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ヘボドラゴンと呼ばれても  作者: たつのオトシゴ
第一編 始まり
25/30

012 ③

「悪いな、遅くなって。大丈夫だったか? ソーマ君」

 まるで助けに来るのが決まっていたかのようなギンガの口振りに、

「ギンガ……さん? どうしてここに……?」

 とソーマは怪訝な顔を浮かべた。

「それは、君たちを襲っていたあの猫のモンスターを俺たちはずっと追っていたからだよ。以前から彼女が君たちを狙っていることは分かっていた。だからソーマ君の後を付けていたんだ」

「それって、僕たちが襲われると知っていた……ってことですか?」

「まあ、そうなるな……。勝手に囮みたいにして悪いとは思っている。だけど、どうか許して欲しい。彼女を誘い込むにはこれしか無かったんだ。今日だけでも五人が殺されている。これ以上、被害者を出さない為にも悠長にしている時間は無かったんだ」

 それを聴いてソーマの中でピースが繋がった。以前、ミノタウロスに襲われた時にギンガが助けに駆け付けたのは偶然ではなく、ミノタウロスを差し向けたザクロを追っていたから近くに居合わせたのだ。

 そして、ソーマとシロナの叫び声を聴いて駆け付けたのだろう。

 ミノタウロスを倒した後にギンガが呟いていた「これも『あれ』の影響か……」という言葉の意味をようやく悟る。

 ギンガが言っていた『あれ』とはザクロを指していたのだと。

「そういうことだったんですか……いえ、むしろ助かりました」

 ソーマの前に立つギンガは首を振り返らせて言う。

「後は俺たちに任せておけ。彼女は……責任を持って処理する」

 ――処理する。

 その言葉の裏にある意味を察したソーマは思わず訊く。

「それって、殺す……ってことですか?」

「ああ、そのつもりだ」

 ソーマは自分でもどうしてこんな質問をしてしまったのか分からない。ザクロがもう戻れない所まで魔獣化が進行しているのは明らかなのに、心のどこかでまだ助けられるかもしれないと思っている自分がいたのだ。

「ソーマ君も殺されかけて分かっているだろ? ……もう手遅れだよ。完全に魔獣と化すのも時間の問題だ。まだ微かにモンスターとしての意識が残っている内に始末しないと厄介なことになる。……だから、今ここで殺す」

 ギンガの言葉は正論だった。

 只々、その言葉を呑み込むことしか出来ず、目の前で繰り広げられる戦闘に目を奪われる。

 顔を殴られて吹き飛んでいったザクロは中空でクルクルと体を捻ると軽い身のこなしで足から着地する。そして足が地面に触れると同時に地面が砕けて吹き飛ぶほどの脚力で蹴り出す。

「誰なの、オマエッ! 邪魔しないでなのッ!」

 叫んだザクロは一瞬でミスティとの距離を喰らい尽くすと体を捻り、側頭部に強烈な回し蹴りを叩き込む。

 咄嗟にミスティは頭の横に腕を構えて蹴りを受ける。ドスンッと重い衝撃音を鳴らし、分厚い甲殻に覆われた腕がミシミシと軋む。

 透かさずミスティは腕を脚に絡ませるように掴み、一気に背負い投げるとザクロの体を地面に叩きつけた。地面が割れる程の力で叩きつけられ、何が起きたのか分からないまま痛みに呻く。

「ウガァァッ!」

 脚を掴まれて暴れるザクロは腕を振り回して爪による斬撃をミスティに向けて飛ばす。

 ミスティは咄嗟に手を放し、斬撃を躱すと少し距離を取る。あまり距離を空けないのはザクロが他の者に襲い掛かっても対処出来るようする為だった。

「……情報通り、風の魔法〈スラッシュ〉を使えるみたいですね。それも高位の」

 斬撃を掠めたのかミスティの頬に細い傷が走り、血が顎まで伝う。

 立ち上がったザクロは諸腕に魔力を纏い、鋭い爪を剥き出すと顔の前で諸腕をクロスさせる。そして交差させた腕を一気に振り下ろすと罰点を描いた斬撃が音を置き去りにしてミスティを襲う。

 甲殻を纏う腕で斬撃を受け止めるも、弾けた斬撃が一帯の樹々を斬り刻み、地面を抉り飛ばす。散り散りになった斬撃が樹々を薙ぎ倒し、ズシンッと樹の倒れた音が地面を揺らす。

「もう……やめて下さい。マスターから頂いた大切な着物をボロボロにしたくないんです」

 容易く樹を斬り倒した斬撃を受けながらもミスティの甲殻には微かな傷しか付いていない。

 ソーマはもし自分が今の斬撃を受けていたら木端微塵に吹き飛んでいたに違いない、と嫌な想像が脳裏を過り、背筋が凍り付いた。

 すると、再びザクロは諸腕に魔力を込めて魔法を放とうとする。しかし、それをミスティが何度も許すはずもない。

 地面が砕けるほどの脚力で一気に駆け出すとザクロの懐に潜り込み、振り被った右腕を撃ち放つ。

 ザクロは身を翻して砲弾の如き拳を紙一重で躱す。躱されるのを予測していたのかミスティは即座に右腕を引き戻すと同時に左腕を撃ち出す。しかし、それもまた身を翻して躱す。

 怒涛の如く撃ち放つ拳をザクロは全て躱した。時折フェイントを入れたり、足蹴を混ぜたりしたのだけれどミスティの拳は掠りもしない。

(動体視力がずば抜けて発達しているみたいね……。ステータスの『俊敏性』は〈B〉以上といったところでしょうか)

 とミスティは攻撃の手を休めることなくザクロの動きを分析する。

 素直に攻撃していても躱されるだけだ。そう思ったミスティはわざと隙を見せるとザクロはその隙を突いて爪を振り下ろす。

 攻撃を誘い込んだミスティは振り下ろすザクロの腕を片手で掴み止める。完全に隙を突いたと思っていたザクロは目を丸くする。

「大人しく寝てなさい」

 と言ってミスティは握り固めた拳を鳩尾に打ち込んだ。肉が潰れるような嫌な音が鳴り、ザクロの体がくの字に曲がった。

 強烈な一撃が決まった。

 しかし、ザクロは痛みに苦しむことなくバッと顔を起こすと猫のような叫び声を上げて爪を振り下ろす。

 咄嗟にザクロを蹴り飛ばして爪を躱す。ミスティは少し距離を取ると殴った手の感触を確かめるように見詰める。

「マスター。どうやら彼女も耐性持ちのようです。ギルドから受け取った情報には無かったはずですが……」

 ミスティの報告を受けてギンガの表情が薄ら険しくなる。

「恐らく……魔獣化の進行に伴って体質が変化したんだろう。他にも能力が変化しているかもしれない。油断するなよ」

「承知致しました、マスター」

 ミスティは頷くと目の前のザクロをジッと見つめる。ザクロの些細な挙動に目を配り、どんな攻撃にも対応出来る態勢を崩さない。

 背後にいるギンガだけではなく、ソーマやシロナにも意識を向けているのが分かる。時折、二人の姿を確認するように目を動かしていた。

 この場から二人を逃がした方が良いように思えるのだが、ザクロが狙っているのはシロナであり、もし二人が逃げれば追って行く可能性が大きい。いくらミスティの能力が高いとは言っても、それはあまりに危険だった。

 逆に言えばシロナがここにいればザクロが逃げないということでもある。ギンガとミスティは何としてもザクロをこの場で始末したかった。

 故にソーマとシロナを護りながら戦うことが最善だと考えたのだ。

 しかし、ギンガとミスティはザクロの身体能力を見誤っていた。全力を出したザクロの脚力は優にミスティの動体視力を置き去りにする。

 突然、ザクロが立っていた地面が爆ぜると姿が消えた。残像すら残さず忽然と姿が消え、ザクロを見失った。

 だが、ミスティは冷静だった。ザクロがどこへ消えたのかは直感で理解していた。

 ミスティは振り返ると同時に迷うことなくギンガ達がいる方へ駆け出す。

 まるで未来が視えていたかのようにミスティの直感は的中し、ギンガの傍にいるシロナの背後に赤い影が出現する。

「囲め――氷結の魔法〈フロスト〉」

 突然、ギンガが魔法を口にすると三人を囲むように足元から分厚い氷の壁が出現した。

 三人を囲んだ氷の壁はザクロの爪を防ぎ、削れた氷の破片がキラキラと散る。しかし、更に数回腕を振っただけで氷の壁は砕けて簡単に崩れてしまった。

 ザクロの攻撃を防ぐには脆弱な氷の壁だが、それで十分だった。ミスティが駆け付ける時間さえ稼げればいい。

 頭上から落ちてきたミスティは赤い髪に覆われたザクロの頭に拳を振り下ろす。紙一重のところで後ろに跳んで躱すとザクロは諸腕を交互に振って斬撃を放つ。

 甲殻に覆われた腕で斬撃を弾くとミスティは地面を蹴って一気にザクロとの距離を詰める。

「壊せ――音波の魔法〈ショック〉」

 両の拳に音波を纏わせると右腕を突き出す。ザクロは首を傾けて拳を躱した――はずなのに、側頭部に強烈な衝撃を受けて吹き飛んでいく。

 拳が顔の傍を通った瞬間、パァンッと空気が破裂するような音が響いた。当たっていないはずなのにどうして吹き飛ばされたのか分からず、ザクロは困惑する。

 透かさずミスティは踏み込み、追撃の拳をザクロの腹部を目掛けて撃ち放つ。

 今度は後ろへ跳び退いて躱したけれど、またしても見えない衝撃波がザクロの腹部を襲う。吹き飛ばされたザクロは中空で身を翻すと地面を削りながら着地する。

「…………わたしに何をしたの?」

 不可視の攻撃を受けて動揺しているのかザクロは足を止めて質問してきた。

「それは……言う訳ないじゃないですか」

 とミスティは微笑を浮かべたまま答えた。

「あっそう……じゃあ死ねなの!」

 叫びながらザクロは再び襲い掛かる。

「着物を破いた恨みは恐ろしいですよ?」

 微笑を浮かべるミスティは悠然としていた。ミノタウロスよりも凶暴なザクロを相手に一歩も引かない。

 ミスティの戦闘を見るのはこれで二度目だけれど、ミノタウロスとの戦いでは力の半分も出していなかったことが分かる。全力を出したミスティの強さは〈A〉等級に相応しい別次元のものだった。

 ソーマの目では戦闘を追うことすら出来ない。一瞬の間に甲殻と爪がぶつかる音が何度鳴ったか分からない。

 ミスティとザクロの間には無数の火花が咲いていた。

「……ギンガさんにはこの戦闘が見えているんですか?」

 ソーマの前で戦闘を見つめているギンガに訊ねた。

 返ってきた答えは思っていた答えとは違った。

「いいや、俺にも見えていないよ」

「で、でも……さっき魔法で攻撃を防いだじゃないですか」

「あれはそうすると事前に決めていたからだ。ミスティが俺の目を見て走り出した時は俺の身に危険が迫っているという合図なんだ。その合図で俺は魔法で氷の壁を造り、自分の身を護っただけだ。だから見えていた訳じゃない」

 それでも素直に凄いと思えた。これが〈A〉等級義勇兵と言われる所以なのだと。

 幾多の戦闘を経験しているからこそ出来ることだし、モンスターとの連携と信頼が無ければ出来ないことだ。

「それに、俺のモンスターはミスティだけだしな。自分の身は自分で護るしかない。そうやって生きてきたんだ。……まあ、実際は複数のモンスターを連れていた方がいいのは分かっている。そっちのほうが安全だしな」

「じゃあ、何でそうしないんですか……?」

「それは……」

 とギンガは迷い、躊躇った後に答える。

「……別に、なんとなくかな」

 そう言ったギンガの横顔を見て、

(ああ、そっか……そういうことか……)

 と何故ミスティ以外のモンスターを連れていないのかソーマは悟った。

 たまにある話だった。ペットを溺愛するあまり独り身のまま生涯を終える人間がいるように、モンスターを大切にするあまり他のモンスターを迎え入れないマスターがいるのだ。きっとギンガもそうなのだろう。

 ふと、ソーマは憐憫の情に駆られた。

 ギンガのようにモンスターを大切に想うマスターがいるのに、ザクロのように心無いマスターに酷い扱いを受け、挙句の果てに捨てられて魔獣と化そうとしている。

 あまりに不平等な運命だと思った。

 対局な運命を辿った二対のモンスターが死闘を繰り広げ、命を削り、奪い合っている。

 その光景はまるでこの世界が生み出した光と闇が闘っているかのようだった。

 もしマスターが違っていたら全く逆の運命を辿っていたに違いない。子供が親を選べないように、モンスターはマスターを選ぶことは出来ない。

 今も闘っている光と闇に正義も悪もない。そこにあるのは只々悲しい運命だけだ。

 しかし、その闘いの均衡は徐々に崩れ始めていた。闇が光に押されていた。

 ミスティの不可視の衝撃波に苦戦を強いられているザクロの体は既にボロボロだ。全身の至る所に傷や打撲痕があり、僅かに動きが鈍くなっている。

 ザクロの境遇を知るソーマは彼女が傷付いていく度に胸が絞め付けられていく。

 休みなく降り注ぐ拳の雨をザクロは辛うじて躱すと距離を取ろうと跳び退く。しかし――

「逃がすかよ――氷結の魔法〈フロスト〉」

 とギンガが魔法を口にした。

そして、行く手に突如出現した氷の壁にザクロは体を打ちつけた。

「――ッ!」

 氷の壁によってザクロは足を止めてしまった。その隙を逃さずミスティは踏み込み、衝撃波を纏う拳を鳩尾に打ち込む。

 ザクロは口から夥しい血を噴き出すと更に連続で体に拳を打ち込まれる。

「ミスティ! 完全に魔獣と化す前に仕留めろ!」

「承知致しました、マスター!」

 右腕を大きく振り被ったミスティは渾身の力を込めた拳をザクロの顔面に叩き込んだ。

 顔を貫通した衝撃波は背後の氷の壁を破壊し、飛び散った氷塊諸共ザクロを吹き飛ばした。

 それを受けても尚、ザクロは地面を転がりながら立ち上がると、

「何なのッ! お前達は!」

 叫ぶと共にがむしゃらに腕を振り回すと風の魔法〈スラッシュ〉による爪の斬撃を放つ。

 ミスティは甲殻に覆われた腕で受け止めて斬撃を散らすが、受け流し切れなかった斬撃が彼女の脇腹を斬り裂く。

 一見、ミスティが圧倒しているように見えるが、着物は既にボロボロで所々に傷を負っている。斬撃や爪による攻撃を受け続けた甲殻には大小数え切れない程の傷が刻まれている。腕の甲殻をよく見ると小さな罅が走っている箇所がある。

「痛いの……。マスター……助けてなの。見捨てないで……」

 そう言って涙を零すザクロは傷だらけの顔でソーマを見つめた。

 その涙を見た時、どうしてかザクロの姿にシロナの姿が重なって見えた。

(本当に、これでいいのか……?)

(人間の勝手な都合で理不尽な運命を押し付けられたモンスターがこんな無慈悲な結末を迎えることが本当に正しいのか? そんな結末を彼女は望んでいるのか……?)

(……いいや、そんなはずはない)

(彼女だってこんな結末は嫌なはずだ)

(でも……僕にはどうすることも出来ない……)

ソーマにはこの闘いを止める力も無ければ、魔獣化を食い止める術も無い。

(誰かの運命を変える力は、僕には無い……)

 突如、奇声のような叫び声が森一帯に響き渡り、思わずソーマ達は耳を塞いだ。

 ザクロは発した叫び声と共に全身から夥しい魔力を噴き出す。残る力を全て開放したザクロは暴力のままに襲い掛かる。

 必死に生き残ろうと足掻く姿は死にかけの獣のようだった。

 ザクロは全身に風の魔法〈スラッシュ〉を纏い、彼女が駆け抜けるだけで辺りの樹々は次々と斬り倒されていく。叫び声を上げながら突貫してくるその姿は巨大な竜巻のようだった。

 それを迎え撃つミスティは腰を低く構え、大きく右腕を振り被る。

「音波の魔法〈ショック〉――出力音波最大」

 そう口にしたミスティの拳には巨大に膨らむ衝撃波が出現する。膨らんでいた衝撃波が圧縮されていくと拳に触れている空間が歪み、ドゴンドゴンッと爆音が脈を打つ。

 ミスティは迫り来る巨大な竜巻に向かって踏み出すと爆音を纏う拳を撃ち放つ。拳に固めた衝撃波が竜巻に触れた瞬間、圧縮された衝撃波が一気に爆ぜる。

「囲め――氷結の魔法〈フロスト〉」

 ギンガが魔法を口にすると足元から出現した氷の壁が三人を囲む。

 次の瞬間、一帯に凄まじい衝撃波が駆け抜け、樹々が大きく揺れて土煙が吹き荒れる。氷の壁に覆われていても鼓膜が痛くなる程の爆音が響き渡り、その衝撃で巨大な竜巻は吹き飛んでいった。

 衝撃波が止み、氷の壁が崩れ落ちると立ち込める土煙の中にミスティの姿を見つける。

 最大出力の衝撃波を放った右腕の甲殻は割れて、ポタポタと血を滴らせている。

 そして土煙が晴れていくと地面に突っ伏したザクロを見つける。満身創痍の体は血に塗れ、見るも無残な有様だ。まるでボロボロになった布切れのようにザクロは倒れていた。

 しかし、ピクリと体が動き、ザクロはまだ生きていた。

「……驚きました。今の攻撃で死なないなんて……」

 常に微笑を浮かべていたミスティが初めて驚いた表情を見せた。

 ザクロは腕に力を込めて体を起こすと全身の傷から血が噴き出す。「ウググッ……」と獣のような唸り声を上げながら立ち上がるも足がフラフラと揺れて倒れそうになる。

 ダラリと腕が垂れ下がり、立っているのもやっとという状態だ。指で押せば簡単に倒れてしまいそうな気さえする。

 ミスティは踏み込むと左腕を振り被って容赦なくザクロの顔面に拳を打ち込む。

 ゴキンッと骨が砕けたような鈍い音が鳴るとザクロは地面を跳ねるように転がっていく。

「……もう諦めなさい」

 そう言いながらミスティは悠然とした足取りで近付いていく。

 誰が見ても勝敗は決していた。

「……マ、マスタぁ……痛いの……苦しいの」

 地面に突っ伏すザクロは赤い瞳から涙を零し、苦悶の声と共に口から血が零れ出る。

 ふと、ザクロは目の前にキラリと光る物を見つける。そこに落ちていたのはシロナが着けていた小さな宝石が嵌め込まれた髪飾りだった。

 それは元々ザクロがマスターから貰った髪飾りで、ずっと探していた大切な物。

 ザクロは痛む体を起こし、目一杯に手を伸ばして髪飾りを掴む。

手の中に収めた髪飾りを愛おしそうにジッと見つめ、

「……よかったの……マスター、もうずっと離さないの」

 ギュッと胸の前で髪飾りを抱き締める姿はどこにでもいる可憐な少女のようだった。

 ミスティはザクロの前に立つと躊躇うことなく腕を振り下ろす。

「マスター……ザクロはずっと、ずっとマスターを想っているの……」

 さっき顔面に受けた一撃でザクロの右眼はもう見えなくなっていた。左眼も霞んでいてよく見えていない。その状態でミスティの拳を躱すことは不可能だった。

 静かに目を瞑ると、ザクロは淑やかな声音で呟く。

「……愛しているの、マスター」

 拳が後頭部に直撃する瞬間、ザクロは薄ら微笑んだ。

 そして倒れているザクロの頭は地面に叩きつけられ、頭蓋が完全に砕けた。

 ソーマはピクリとも動かなくなったザクロを見て酷い虚無感と後悔に襲われる。

(……彼女は……ザクロは、最後の最後までマスターを想っていた。それなのに、どうして殺されなくちゃいけないんだ……)

(こんな終わり方……あんまりだ。悪夢じゃないか……)

 誰よりもマスターを想っていた優しい少女が殺されることが本当に正しいことだったのか、とソーマは自問する。 

(……いいや、絶対に間違っている。こんなことが許されていい訳がない)


 ――この世界は間違っている。


ソーマが自問自答していると、ミスティはザクロの頭蓋を潰した拳を持ち上げて「……ふぅ」と溜息を吐いた。

「マスター。目標を完全に破壊しました」

 そう言ってミスティはギンガの元に戻ろうと歩き出す。

 そしてザクロに背中を向けて歩き出した時、ミスティの背後で音が鳴った。

 有り得るはずが無い。完全に頭蓋を破壊し、死んだはずだった。それなのにザクロは立ち上がった。

 背を向けていたミスティは「そんな馬鹿な……」と呟きながら咄嗟に振り返る。

 グチャグチャに潰れた顔に浮かぶ赤い瞳は殺意を宿し、ミスティを見つめる。しかし、どういうことなのかザクロから意識や気配を感じない。まるで人形のようだった。

 ザクロは地面を蹴ってミスティに襲い掛かる。

 完全に不意を突かれたとは言ってもミスティの反応速度は優にザクロの攻撃速度を上回っていた。ミスティは流れるような動きで腕を振り絞ると一気に拳を撃ち出す。


「――やめろぉおおおおッ!」


 どうして自分がそんなことをしてしまったのか後で思い返しても憶えていなかった。

 ただザクロを救いたかっただけなのかもしれない。もう彼女は元には戻れないと分かっていたはずなのに、どうしてそんなことをしたのか。

 気付いた時には叫んでいた。ソーマは有りっ丈の声で叫んだ。

 理不尽な運命に振り回された挙句、悪夢のような結末を迎えようとしているザクロがこのまま殺されてしまうことが許せなかったのかもしれない。

 それが結果として正しかったのかは分からない。けれど、ソーマの行動はこの場にいる者たちの運命を変えた。

 良くも悪くも――運命を大きく変えた。

 ソーマの叫び声によってミスティの拳に僅かな躊躇いが生じた。その一瞬の隙によってザクロは拳を躱すと爪を振り下ろす。

 ザクロが放った斬撃はミスティの右腕を肩から斬り飛ばした。

「――ぁ」

 とミスティはクルクルと中空を飛んでいく自分の右腕を目で追う。

 ザクロは更に腕を振り上げて追撃を仕掛ける。しかし、右腕を吹き飛ばされてもミスティは至極冷静だった。身を翻して爪を躱すと透かさず左腕を撃ち出し、攻撃に転ずる。

 ここで怯んだら更なる追撃を許すだけだとこれまで培ってきた経験で知っているのだ。

 だが、その行動は結果として裏目に出てしまった。

 ミスティが放った拳はザクロの顔面を捉えた――はずなのに、彼女は倒れなかった。

「……まさか」とミスティの表情が一瞬で凍り付いた。

 次の瞬間、ザクロが腕を振り上げると着物ごと胸と腹を斬り裂き、血肉が飛び散った。

 斬撃の風圧によって中空へ吹き飛んだミスティの体はドスンッと地面に叩き付けられる。

 そしてソーマ達はザクロに起きた異変に気付く。

 突如、ザクロの全身が膨れ上がり、バキバキと筋骨が変形していく。黒い斑の赤い獣毛や髪が伸び、爪や牙が更に鋭く伸びていく。

 そして瞬く間にザクロは人の姿を殆ど失い、禍々しい魔獣と化した。長く伸びた赤い獣毛を炎のように揺らし、真黒な眼球に赤い瞳を浮かべるその姿は正に化け猫だった。

 ギンガが最も恐れていた状況が訪れてしまった。

 完全に魔獣と化してしまったザクロは雄叫びを上げ、凄まじい魔力の波動を発する。

 化け猫に成り果てたザクロはたったの一撃でミスティを倒してしまった。

 完全に魔獣と化し、桁違いの力を得たザクロを止められる者はもうここにはいない。

「こ――」

 ギンガが何かを言おうとした瞬間、突風が吹き抜けると彼の首が吹き飛んだ。

「ぇ……?」

 ソーマは何が起きたのか分からなかった。気付いた時にはザクロの姿は消えていた。

 ふと、背後で土を踏む足音が聴こえて振り返るとギンガの首を持つザクロの姿を見つける。

 ザクロが腕を振ると掴んでいたギンガの首は木端微塵に斬り刻まれ、ベチャベチャと地面に落ちた。

 そして首を失ったギンガの体は崩れるように倒れた。

 ザクロは長い舌を伸ばし、爪に付着した血を舐め取る。すると、赤黒い瞳がギョロリと動いてソーマとシロナを見つめてくる。

 その瞳を見た途端、ソーマは理解した。目の前にいるのはザクロという名のモンスターではなく、魔獣であると。

 ザクロの中に理性や自我は既に残っていない。ザクロという少女のモンスターは完全に消えてしまったのだ。

(……助けられなかった)

(それどころか、僕の所為で二人を死なせてしまった……)

(全部、僕の所為だ……)

 こんなことになるくらいなら人の意識が残っている間にザクロを楽にしてあげるべきだった、とソーマは後悔に苛まれる。

(ごめんなさい……。二人は僕が殺したようなものだ……)

 理性と自我を失い、魔獣と化したザクロは叫び声を上げながら迫る。

 シロナに向かって跳び掛かると鋭く伸びた爪を突き出す。

(でも……せめてシロナだけは……)

 気付いた時には体が動いていた、としか説明が出来なかった。

 シロナの前に飛び出したソーマは爪による刺突を胸に受け、ザクロの腕は背中まで貫通していた。

 胸を貫かれて飛び散った血肉をシロナは全身に浴びていた。

「……ぇ? …………マスター……?」

 シロナは目を丸くして呆然としていた。

「……ごめ……んな…………シロ、ナ……」

 そしてソーマの胸から腕が引き抜かれると、ボトリッと足元に何かが落ちる音がしてシロナは目を落とす。

 足元に転がっていたのはソーマの心臓だった

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