異常識
「また、来たのね?」
一人ポツンと無機質な空間に取り残された少女は、窓際に飛んでくる雀に、いつもそう声を掛けていた。雀を見るその目は優しく、そして湧き水より流れる清流の様に穏やかだった。
彼女のいる小部屋の壁は白い――それも濁りの無い白では無く、使い古した色味が滲む白だ。そしてその色味が、少女を包む純白を異質な物に仕立てあげていた。
彼女は、この出口の無い場所で。
部屋の上に近い小窓から差し込む光を頼りに、生活している。
例えば、読み物や食べる物。飲み水もちゃんと用意してもらえる。ただそこに、足枷と鎖。
そして、背徳感を帯びた束縛があるだけ。生まれた時は覚えていないものの、物心ついた時から彼女はこうして生活している。
だからなのか、彼女はそれを、決して不幸だとは思わない。言ってしまえば、生まれた時からそう育てられたのだ。
それこそ、人とはずれた運命だとも思っていない。けれど、本で読んだ世界に興味を惹かれることはあった。
自由な生活がどれほど今の自分を変えるのか。その事に少女は好奇心を持たずにいられなかった。
「ねぇ、雀さん。私を外の世界に連れていける?」
もちろん、雀は何も答えない。
けれども、少女は何度も同じやり取りを繰り返していた。暇だから、という理由ではない。
現実に無知だからである。
名を持たぬ少女は、ヒンヤリと冷たい床に裸足で座っていた。膝を折り畳み、それを腕で包むようにして。
そうしていれば、何も自分に無いという虚無感に襲われることも無い。自分で包んだ腕の温もりが、何もない心を温度で満たしてくれるような気がするからだ。
後はただここにいて、私を飼っている人にいつも通りのことをすればいいだけ。
そう思えば、本を読んだ後の愚かな外の世界への好奇心も、己というものを考えた時の不思議でキリの無い感情も抑えられた。
けれどただ一つだけ、未だに恐怖という感情は抑えられない。
それは見知らぬ人が、自分の……自分だけの心身のテリトリーに介入してくるという恐怖。それも、何の躊躇も無く。
我慢など出来る訳が無い。嗚咽を催す時もある。けれど、少女に拒否権は無い。
まるで飼育されたフォアグラが、ただ食べられる為だけに肥やされるのと同じ理屈だ。
長い黒髪と、端正で愛くるしいその顔立ちはいつも洗って綺麗にしている。もちろん、体も綺麗にするため、毎日風呂に入らされる。
傷ついていて汚れていて、もう意味が無いのにと少女が思っても。
そして、この部屋に戻される。寝て、起きて。しばらくしたらまた呼ばれる、その繰り返し。
今日は、まだ来ない。でも、いつかは来る。明日もそう、明後日も、来週も、来月も、来年も。
きっと、ずっと繰り返し。
でもいつか終わるとしたら。
「その時は、私はあの光に辿り着けるかな」
小声で、少女はそう呟いた。
次第にドアの向こうから、彼女の呼ぶ声が聞こえ始める。
また今日も。少女は、自分の一日を他人に捧げる。
それが私たちよりもずっと不幸で、ずっと奇妙で、ずっと哀れなことだとも知らずに。
なぜなら彼女は、現実に無知だからである。
笹原蛍雪による1話完結の短編でした。なにか感じるものがあったなら幸いです。