は砲弾の如き勢いで吹き飛んでいった。
斬り裂かれたミスティはその場で膝を突くと「ゼェ…………ゼェ……」と苦しそうに呼吸を繰り返す。
傷口からビチャビチャと血を零しながらもミスティは再び立ち上がる。
「……お願いだから、早く逃げて」
ミスティはそう言い残すと吹き飛んでいったザクロを追って地面を蹴る。
叫び声を上げるミスティは決死の覚悟でザクロと死闘を繰り広げる。無数の火花が咲き、拳と爪がぶつかりあう衝撃音が森を震わせる。
ミスティが命を賭して作り出してくれた時間をこれ以上無駄にすることは彼女の命を踏み躙るようなものだった。
意を決して立ち上がったシロナは倒れているソーマを背負い、走り出す。
振り返らず、只々前だけを見て足を走らせた。
段々と背後から聴こえていた戦闘音が小さくなっていく。その音が聴こえなくなっても足を休めることなく走り続ける。街を目指し、無我夢中で逃げた。
「マスター……街に着くまで頑張ってください! 街にさえ着けば、きっと助かります! 絶対に、絶対に助けますから……もう少しだけ頑張ってください!」
ソーマの体からポタポタと零れる血の跡を残しながらシロナは森を走る。
一目散に走り続けたがソーマを背負いながらでは足取りは重く、まだまだ街まで距離があった。
シロナはまだ街に着かないことに焦りを覚え、ソーマが死んでしまう恐怖に襲われ始めていた。マスターを失う恐怖に足が震え、涙が零れるのをグッと堪える。
「はぁ……はぁ……」
既にシロナの肺と心臓は限界を迎えていた。だけど、休んでいる余裕は無かった。
こういうしている間にもソーマが死んでしまうかもしれない。その恐怖心がシロナの足を走らせる。
朦朧とする意識の中で走り続け、大きな川が流れる谷の傍を歩いている時だった。
突如、足場が崩れて足を滑らせたのだ。
「……ぇ?」と声を上げた時にはソーマを背負ったままシロナは谷底に落ちていた。
谷底に流れている川にドポンッと音を立てて落水し、二人は川に呑み込まれてしまった。
激しく流れる川にソーマが流されていく。シロナは慌てて手を伸ばし、間一髪でソーマの腕を掴んだ。しかし、荒々しく流れる水がシロナの身動きを妨げ、ソーマの体を奪わんと激流が襲ってくる。
シロナは急いで水面に顔を出すと必死に呼吸を繰り返して空気を吸い込む。
頭上を見上げると谷は深く、左右にはとても登れそうにない絶壁が続いている。
どうにか上がれるところを探しながらシロナとソーマは川に流され続けた。
――どれだけ流されただろうか。
どうにか岸に上がることが出来たシロナはソーマを川から引き上げる。衣服がどっぷりと水を吸っている所為か重たい。
「マスター、大丈夫ですか? …………マスター?」
岸に引き上げたソーマがピクリとも動かないことに違和感を覚え、体を揺さぶる。
しかし、幾ら揺らしてもソーマが目を開くことは無かった。
ふと、シロナはソーマの肺が動いていないことに気付き、恐る恐る彼の口元に耳を近づける。
そして――シロナは知る。
ソーマが、とっくに死んでいることを。
「…………嘘……だよね? マスター……嘘だと言って下さい!」
まだ助かると思い込んでいたシロナはソーマが死んでいるという現実を受け止められず、何度も何度も彼を呼んだ。
しかし、死んでいる者が返事をするはずもなく、シロナの空しい叫びが谷底で反響する。
これまでも何度も命の危機を感じる場面はあった。けれど、今までもどうにか生き延びてきた。だから今回も生き残れるはずだと心のどこかで楽観していたのだ。
いつもソーマに助けられていたシロナはいつの間にか忘れてしまっていた。
神様は、世界は優しくないことを。
シロナを庇って心臓を穿たれた時も、ソーマが死ぬはずが無いと思っていたのだ。
自分を置いてどこにも行かないと言ってくれた。独りにしないと約束してくれた。護ってくれると誓ってくれた。だから、ソーマが自分を置いて死ぬはずが無いと思っていた。
何て都合の良い考えなんだろう。
シロナは自分の身勝手さに吐き気と憤りを覚える。
ソーマの優しさに甘え、付け込んでいただけだった。
産まれてからずっとソーマは味方でいてくれた。
ステータスが史上最弱だと分かった時もソーマは微笑みながら「大丈夫だよ。僕がいるから」と言ってくれた。
ヘボドラゴンと呼ばれても「シロナはシロナだよ。僕の大切なモンスターだ」と庇ってくれた。
時にはヘボドラゴンと馬鹿にしてきた義勇兵の男と喧嘩したこともあった。ソーマが怪我をするのは嫌だったけど、本当は少し嬉しかった。
自分の所為で騎士団の入団試験に落ちた時も「これから一緒に強くなって見返してやろう」と励ましてくれた。入団試験に落ちたのが原因で父親から勘当されてもソーマはシロナを責めたりしなかった。
シロナがオークの攻撃を受けて気を失っていた時も体を張って護ってくれた。
ソーマは気付いていなかったけれど、彼がオークと戦っている時に一瞬だがシロナは意識を取り戻していたのだ。シロナが見ていたのはほんの一瞬だけど、ボロボロになりながらも戦うソーマは誰よりも格好良かったと思った。
ヘボドラゴンと揶揄され、ゴブリンすらまともに倒せず、ステータスが全く成長しないシロナを見捨てず、傍にいてくれたソーマを失うことは死ぬことよりも恐ろしかった。
シロナにとってソーマを失うことは死よりも苦しい絶望だった。
「…………嫌、だよ……嫌だよッ! マスターッ! ……独りにしないでよぉッ!」
何度も何度も体を揺するも、ソーマは目を覚まさない。
それでもソーマの体を揺すり続けていたシロナの手の力が徐々に弱まっていく。
「……なんで……なんで…………そんなの、嫌だよ……ねぇ、起きてよ、ますたぁ」
そして気付いた時にはポロポロと大粒の涙が溢れ出していた。
ずっと我慢してきた涙が堰を切ったように溢れ、褐色の頬を濡らす。
シロナは今までどんなに苦しくて辛いことがあっても涙を流さなかった。
だが、ソーマを失ったシロナは果てしない絶望に呑み込まれ、生まれて初めて涙を流した。
ソーマの胸に顔を埋めながら涙を溢れさせる。
「…………ますたぁ…………ます……たぁ……」
シロナの中で感情の糸がぷつんと音を立てて切れた。
感情を辛うじて繋ぎ止めていた糸が切れ、ずっと抑え込んでいた感情が殻を破って溢れ出す。
シロナは天を仰ぎ、感情のままに泣き叫んだ。
恥じらいも無く、幼い子供のようにワンワンと泣きじゃくり、止め処なく涙が溢れる。
悲痛な泣き声は谷底に反響するも誰の耳にも届くことはない。
――いいや、ただ一人だけいた。泣きじゃくるシロナの声を聴いている者がいた。
正確には『一人』という言い方は正しくない。何故ならシロナの声を唯一聴いていたのが、頭上に広がる空よりも遥か上にいる『神様』と呼ばれる存在だからだ。神様に『人』という単位はそぐわないだろう。
神様は天に向かって泣き叫ぶシロナの姿をずっと眺めていたのだ。
シロナがどんな運命を歩んできたのか全てを見通していた。
誰かが言っていた。
――奇跡というものは絶望の中にしか生まれない。
神様という存在は絶望に満ちた場所にしか希望の種を撒かない。
その理由は至極単純だ。神様というのは優しく無くて、そして崇められたり、感謝されたりするのが大好きなのだ。
幸せで裕福な者に奇跡を与えてもあまり驚かないし、感謝もしない。それが気に食わなかった神様は絶望に満ちた者にしか奇跡を与えないことにした。絶望に満ちた者は奇跡を喜び、神様を崇め感謝した。それが神様にとって何よりも嬉しくて、楽しいのだ。
神様はきっと小さな子供の姿をしているに違いない、と誰が言っていた。褒められることが大好きで、人を驚かせてキャッキャッと喜ぶ子供そのものだと。
絶望に泣き叫ぶシロナを見ていた神様はその手から一粒の奇跡の種を地上に落とした。
誰の目にも映らない奇跡の種はシロナの小さな体に落ち、奇跡の芽が顔を出す。
そして、絶望に満ちた土にしか咲くことの無い奇跡の花が咲く




