第百八十五話:魔女モルガンが生まれた日
これは彼女が魔女騎士団のモルガンとしてVRハードを使う25年前、まだフルダイブ技術が夢見られていた頃のお話。
朝田 亜墨。彼女がこの世に生まれ、魔女騎士団のモルガンとして名乗るまでのお話。
そして、彼女の人生は40年間で一度たりとも努力が報われず、不幸に見舞われるものであった。
「亜墨。幸せな人生と言うものはな、良い学校に入学し、良い会社に入り、高い給料を貰うことだ。
父さんたちには出来なかったことだが、努力家のお前なら出来るはずだ」
「……うん、わかった。私、頑張るよ」
当時12歳の亜墨は父親の教えを忠実に守るべく、勉強を始めた。
元々勉強をすることは嫌いではなかったし、高校からの受験に備えるためだと思えば苦ではなかった。
故に中学に入学してからは高い成績を誇り、クラスの生徒からは妬みの眼差しを向けられた。
「朝田さんってさ、何考えてるかわかんないよね。何話しても興味なさそうだし」
「勉強ばっかりしててさ、親に何言われたんだろうね」
「つーか、アイツが平均上げるせいで教師もうるさくなったよな、マジ邪魔だわ。消えりゃいいのに」
ただ高い成績を取るための行動しか取らない彼女と親しくなる者などはいなかった。
何故なら亜墨はとてもつまらない人間で、彼女の行動の全ては自身の学歴を築き上げるためのものに繋がるからだ。
(……何とでも言えばいい。私は幸せな人生をつかみ取って見せるんだ、お父さんたちが出来なかったことをやれれば、きっと沢山褒められるはずなんだから)
そして亜墨が進級して中学二年生になった時、母親が身籠った。
夜中に勉強をしているときに両親の寝室から何やら物音が聞こえていたことを、亜墨は思い出した。
(勉強の邪魔だなぁって思ってたけど、子供を作ってたんだ……どうやってたんだろう)
「子供、出来たんだ」
「えぇ。これからはあなたもお姉ちゃんね、亜墨」
亜墨は自分が一人でなくなる、と言うことはまだわからなかったが、嬉しかった。
家族が増えると言うのは、いつの年齢になったとしても幸せな感覚になる。
「私、生まれてくる子にカッコいい姿を見せられるように頑張るよ」
そうして亜墨はいっそう勉学に励み、父からの期待に応えるべく努力を続けた。
父に認められたい、父の叶えられなかった理想をこの手で成し遂げたい、その思いを抱いて。
「……また、夜泣き?」
「そうなの。この子、とっても元気で大変だわ。それに、もう一人いるわけだし……ごめんなさいね、亜墨。迷惑になっちゃって……」
亜墨が中学三年生の受験期になる頃には、母親は長男をあやしながらも第三児を身籠った。
父親の計画性のなさにため息が出たが、それでも亜墨は何とかなると思って我慢をしていられた。
夜中に子供が泣き、ただでさえ少ない亜墨の睡眠時間が削られようと、亜墨は耐えた。
(お父さんとお母さんだって子育てで苦労しているんだろう。だから、私一人が困った顔なんかしてちゃダメだよね)
子供に罪はないのだから、寝たければ寝ていても平気な分の勉強をして頑張ればいい。
どうしても眠ければ頬を抓ろう、コーヒーを飲もう、成功する自分を思い浮かべて耐えよう。
亜墨はそうして自分の体に鞭打ってシャーペンを握り、目の下にクマを作りながらも勉強をした。
「……偏差値の高い高校に、入らなきゃ、私に生きる意味なんてないんだから」
両親に、弟に、新しく生まれてくるであろう子供に、出来る自分の姿と言うものをしっかりと見せたい。
体育祭や文化祭のような学校の行事ではロクにその姿を見せることは出来なかったのだから。
(勉強しか出来ないんだから、勉強くらいいい結果を出さなかったら、褒められるどころか呆れられちゃう……頑張らないと!)
ならば、せめて受験を成功させて両親を安心させなければならない。
亜墨はその使命感に憑りつかれたように勉強をした。
しかし。
「……あ、れ?」
亜墨は自分の体を労わると言うことを考えたことすらなかった。
故に、彼女は最後の最後で自分の体が限界を迎えていたことに気が付かなかった。
バタリ、という音と自分の目線がやけに下の方へ向かっていたことでようやく気が付いた。
自分が倒れてしまい、本命だった高校の受験に失敗してしまったことに。
「……大丈夫、大丈夫、まだ次があるから。だから心配しないで、お父さん、お母さん」
「……あのな、亜墨。父さんたちは──」
「私は大丈夫だから、まだやれるから、大学受験だけは失敗しないから、絶対に成功して見せるから。不安に思わないで」
「亜墨、ちゃんと話を──」
「大丈夫。お父さんたちのお願いはわかってるよ。ちゃんとやり遂げて見せるから、大丈夫、大丈夫」
亜墨は両親にそう告げ、弟や新たに生まれた妹の面倒を見ながらも勉強を続けた。
滑り止めで入学した高校とは言えど、そこで成績をトップにすることさえ出来なければ話にならない。
(部活も遊びもアルバイトもやってる暇なんか私にはない、誰もが勉強以外のことをしている間でも、私は勉強をしなくっちゃダメだ)
亜墨は自分が決して天才ではなく、むしろ他者よりも劣っている人間だと自覚している。
だからこそ、誰よりも輝ける未来を手にするためには誰よりも努力し、誰よりも無茶をしなければならない。
「頑張らないと。私が頑張らないと、皆不安になっちゃう。頑張れ私、私頑張れ」
亜墨は両親のことを思い、弟や妹のことを思い、がむしゃらに努力を続けた。
風邪を引いてしまっても、うっかり車に轢かれて大怪我をしても、勉強のために手を動かした。
利き手が動かなければ逆の手と足でペンを使えるようにした。
「私には才能がない、でもいっぱい努力した、沢山努力した、きっとできる、私ならできる」
亜墨は鏡の前でブツブツとそう言いながら、自分の顔のクマをそっと撫でた。
睡眠不足な体は重く、軽く走ることすら億劫になっていた。
(体が動かしづらいけれど、こうでもしないと勉強時間が減っちゃうもんね)
「ふふ、私らしい色。私の努力の証。私だけの証」
亜墨はそう呟いて自分の心を落ち着かせると、また勉強を続けるためにペンを取った。
自分の生まれて来た意味を証明したい、両親を安心させたい、弟たちに自分の勇姿を見せたい。
亜墨はそう思い、今度こそ失敗しないのだと決意して大学受験へと挑んだ。
しかし、不幸と言うものは一度訪れただけで亜墨を放してくれるような物ではなかった。
「君! 危ない! 避けろ――っ!」
「? っ、え――」
運が悪い話だった。交通事故に遭うと言うものは、人が生きる中でそうそうあることではない。
故に、高校二年生の頃に一度軽自動車にぶつかられたことのある亜墨ならもう二度と事故に遭わないと思っていた。
しかし、亜墨は運がとても悪かった。
「な、に……が……」
飲酒運転をしていたトラックの運転手の暴走運転により、亜墨は大事故に巻き込まれた。
大学受験当日の中の交通事故という不幸を重ねた不幸の中ではあるが、幸いにも亜墨は助かった。
(私、どうなったの? 腕が、動かない 指が、変な向きだ どうしよう、今日試験なのに これじゃ褒められる結果なんて、出ない なんで)
吹き飛んだ先が偶然にも柔らかな布団を買い、そのまま背負いながら帰路についている通行人の荷物だったために後遺症を残すことなく生還した。
トラックに轢かれるというのは普通の人間なら死ぬのが当たり前、それで生きていた亜墨は運が良かった。しかし、亜墨は絶望した。
「……なんで、私は不幸な目に遭うんだろう」
亜墨は体中に包帯を巻きつけ、ペンを握れない両腕を見て呟いた。
推薦で受けた大学だったとしても、試験会場に足を運べなかった時点で亜墨が大学に合格することはなかった。
(指定校推薦なのに……あれだけ頑張って取れたのに……たまたま事故に遭っただけなのに……どうして)
例え亜墨が交通事故に遭って入院しているのだとしても、世間はそんなことを考えてはくれない。
ただ来なかっただけの人、亜墨はそれだけの理由で大学受験にまで失敗した。
「まだ、まだある……学歴が全てじゃないから、まだ、未来はある」
亜墨は一年間浪人生活を送ったところで、別の短期大学の試験に合格して入学を果たした。
自分がかつて不合格となってしまった場所は、入院生活のせいで勉強が足りずに受けることすらはばかられたから。
(でも、まだ終わりじゃない。大学が微妙でも、私にはまだ進める場所がある、お父さんの願った未来を掴まなきゃ)
「お父さん、お母さん。安心して、私は頑張るから。卒業したらすぐに就職するから。
今も就職先になる場所の目星はつけてるから大丈夫だよ、きっと大丈夫だから。
だからそんな目で見ないで、私は平気だから、私は大丈夫だから、安心して」
「亜墨、お前……そんな、無理ばっかりして……」
「大丈夫。無理じゃないから、私なんかにも出来る努力だから、無理なんかじゃないから」
「亜墨! ちょっと待ちなさい! 父さんは、もうお前に苦しんでほしくなんか──」
「大、丈夫。大丈夫だから、もう何も言わなくていいよ」
いつしか両親の期待の眼差しは、亜墨に対する哀れみの目に変わっていた。
しかし亜墨は自分が哀れだと思わなかったし、思われたくもなかったし、思いたくなかった。
「ねぇ見て、朝田さんところのお子さんよ。凄く危ない歩き方してるわ」
「夜中までずーっと勉強なりなんなりしてるみたいよ。ご両親は一体何をしてるのかしら……はー、まったく可哀想な子ねぇ」
(私は可哀想なんかじゃない、自分がそうしたいって思ったからやってるんだ。だから誰にだって私のことを止める権利なんかない)
故に両親の言葉からも耳を閉ざし、8年前に言われた言葉だけを胸に抱いて足を動かし、手を動かした。
そうして大学を卒業してからは、就職活動へと身を乗り出した。
「うーん、悪いんだけどね……君はウチには向いてないかなぁ。ほら、この会社とかどうかな。今新しい支社を作って人とか足りないみたいだからさ」
「……ありがとうございました」
しかし、ただ勉強が出来るだけの亜墨を雇おうとする会社は中々なかった。
父の勤めていた会社は既に人材が足りていたし、コネで入社しようにも亜墨の父にそれが出来るほどの権力はない。
故に亜墨は、自力で就職できる会社を探さなければならなかった。
「大丈夫、皆とスタート地点は大体同じ。入社できる場所はある、きっと大丈夫」
亜墨の目の下にはくっきりと大きなクマが出来ていたが、亜墨は我慢した。
眠る時間を削り、食べる時間を削り、自分の趣味や娯楽は何一つとして無くした。
(時間がもったいない。少しでも多くの企業を探さないと、お父さんたちはいつまでも私を養ってくれないから、一日でも早く職に就かないと。それに、沢山のお金を稼ぐには早くから働かないと意味なんてない)
少しでも多くの会社の面接を受けられるように、少しでも多くの会社の情報を知るために。
彼女は足を運び、目で見て、耳で聞き、頭の中を就職先の候補だけで埋め尽くした。
「字はキレイに書かなきゃ、間違えちゃいけない、大丈夫」
何度も何度も不採用の烙印を押されながらも、亜墨は新しい履歴書を書く。
目の光が消え、笑うことのなくなった顔を張りつけた履歴書を出す。
字だけは、誰よりも綺麗な履歴書を。
「今度こそ、今度こそ就職できるから、きっとなんとかなるから――」
その言葉を何度も自分に言い聞かせ、亜墨はビル街に足を運び、面接を受け続けた。
顔のクマは化粧で無理矢理誤魔化し、動きが鈍い体には痛みを与えて動かす。
(動け。動け、足を止めちゃダメ。言葉を詰まらせちゃダメ。笑顔を作って、口角を上にあげて。頑張れ、私)
一秒たりとも時間を無駄にせず、両親を安心させられるようにと亜墨は止まらない。
しかし、亜墨にはまたも不幸が訪れてしまった。
「あのう、すみません。道をちょっと教えて貰いたいんですけどー……」
「……どちらまで、ですか?」
「ちょっと友達とパーティーする予定でぇ、ここのとこなんですけどー」
「そこなら近くまで私も行く予定だったので、案内しますね」
地図アプリを表示させた携帯片手に尋ねて来た男の隣を亜墨は歩く。
親切なことをしていれば、きっと何か見返りが来るかもしれない、と亜墨は思った。
だが、世界が亜墨を嫌うように、亜墨に見返りなんてものは来なかった。
「ハハッ、馬鹿な女もまだまだいるもんだな」
「ホントホント、就活生なのにこんなのに引っかかるかねフツー」
「まーいいじゃん、おかげで楽しめたんだしさ」
来たのはただの仇であり、亜墨は誰とも知らないような男たちを前に純潔を散らした。
しかし、亜墨にとってそんなことは些末な問題だった。
(あぁ、痛かったな……乱暴だったな……痣とか出来てないかな、顔とかに傷があったら、どうしよう)
好きな男がいるわけでもなかったし、結婚をしたいとも思っていなかった亜墨はそんなことは無頓着だった。
ただ脳に浮かんでいたのは――
「面接……行けなかったな」
自分が行く予定だった会社の面接のことに関してだけだった。
「……スーツ、買わなきゃ」
破かれて外れたボタン、切れた裾、汚れて破かれたシャツ、千切れた髪紐、血や体液で汚れたスカートを見て、呟いた。
亜墨はまたお金がかかる、両親に迷惑がかかる、等と思って帰路についていた。
(歩きづらい……体が前よりずっと重い……股が痛い、上手く歩けない……)
その足取りは一歩間違えれば頭から転ぶような物だったが、亜墨は転ぶことよりも早く家に帰れないことを気に病んでいた。
亜墨は父から託された願いを叶える事だけを考えていたので、他の事を考えてなどいなかった。
「うっ、ぷ……うぇっ……気持ち、悪い……なに、これ……」
しかし、その亜墨の思考が原因で亜墨にはまたもや不運なことが起きてしまった。
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……! お腹が凄く張ってる……なんで……)
「うえっ……かはっ、ぐっ、うえ……うぇぇぇっ! げほっ、ごほっ……!」
何故か不自然なまでに吐き気が毎日のように訪れて、亜墨は胃液を便器にぶちまけていた。
体は更に重くなり、亜墨の腹は不自然なまでに出っ張り始めた。
男たちに襲われてからどれだけ経ったか、と亜墨は思った。
「はぁぁぁ……私って、ホントに……馬鹿だ……」
亜墨は更に深いため息を吐き、自分の愚かさを呪いに呪った。
半年もの間、自分の妊娠に気付かないでいた亜墨はもう堕胎など出来なかった。
誰とも知らないような男の子を宿し、病院での検査を受けた。
(生理が来てなかったから、気付けたハズなのに……間抜けにもほどがある、私……)
「朝田さん、貴女自分の体に無頓着すぎますよ」
「……すみません」
亜墨は医者に頭を下げ、就職活動を停止せざるを得なかった。
自分の夢にだけ向かい続けたせいで、両親を安心させるどころか不安にしてしまった。
亜墨はそのことを悔やみ続け、早く時が過ぎて欲しいと思い続けた。
だが、宿った子供や今自分を不思議そうな目で見る弟と妹に罪はない。
(よくわからない人の子供でもあるけど……私の子供であるんだ、だから、キチンと育てなきゃ)
亜墨は出来るだけ笑顔を浮かべて弟たちと接し、早く子供が生まれてくることを祈った。
早く就職活動をしたい、早く就職して両親を安心させたい。
亜墨はそう強く思いながら、子供が生まれて来るまでの時間に我慢をして過ごした。
「……やっと、行ける」
亜墨は新たなスーツを身に纏い、生まれた子供の世話を母に頼んでから就活を再開した。
子供は無事に生まれ、元気な女児としての生をこの世に受けた。
弟たちにとって姪だが、年齢は近いのできっと仲良くなるだろうと亜墨は思った。
しかし、思ったのはただそれだけで、亜墨はもう仕事のことだけに頭を傾けた。
「やっと、決まった」
妊娠してからは幸か不幸か、子供を労わるために自分を労わることが出来た。
不健康そのものだった生活リズムが変わり、亜墨の目元にあったクマはなくなった。
加えて、子供の栄養のために食事をバランス良く取ったことで亜墨自身の体も好調になり、痩せこけた頬は少しふっくらと肉がついた。
そのおかげで見た目の印象も良くなり、面接を通って就職することが出来た。
「よかった、私、ここから頑張れる」
(前よりも体が軽い。心も晴れ晴れとしてる、子供の存在も愛おしい……!)
両親を安心させるために、沢山のお金を稼げるのだと亜墨は喜んだ。
きっと両親も自分に『よくやった』と言ってくれると亜墨は期待した。
しかし、亜墨の聞いた言葉は違った。
「もう、休んでいいんだぞ。亜墨、お前は頑張りすぎたんだ」
「そうよ、亜墨。貴女は自分の子供との時間を――」
母親が言葉を終える前に、亜墨は思い切り卓を叩いた。
バァン、と何かが破裂するような音と共に、亜墨が会話の主導権を握り始めた。
「なんで?」
「あ、亜墨……?」
「なんで、私の頑張りを否定するの?」
亜墨は両親の言葉に耐えられなくなり、その場で卓を思い切り蹴飛ばした。
そしてすぐに自分の部屋にこもり、就くことが出来た会社での業務内容を頭に入れ始めた。
(手が痛い、足も痛い、無駄な時間と労力を使った、無視すればいい言葉に耳を傾けすぎた)
まだ認めて貰えないのなら、出世して良い立場について、両親の理想をも越えなければならない。
故に亜墨は会社内での成果を上げるべく、また自分を無茶な方向へと追いやり始めた。
「お父さんたちの期待に応えるだけじゃダメなんだ、期待以上にやらなきゃ。
そうでないと、私に意味はないんだ、誰かのレールを走るだけじゃダメなんだ」
今度の亜墨は自分にそう言い聞かせて、また自分の体に鞭を打ち始めた。
自分の新たな目標のために、手段を問わずして会社で出世できるようにならねば。
例え労働時間が法外のものだろうと、上司がどれだけ理不尽なことをして来ても。
「朝田ー、この仕事やっといてー」
「俺たちは帰るけど、朝田は仕事終わるまで帰んなよー?」
「……はい」
(仕事を沢山頼まれた……私は期待されてる。これなら、きっと昇進して沢山のお給料だって貰えるはず。やっとゴールが見えてきた……! 頑張れ私、私頑張れ! もう少しだ!)
少しでも自分が成果を上げられるように、少しでも働かないといけない。
亜墨はそうして無理やりにでもと自分の体を突き動かし──
「はい。今日付けで渡辺さんが係長に昇進いたします。沢山の仕事を夜遅くまで頑張り、たゆまぬ努力で早くに道を駆け上がった渡辺さんに、皆さん拍手」
「仕事を沢山任せてくださった先輩方のおかげです。同期の朝田さんにも助けられ、今の地位に至れたことに感謝します!」
(……渡辺さん、いつも定時で帰ってて、自分の分の仕事も私にやらせてたハズ。なのに、なんでだろう……私は平のままなのに)
ただひたすらに、無駄な時間を過ごした。
手柄は全て上司や同僚に気付かぬうちに奪われ、不器用な亜墨だけが損をし続けたのだ。
「あれ……今、私、何歳だっけ」
(労働時間は覚えてる、けど……歳、いくつだっけ)
気付けば亜墨は自分の歳すら忘れてしまう程自分のことを考えなくなった。
ただ自分が今どれだけの金を稼げているか、自分がどれだけ働けているかを考えていた。
また顔にクマを作り、体をボロボロにしながら会社へ足を運んだ。
「私は、出来るから……頑張れるから……大丈夫……頑張れ私……私、頑張れ……」
(この部分、何色で文字書いてるんだっけ……設定変えてるのに、文字が全部灰色で、よくわかんない……)
生まれた娘の身長が160cmを超す頃には、亜墨は生気を失っていた。
もう目に映るものは全て灰色にしか見えず、聞こえる音も雑音だけだった。
ただ意識せず、無意識的に、ひたすらに仕事をするだけのことしか考えていなかった。
「大丈夫だから……大丈夫だから……私、頑、張れる……から」
亜墨は10年以上その会社で働いても出世することはなかった。
「見ろよ。ゾンビが日の光浴びながら仕事してるぞ」
「オイ、聞こえるだろ? でもゾンビはセンスあるな、お前」
「ハハッ、でもゾンビの割に長生きすぎだろ、10年務めてアレだぜ、あの人」
新入社員たちからは見下され、自分の後輩たちはどんどん出世し、幸せそうな笑顔で仕事をしていた。
ブラックな企業体制が改善されようと、亜墨自身の仕事の仕方は変わらなかった。
「朝田さん、恥とかないのかな。新入社員の方が成果上げてるし、取引先の会社の書類誤字だらけだー、って凄い怒られてたし」
「しっ、要領悪いからサビ残しないと仕事出来ないんだよ。昔の世代は割とそういう人いるし、仕方ないんだって」
故に常に陰口を言われ、嗤われ、時には蔑称で呼ばれ、関係のない仕事のミスを押し付けられることさえあった。
そんなことが続けば、どれだけ苦しいことにも気力だけで耐えてきた亜墨の心も体も、限界を迎え切って壊れてしまった。
「……大丈夫、じゃ、ない、もう、いやだ」
(もう何もしたくない……仕事なんて嫌だ……無意味だ、無価値だ……)
亜墨は布団から出られなくなり、スーツを着ることも出来なくなってしまった。
何故なら、自分の弟と妹は自分よりも余裕を持って、自分よりも出来る人間になっていたから。
本来亜墨が貰うはずだった才能を自分たちが貰った、と言わんばかりに弟たちは優秀だった。
「おぉ、やっぱり三人で遊ぶとタイムアタックも捗るね」
「一人でやるよりかなり縮まったし、やっぱりゲームはマルチに限るわ」
亜墨が学生時代に出来なかったことを彼等はやってのけた上で、遊ぶ余裕があった。
自分が学生だった時は娯楽に手を伸ばすことなんてなかったし、出来もしなかった。
なのに、弟たちは最新のゲーム機器をいじりながら高校受験と大学受験を成功させた。
「なんで、私には出来なかった、のに……なん、で」
(私、ゲームで遊ぶことも、テレビを見て笑うことも、知らない……!)
亜墨は人と喋らなくなったことでロクにでもしなかった声でそう呟く。
「僕は大手のところの内定貰ったよ。姉さんが昔受けてたおかげで、面接対策出来て良かった良かった」
「私も結構いいところに採用されたし、新卒なのに給料かーなーり貰えるみたいだし、良かったー」
明るく笑う弟たちはそのまま就活もあっさりと成功させてしまった。
彼等は行きたい道へと自由に行き、福利厚生がしっかりとした会社で働くことが出来た。
亜墨のようにどこかの会社の下請けをやっているような三流企業ではなく、様々な会社の上に立つ一流のホワイト企業だ。
(なん、で、な、んで……なんで……!? 私、二人よりも努力してたハズなのに……!)
「うーん、今日も上司に『嫉妬しちゃうよ』なんて言われてしまったよ。昇進の度に言われて、こっちも作り笑いが大変だよ」
「ま、その年で部長まで来ちゃったら、本当の嫉妬が向けられたっておかしくないよ、私も半分嫉妬してるし」
更に弟たちは若くして出世の軌道に乗り、正にエリート中のエリートとなっていた。
亜墨には10年以上かけても出来なかったことが、弟たちにはたった1年で出来てしまった。
(私って、なんのために生きてるの……? 仕事も出来なくて、もうやめちゃって、今は家に籠ってるだけで……! 何をすればいいの……?)
そのことに亜墨は耐えきれずに、自分の存在意義すらわからなくなってしまった。
だから、両親が言っていた通りに休み、自分の子供との時間を作ろうとした。
だが、亜墨はツケが回って来たと実感してしまった。
「きょ、今日の、晩、ごはん。何が、食べ、たい?」
「今更話しかけてくんじゃねーよ。死んだ魚みたいな目で見やがって……オレはお前が嫌いなんだよ、部屋にでも引きこもってろ」
言葉遣いが荒っぽくなった娘は、自分になつくことはなかった。
娘にとっては母と過ごすひと時ではなく、年齢の近い叔父や叔母とゲームで遊ぶ時間が大切だった。
だから、亜墨は娘と仲が良くなる方法を考えて実践してみることにした。
(お弁当を作る……ちゃんと話を聞く……娘の趣味を知る……)
「今日、は……お弁当、作った、から……持って、行って」
「いらねーよ。つーかアンタが料理してるとこ見たことねーから不安で仕方ねーし。忌み子だからって毒でも盛られてたらと思うと怖くて見るのも嫌になるわ」
娘は自分がどのようにして生まれたかを、いつの間にか知っていた。
それだけでなく、娘は自分が母親に良くない感情を向けられているのだと誤解していた。
(違うの、お母さんはあなたを嫌ってなんかないの、今まで何もしてあげられなかったから、今からでも仲良くなりたいの)
「ち、ちが、お、お、お母さん、は……」
「あ? 何言ってんだか聞こえねーよ! 娘にくらいハッキリ喋れや!」
「ひっ!」
けれど、亜墨は娘にどう接するかを体で覚えていないため、頭でどれだけ言葉を考えても口に出せなかった。
思春期になって、生来の気性の粗さと母親に対する嫌悪感から、娘は言葉も強くなっていて、亜墨を委縮させる一方だった。
「ちょっと、そんな態度で接することないでしょ? 姉さんが折角作ってくれたんだから、お弁当くらい受け取りなさいよ。でなきゃ今後お昼代出さないわよ」
「はぁ、ったくしゃーねーな……んでこんなもん食うハメになるんだか……チッ」
妹が口添えしてくれたおかげで、娘は渋々と言った様子で亜墨の弁当を受け取った。
亜墨は妹から哀れに思われたような気がして、涙があふれてきそうだった。
(娘に嫌われてる……妹に哀れに思われてる……お父さんとお母さんにも、困った顔しか向けられてない……私、ダメダメだ……!)
しかし泣いてはならない、泣いてしまえばきっと涙がずっと止まらなくなるから、と亜墨は目をこすった。
絶対に泣いてはいけない、感情が爆発しそうになる心を無理矢理にでも抑えなければならないと思った。
「大、丈夫、きっと仲良くなれるから……親子だから……なんとか、なる、から……大丈夫、だから……!」
(ただの思春期で、親との接し方がわかりづらい年頃だって、本にもあった、だから、ちょっとすれば、ちゃんと話し合いだって……!)
亜墨は震える手で自分の胸をギュッと掴み、荒い息を整える。
しかし、亜墨は知ることがなかった。娘が自分の存在をコンプレックスに感じていることを。
「ね、ねぇ、きっ、今日、が、学校は、どう、だった?」
「あ? んで話さなきゃいけねーんだよ。どうでもいいだろ、元々興味ないくせに今更話しかけてくんなよ。
高校生になって巣立ちそうだから、家に留めて稼いでもらおうってか? 冗談じゃねえよ、またテメーで就職して働け」
父親が不明であり、母親は自分と口すら聞いてくれず、常に死にそうな顔をしている。
小学生の時から娘は自分の母親に対して、親愛だとか家族の絆だというものを感じることはなくなった。
中学生になろうと、高校生になろうと、娘は亜墨の存在を良く思うことなど一度だってなかった。
そして、娘のとげとげしい言葉はただでさえすり減っていた亜墨の心を串刺しにし、深い傷をつけた。
「あぁ、無駄だったんだ、全部……皆、何もかも……」
(”私”じゃあ、もう、娘と仲良くなる手段なんかないんだ……あんな目で見られてたら、仲良くなんて……)
理由を知ることがなかったとしても、亜墨は娘に完璧に嫌われていて、自分が母親として認識される限り好かれることはない、と自覚した。
故に、娘に自分と認識されない方法で好きになって貰うしかないのだと思い、娘たちの会話に聞き耳を立てた。
『そう言えば最近、SBOで気になるプレイヤーがいてね』
『ほう、とうとう兄にも運命の相手と言うものが来るものか』
『違うよ、別に恋愛的に好きとかそう言う話じゃあないよ。僕個人が楽しめそうな相手だよ』
『ちぇっ、つまんねーの。叔父さんもそろそろ恋人くらい探せよなー』
SBO。正式名称はセブンスブレイブ・オンライン。
娘や弟や妹がこぞって遊んでいたフルダイブ型VRMMOのことだ。
(これなら……二人にも、勝てて、あの子とも仲良くなれる、かな……)
例えゲームだったとしても、自分が何か一つでも弟や妹に勝ちたい。
故に、彼女はVRハードを頭に被り、ソフトをセットした。
『接続開始』
ただ一つ、努力することだけが得意だった亜墨は決意した。
「私はこの世界で娘との絆を育み、弟や妹を下す。そのためには手段なんか選ばない……!」
そのために、彼女は名乗った。
歴史においてアーサー王を苦しめ、モードレッド卿を王へと仕立て上げんとした魔女の名を。
弟たちが大好きだった物語を知り、彼らがその英雄の名を名乗るなら自分は徹底的に悪逆に徹しようと決めた。
「モルガン。私の名は魔女モルガンだ。私の味わった屈辱を、絶望を……この仮想世界で、あの二人に与えて見せる」
彼女が家族との時間を取り戻すのは、ここから約10ヶ月後の出来事である。
【朝田亜墨】
モルガンの正体である女性。
家族会議まで待ったなしだが、多分これ以上不幸な目には遭わない。




