005 ③
手負いと思われるオークはモンスターから逃げるようにこちらに迫ってくる。
(まずい……まずいまずいまずい! こっちへ来るな! 今、オークに襲われたら僕は……僕たちは間違いなく殺される)
蹲るソーマを見つけたオークは斧を持つ手を振って一直線に迫ってくる。
ソーマは激痛で動けず、呼吸が儘ならない所為で意識が霞み、逃げ出すことすら出来ない。
オークがソーマの状況を汲み取るはずもなく、ズンズンズンと大きな足音を立てながら迫る。
地面を潰すその足音は、ソーマにとって死を運ぶ足音に思えた。
この胸の痛みさえ治まれば動けるのに、まだ心臓の暴走が止む気配は無い。
(くそっ……どうしていつもこの心臓は僕を邪魔するんだッ!)
ソーマは拳を地面に叩きつけ、どうにか体を起こそうとするが足に力が入らない。
(いいから動け! 動け! 動け! ……動けよッ!)
無理矢理立ち上がろうとすると足が滑って倒れ込んでしまった。
すぐそこまでオークが迫っているのが足音で分かる。
(もう……駄目だ。間に合わない……)
そう悟ったソーマは今出せる全ての力を振り絞って叫ぶ。
「シロナ! 逃げろ!」
顔を上げると眼前に迫ったオークは斧を振り被り、こちらを見下ろしていた。
(……ぁ)
死を覚悟する暇も無く、シロナを残して死ぬことを悔やむ暇も無く、斧は振り下ろされた。
その時、突如ソーマの視界を影が覆った。横から飛び込んできた小さな影は白い髪を靡かせ、尻尾を生やしていた。目を大きく見開き、それがシロナだと遅れて気付く。
(……なんで。逃げろと言ったはずなのに……どうして)
咄嗟に手を伸ばしたが間に合うはずもなく、オークが振り下ろした斧はシロナの体を斬り裂いた。
血飛沫が地面に飛び散る。背中しか見えないけれど、シロナがどうなったか容易に想像出来る。飛び散った血の量からして、斧の一撃はシロナの体を深く斬り裂いたに違いない。
自分を庇って飛び込んできたシロナは糸を失った人形のように崩れ、倒れた。
「…………」
ソーマは倒れたシロナを、ただ呆然と見詰めていた。
言葉を失い、その時だけは心臓の痛みすら忘れてしまえた。全身を駆け巡っていた激痛は嘘みたいに感じない。
「…………マス……ター……逃げ、て」
ふと、聴こえてきたのはシロナの声だった。まだシロナは生きている。
その声を聴いていたのはソーマだけではない。オークも聴いていた。
オークは横たわるシロナの息の根を止めようと再び斧を振り上げる。
(また……護れないのか? 何で僕はここで倒れているんだ? 誰かが助けてくれるのを待っているのか? いいや……誰も助けてはくれない)
(今、シロナを護れるのは僕だけだ)
ソーマは自分が死ぬよりもシロナを殺される方が嫌で、怖かった。
(……自分勝手な我儘なのは分かっている。……でも、怖いんだ。シロナを失うことが怖いんだ)
ソーマを突き動かしたのは『勇気』などではなく、見苦しいくらいの『恐怖』だった。
(この心臓が破裂しても構わない。死んだっていい。だから……だからお願いします。僕にほんの少しでいいから力を下さい……神様)
シロナの首を狙った斧の一撃は地面を砕いた。
舞い上がった砂埃が晴れるとそこにシロナの姿は無く、オークは「どこにいった?」とキョロキョロと辺りを見回す。
少し離れた場所でソーマが血塗れのシロナを抱き抱えているのを見つける
斧が振り下ろされる寸前、ソーマは地面を蹴って走り出していた。激痛で動けなかったはずなのに、シロナを失う恐怖が無意識に体を突き動かした。
痛みよりもシロナを失う恐怖が勝り、限界を迎えた体は限界を超えて動いた。今、こうして立ち上がれたのはシロナを想う気持ちが痛みを凌駕したからだ。
と言えば聞こえはいいけれど、実際はシロナを失う恐怖に突き動かされただけに過ぎない。
これはエゴだ。シロナを失いたくないソーマの欲望と恐怖が痛みを塗りつぶした。決して褒められるものではないことはソーマも理解している。
とはいえ動機が何であろうと、ソーマの体が限界を迎えていることには変わりない。目は真っ赤に充血し、息は荒い。気を緩めれば体がバラバラに崩れてしまいそうだった。
「おい! ヘボドラゴンは捨ててお前は逃げろ!」
未だオークとの戦闘が続いているチャドは乱暴に叫んだ。その声に反応し、チャドを一瞥するだけでシロナを置いて逃げようとはしなかった。
「動けなくなったモンスターを庇ってマスターが死んでどうする!」
「逃げません! シロナを置いてはいけません!」
「いいから逃げろって!」
「出来ませんッ!」
頑なに逃げようとしないソーマにチャドは溜息を吐いて「ああ、もう好きにしろ! どうなっても知らねえぞ!」と叫んだ。
(……言われなくたって好きにするさ)
後退ってオークから距離を取るとありったけのポーション瓶を取り出す。栓を抜くと胸の中でグッタリとしているシロナの口にポーションを流し込む。
口の端からポーションが少し零れてしまったけれど、シロナはゴクゴクと呑み込んでいく。
普通のポーションでは深い傷は治らないことは知っている。でも、多少は傷が塞がるはずだ。出血量を最低限で抑えられれば一命を取り留められる。出血は酷いけれど幸いにも傷は深くなかった。
(とりあえずはこれで大丈夫なはず……)
シロナの体を傍の樹に凭れかけさせると振り返って剣を抜き放つ。
重い足音を立てながらオークがゆっくりと近付いて来る。
心臓の痛みはまだ酷く、全身が熱を持ったように重くて息が苦しい。でも、シロナが作ってくれたこの数秒で心臓の痛みは僅かに治まり、どうにか動けるようになった。
シロナを庇った時は嘘みたいに痛みを感じなかったのに、それすらも嘘みたいに再び全身を激痛が襲っている。まだ呼吸も深く、意識と視界が霞む。近付いて来るオークの姿が二重になって見える。
ブンブンと首を横に振ってどうにか意識を覚ます。
他の義勇兵はオークの群れで手一杯だ。応援は期待できない。
心臓が限界を迎えている状態でシロナを抱えて逃げ切ることはまず不可能だ。
だからといってシロナを見捨てて逃げるのは絶対にあり得ない。
今、シロナを護れるのはソーマしかいなかった。
戦わなければシロナは死ぬ。相手がオークだろうと、無謀だと言われようと戦う以外の道は残されていなかった。
(……怖気づくな! 相手は一体だけだ! 勝てる可能性は限りなく低いけど……それでも、シロナを失うほうがもっと怖いだろ!)
ソーマは自らを鼓舞すると剣を強く握り、戦う覚悟を決める。
手負いとはいえオークは強い。まともに攻撃を受ければ致命傷になるだろう。迫り来るオークの姿がさっきよりも大きく見える。ゴブリンよりは動きが緩慢だけど二メートル近い体躯から繰り出される一撃は重い。バックラーで受け止めたとしても只では済まない。
どうやって戦えばいいのか考える暇すら無く、オークは襲い掛かってくる。
とりあえずシロナがいるこの場から離れることを考え、オークが振り下ろした斧の一撃を横に跳び退いて躱すと落ちている石を拾い、豚頭に投げつける。
石は当たったけれど、薄ら傷付いただけで大したダメージにもなっていない。だけど、それでいい。オークの注意を惹ければ十分だ。
挑発が聞いたのかオークは叫び声を上げると体を前に倒して猛追してくる。
しかし、想定外のことが起こった。
(えっ……オークってそんなに速く動けるの?)
思っていたよりも足の速いオークに目を丸くする。重たそうな腹を持ち、腕脚は分厚い筋肉に覆われているのに猪の如き勢いで距離を喰らい尽くしてくる。
咄嗟に思い切り地面を蹴って横へ転がる。紙一重で突進を躱すとオークはそのまま樹に激突した。ドンッと鈍重な音が響き渡り、軋み音を上げながら樹が揺れる。
すぐに立ち上がったソーマは振り返ると息を呑む。オークが激突した衝撃で樹の幹が大きく割れていたのだ。もしも樹とオークの間に自分が挟まれていたらと考えただけでゾッする。
オークは額から血を流しているだけで平然とこちらを見てくる。
その瞳は「よくもやってくれたな」と言わんばかりの殺気と怒りを孕んでいる。
豚の大きな鼻から音を立てて息を吐き出すと再び突進してくる。
このまま躱し続けて樹にぶつけ続ければいつかは倒れるのでは? と一瞬は考えてたが、その作戦は投げ捨てた。既に心臓が限界を迎えている状況で長期戦を行うのは不可能だった。オークを倒す為には短期決戦しかない。
その為にはリスクを負ってでも仕掛けるしかない。やるなら辛うじて痛みが和らいでいる今だ。目が霞んで敵の姿をハッキリと捉えることが出来ないけれど、ゴブリンの速さに慣れているソーマにとってオークの動きは鈍い。
剣を握り直して腰に構えると猛進してくるオークに向かって駆け出す。
傍から見たら自棄を起こして突っ込んでいるだけにしか見えない行動だった。
しかし、ソーマはオークにぶつかる直前に身を屈めると大きく空いた股下に滑り込んだ。股を潜ると同時に剣を振り払ってオークの足を斬り裂いた。
「くそっ……浅い」
不意を突いた攻撃だったがオークの厚い肉を完全に斬り裂くことは出来なかった。
すぐに立ち上がって振り返るとソーマの視界を大きな影が覆う。
いつの間にか眼前に迫っていたオークは斧を振り上げていた。
(しまっ――)
残像を走らせる斧はソーマの頭蓋を目掛けて振り下ろされた。咄嗟に頭上で剣を斜めに構え、斧の衝撃を往なすと同時に軌道を逸らす。
ガリガリガリと金属が削れる音を立てながら斧は脇へ落ちていった。
斧は地面を砕き、土や石が飛び散るとソーマの頬を薄ら斬り裂いた。
跳び退いてオークから距離を取るとソーマは自分の両手に目を落とす。剣を握っていた両手がプルプルと僅かに痙攣している。攻撃の軌道を逸らしただけなのに両腕はビリビリと痺れている。
その手の震えがオークの怪力を物語っていた。
手だけではなく、脚までもが震え出しそうになるのを必死に堪える。
地面から斧を引き抜いたオークは休む暇を与えまいと迫ってくる。まだ痺れが残る手で剣を強く握る。
そこからの戦闘はあまりに一方的で、もはや『戦闘』とは呼べないものだった。ただの『暴虐』が繰り広げられた。
怪力で斧を振り回すオークに対し、辛うじて躱し続けるソーマ。時折、斧が体を掠めて傷が走ることもあった。
僅かな隙を見つけては懐へ飛び込むと剣で腹を斬り裂いた。だが、またしても分厚い肉に阻まれてしまい大した傷にはならない。
すぐに距離を取ろうと跳び退こうとしたが間に合わず腕を掴まれ、オークの怪力で思い切り放り投げられてしまった。体が宙に浮く感覚に包まれたのも束の間だった。突然、背中をドスンッと凄まじい衝撃が襲い、肺に溜まっていた息が全て吐き出る。
樹に背中を打った衝撃が全身を伝い、少し遅れて痛みに襲われる。地面へ落ちた衝撃で更に体が痛み、「うっ」と呻き声を漏らす。
どれだけ投げ飛ばされたのか分からない。けれど、オークの足音が近付いて来るのは分かる。
痛みに蹲っている余裕は無かった。バクバクと鼓動と鳴らす心臓は疾うに限界を超え、悲鳴を上げている。全身を激痛が駆け巡っていた。
それでも動かずにはいられない。ここでソーマが倒れればシロナは殺されてしまう。
どれだけ体が痛もうと、恐怖で脚が震えようと、敵が自分よりも強かろうと、ソーマは立ち上がり続ける。
剣を握り直すとオークに向かって駆け出す。
ソーマの首を狙ったのかオークは横薙ぎに斧を振り払う。咄嗟に身を屈めて斧を躱すとオークの脚を狙って剣を振り被る。
しかし、オークの足蹴がソーマの腹部を直撃し、軽々と中空へ吹き飛ぶ。
口から血を吐き出しながら地面へ落下する。ソーマは受け身すら取れずに背中から落ちた。
倒れるソーマをジッと見つめ、動かないことを確認したオークはシロナの方を振り返る。まだ生きているシロナの息の根を止めるためにノソノソと歩き出す。
ピクリとソーマの手が動き、オークは足を止めるとまだ意識があることに僅かな驚きを見せた。
ソーマは仰向けに倒れていた体を寝返えらせ、地面に手を突く。そしてフラフラと揺れながら立ち上がる。
口から血を垂らしながらも剣を握って身構える。
「……おい、オーク。僕はまだ生きているぞ。……お前の相手は僕だ!」
虚勢にしか思えない叫びだったけれど、オークの注意を向けるには十分だった。
とはいえ力は殆ど残っていない。全力で剣を振れるのは一回か二回が限界だろう。
それでもまだ諦めていなかった。ソーマの青い瞳はまだ光を完全に失っていない。
オークは再び走り出し、迫り来る。
人間の力で分厚い筋肉の鎧を斬り裂くことは至難だ。力が弱っているソーマなら尚更だ。
だが、まだ使っていない手を一つだけ残していた。
あまりに危険な賭けではあるけれど、もうこの手しか無かった。上手くいく保証はどこにもない。藁にも縋る思いとはこういうことを言うに違いない。
これが最後の抵抗になるだろう。もしも失敗すればソーマは二度と立ち上がれなくなっているはずだ。
覚悟は疾うに決まっている。
シロナを護れるなら何だってする。それがソーマの生きる意味だから。
ふと、チャドの言葉を思い出す。
『どうして役立たずのモンスターを連れているんだ?』
その時は誤魔化していたけれど、本当の理由があった。
出来損ないだと家族に捨てられ、ソーマには居場所は何処にも無かった。
マスターを失って途方に暮れていたライカというモンスターの少女を見た時、捨てられることの辛さを知るソーマは息苦しくなるくらいにライカの辛さを理解できた。
捨てる側の人間は捨てられた者の気持ちを考えることは無い。おもちゃを捨てる時に、おもちゃの気持ちを考える子供がいないのと同じことだ。
捨てる方は簡単に捨てる。捨てられた者がどれだけ辛く、絶望するか想像もしない。
でも、ソーマは捨てられる辛さを知っている。だからヘボドラゴンと呼ばれようとシロナを見捨てたりはしなかった。
シロナに自分と同じ想いをして欲しく無いから。
それがシロナを捨てない理由の一つだった。
もう一つは、ソーマを必要としてくれるのがシロナだけだったから。誰も必要としてくれないソーマを必要としてくれるシロナの力になりたい。それだけの理由だった。
マスターがいなければモンスターは生きていけないからソーマを必要としているのは理解している。仕方がなく必要としてくれているのかもしれない。もしかしたらマスターになってくれる人間なら誰でも良かったのかもしれない。
それでも構わなかった。初めて自分を必要としてくれたことが嬉しかったのだ。
シロナが居場所を与えてくれた。そのシロナを失うということはソーマにとって生きる理由と居場所を失うということだった。だからこの命を賭してでも護らなくてはいけない。
シロナという存在が満身創痍のソーマに一握りの勇気を与える。
オークが振り下ろした斧の一撃を剣の根元で受け止める。もはや攻撃を往なす体力は残っていない。意識は霞み、ソーマの体を支えているのは気力だけだった。
次々とオークは腕を振り回し、斧を雨の如く浴びせてくる。辛うじて剣で防ぎ、致命傷は避けているけれど斧を受け止める度に腕や脚の筋肉は切れ、骨は軋む。
攻撃を往なせない理由はもう一つあった。
ソーマが残していた最後の手を準備するためには時間が必要だった。
その準備をする為には意識を集中させる必要があり、オークの攻撃を往なす為に集中力を削いでいては準備が出来ない。だから最小限の意識でオークの攻撃を防ぎ、準備が終わるまでの時間を稼ぐ必要があった。
オークの拳をバックラーで受け止めるも吹き飛ばされてゴロゴロと地面を転がっていく。
ソーマはプルプルと体を震わせながら起き上がるとオークが腕を振り被っていた。
咄嗟にバックラーで防ごうとしたが間に合わず、突き出された拳がソーマの顔を捉えた。
「――ッ!」
呻き声を漏らすと共に後頭部と背中を地面に叩きつけられた。体はボールのように跳ね、口から夥しい血を噴き出す。
一瞬、意識が飛びかけた。
辛うじて意識を繋ぎとめたけれど地面に叩きつけられた衝撃と痛みですぐに体が動かせない。
倒れるソーマの頭を目掛けてオークは斧を振り下ろす。躱せるはずもなく斧は落とされた。
衝撃で地面は割れ、土煙が高く舞い上がる。
その土煙が晴れるとソーマの体はまだ動いていた。
斧を振り下ろされる寸前に左腕だけを動かし、バックラーで斧を受け止めていたのだ。
だが、バックラーではオークの膂力から振り下ろされた一撃を完全に防ぐことは出来ず、バラバラに粉砕してしまった。辛うじて斧の軌道を逸らし、頭に直撃することなく斧は地面に深々と減り込んでいた。
どうにか掴み取ったその数秒がソーマに希望を生む。
準備が終わったのだ。
ソーマは雄叫びを上げながら剣をオークの右手に突き刺す。斧を持ち上げようとしていた手に剣を突き刺され、斧から手が離れる。
オークは左手でソーマを押さえつけると唾を撒き散らしながら怒りに満ちた叫び声を上げる。
剣が刺さったままの右手を振り被って殴り殺そうとしてくる。
「……これでも喰らえ、豚野郎!」
オークの顔を目掛けてソーマは右手を突き出す。
「焼け――火炎の魔法〈フレイム〉」
ソーマが魔法を口にするとオークの眼前に突き出された手から突如、火炎が噴き出した。
豚の頭は火炎に呑み込まれ、目と皮膚が焼かれていく。更にオークは叫び声を上げていたことで開いていた口から火炎が入り込み、喉と肺が焼かれた。
完全に不意を突いた一撃だった。
魔法が使えるならどうして最初から使わなかったのかと、誰かが見ていたら思っただろう。しかし、それには訳があった。
ソーマには魔法の素質が無かった。それ故に王立士官学校では落ちこぼれと言われ、特に魔法の成績は最下位だった。
才能が無くとも普通に魔法が使える者なら一日で三回は魔法を使える。それに魔法を放つのに時間もあまり掛からない。
だが、ソーマは違った。一日に一回しか魔法は使えず、魔力を集中させて魔法を放つまでに倍以上の時間を要した。その間、魔力を集めることに意識を集中させなくてはならず、とてもではないけれど実戦で使える代物では無かった。
諸刃の剣とも言える魔法に全てを賭けて、そしてソーマは賭けに勝った。
いや、まだ倒してはいないのだけれど、オークは頭を火炎に焼かれ踠き苦しんでいる。
オークは地面に倒れ、手で顔の炎を消そうとしている。
その姿を見下ろすソーマはオークが使っていた重い斧を拾い上げると頭上に振り被った。
「……僕の勝ちだ」
火炎に包まれた顔面を目掛けて重い斧を力一杯に叩きつける。顔を覆っていた手ごと砕き、何度も何度も斧を振り下ろして頭蓋を叩き割った。
斧を振り下ろしたのが十回を超えた頃、オークがピクリとも動かなくなっていることに気付き、ソーマは斧を手離す。
オークの醜かった顔は原型すら留めておらず、熟れた果実を踏み潰したような有様だった。
(倒した……んだよな? 僕がオークを……)
オークを倒したことが俄かに信じられず、まだ動き出す気がして目を離せない。
ゼエゼエと肩で息をしながら、しばらく見ていたけれどオークが動く気配は無かった。少し遅れてソーマはオークを倒したのだと実感する。
手負いだったとは言えオークを倒せたことは奇跡だった。
素直に嬉しかったのと安堵感から「ハ……ハハハッ」と疲れた笑い声を上げる。
「おい、ヘボドラゴンのマスター。笑える余裕があるなら逃げられたんじゃねえのか?」
ソーマはオークに突き刺した剣を引き抜きながら声の方を振り返るとチャドと目が合う。
他の義勇兵はまだオークとの戦闘が続いているけれど、オークの数は半分になっていた。彼らのモンスターの足元にはオークの死体が転がっている。
「ってお前、目、死んでるけど……本当に生きてるよな?」
「……ええ……どうにか」
「お、おう……」
今の自分がどれほど酷い顔をしているのかチャドの引き攣った顔が物語っていた。街を歩けば皆が道を空けるくらいには酷い顔をしているに違いない。
声を出すだけで肺と心臓にビキビキと痛みが襲った。
「弱いくせに出しゃばるから、そんな目に合うんだよ。分かったヘボドラゴンを捨てて新しいモンスターを手に入れるんだな」
ソーマは痛む胸を押さえながらチャドを睨むと「――でも」とチャドは言葉を続ける。
「でも……よくやった。モンスター無しでオークに勝てる人間なんて初めて見たぜ」
チャドの言葉に続くように他の義勇兵も「ヘボドラゴンのマスターのくせに根性あるな」と言葉を掛けてくる。
褒められるなんて思っていなかったソーマは「あ……はい」としか言葉が出なかった。
そもそも褒められた経験が乏しいソーマは褒められることに慣れおらず、胸の奥に心臓の痛みに混ざって感じた事の無いむず痒さを覚える。
しかし、素直には喜べなかった。
ソーマは背後を振り返ると樹に凭れて気を失っているシロナを見る。
生きているのが不思議なくらいの傷を負い、シロナの小さな体は血塗れだった。普通の人間だったら間違いなく死んでいる。
「……何も、護れなかった」
ソーマは悔しそうに顔を歪めた。
オークは倒したけれど、シロナを護れなかった。
褒められる資格なんて無かった。
ソーマは傷だらけの足を引き摺ってシロナの元に急ぐ。
「……マス……ター? ご無事……ですか?」
微かに意識を取り戻したシロナは虚ろな目を覗かせる。
「ああ、僕は無事だよ。シロナのおかげだ……ありがとう」
「……よかったぁ。……私……マスターの……役に立てましたか?」
「勿論だよ。シロナが僕の命を救ってくれたんだから」
「よか……った」
薄ら微笑みを浮かべたシロナは再び眠るように気を失った。
(……本当に、ごめん。僕がもっと強ければシロナを傷付けずに済んだのに……ごめんね)
そっとシロナの小さな体を抱き上げるとスース―と寝息が聴こえてくる。
「もうすぐ戦いが終わるから……。街に帰ったら美味しいものを食べよう」
ドオンッと何かが倒れる音が森に響き、ソーマは首を振り返らせる。
チャドのモンスターが最後のオークを倒し終えたところだった。
魔獣の群れは全滅し、危機は過ぎ去った。
(……ようやく終わった)
時間にしたら短いけれど、何だかとても長い戦いが終わったような気分だった。
チャド達も互いの健闘と無事を喜び、称え合っていた。さすがの彼らも緊張していたのか安堵の表情を浮かべている。彼らのモンスター達も傷だらけになりながら戦いを終え、脱力していた。
「なーに、辛気臭い顔してんだよ。オークに一人で勝ったんだから喜べって」
立ち尽くしているとチャドが駆け寄ってきた。
「あ、ああ……ごめん」
「何を謝ってんだよ。お前がいなかったらあの大量の魔物の群れに勝てなかったかもしれないんだ。助かったぜ、ヘボドラゴンのマスター」
「いや、だからその、シロナをヘボドラゴンって呼ぶのは――」
やめてください。そう言おうとした時、言葉をピタリと止めた。
ソーマの顔がみるみると青ざめていく。
(……何でだよ。どうして……こんなところにいるんだよ)
ソーマはチャドの顔越しに見えた光景に目を丸くし、呆然とする。
他の二人の義勇兵とそのモンスターは魔物の群れを倒した安堵感から気を緩めていた。もう魔物はいないと思っていた。
そんな彼らの背後、森の奥から姿を現したのはオークよりも更に巨大な牛頭の魔獣、ミノタウロスだった。
突如、樹の影から湧き出たのではないかと思えるくらいに前触れも無く現れた。
その存在に最初に気付いたソーマが叫ぶ。
「にげろ!」
だが、遅かった。
その叫びを聞いた義勇兵とモンスター達が背後の気配に気付き、振り返ると同時に一体のモンスターの上半身が吹き飛んだ。




