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霧のはし 虹のたもとで  作者: 萩尾雅縁
Ⅱ.冬の静寂(しじま)
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76 ポリッジ

 僕はしくじったのだと思う。マリーが僕に望んだことは、こんなことではなかったはずだ。それなのに、僕は自分の中の欲望に負け、溺れた。

 アルビーの言う通り、僕は心の奥底で、ずっと彼が欲しかった。彼に触れたかった。抱きしめてその温もりに包まれたかった。もっと深く触れ合いたかったんだ。

 彼は僕の気持ちを知っていたから……。だから、応えてくれた。行きずりの視線に応えるように。それだけだ。


 僕はあの時、彼を駆りたてるものは何なのか、そのことを確かめなければならなかったのに。それなのに自分の欲に囚われ、忘れた。アルビーは、忘れるために僕に触れていることを、忘れた。


 仮初の一夜は、暁とともに夢に返る。


 僕は一人放り出された現実の中で、ぼんやりと成す術もなく崩れ落ちたまま。



 

 翌日は学校を休んだ。

 朝、キッチンへ下りて行かなかった僕を心配して、アルビーが朝食を作ってくれた。温かいポリッジを。僕はこの甘いオーツ麦の、お粥もどきが好きではないけれど、せっかくアルビーが作ってくれたので、申し訳なくて我慢して食べた。

「食べ終わったら学校へ行くから」と、無理に笑顔を作って早く大学へ行くように彼を促した。彼は、食べ終わるまでいる、と言ったけれど。僕は大丈夫だから、と。

 アルビーが見ている。だから我慢して食べた。ふらつく躰で起きあがった。お風呂に入るから、大丈夫だから、とやっと彼を部屋から追いだした。



 苦しい。心が。


 湯船にたっぷりと湯を張って浸かっていると、筋肉がバラバラに解けて散らばるような錯覚に陥る。まるで、人形(ビスクドール)の関節を留めているゴムがパチンと切れたように。バラバラになったパーツは、上手く繋がらない。離れ離れになった四肢をかき集めるように、僕は浴槽の中で丸くなる。アンモナイトになって太古の海に還るんだ。




 うつらうつらと、半日夢現(ゆめうつつ)ですごした。何も考えたくなかった。何もせず、ただ丸まっていた。開く前のシダの葉のように。


 アルビーが、いつもよりずっと早い時間に帰ってきた。気分はどうか、と額に手を当てる。僕のおでこよりも彼の手の方がよほど熱い。それから、欲しいものはない? と訊かれたので、僕は布団の中から腕を伸ばした。地中から伸びるシダのように。


 アルビーは僕の手を取って、掌に唇を押し当てた。目を瞑って、しめやかに。



「ベーグルを買ってきてくれる? 昨夜の鶏肉が残っているらしいから。夕食のサンドイッチにするよ」 


 微笑んでそう告げると、アルビーは頷いて立ちあがった。僕の手を握りしめたまま。

「ほかには?」

 僕はにっこりと笑ったまま首を振る。

「すぐ戻るから」

「ありがとう、アルビー」


 名残惜しそうに手を離し、アルビーは、ちょっと唇の端を持ちあげて微笑み返してくれた。


 静かに閉まるドアを見届けて、僕は深く嘆息していた。


 起きなければ。アルビーが心配する。昨日、食事当番だったマリーが買ってきてくれた総菜を食べてしまわないと。他に、何があるって言ってたっけ? スープと、サラダと……。そういえば、僕はキッチンを放りっぱなしだ。


 まだ怠さが勝って力は入らなかったけれど、昨日のような痛みは薄らいでいた。ベッドから這いでて、壁の姿見を覗きこむ。顔色が悪いかと思っていたのに、かなり赤く火照っていた。微熱があるのかな……。自分ではよく判らない。それに、そんなこと、どうだっていい。



 洗い物が山と積まれた汚れたキッチンを思い浮かべていたのに、蛍光灯の白々とした灯りに照らされるこの場所は、まるで誰も使用しなかったように、きちんと片づいていた。


 なんだか気が抜けてしまった。のろのろと冷蔵庫を開けて、テイクアウェイ用のケースに入ったままの、昨夜の残りを取りだして並べた。


 ローストチキン……。


 骨を外して、ナイフで細く裂き、同じく残り物のサラダと和えた。マヨネーズと、マスタードと……。もう、考えなくてもこれくらいの手順はこなせる。アルビーは黒胡椒が好きだから、たっぷりと振りかけて。



 ――食べることさえ忘れなきゃ、どうだって生きていけるもんさ。


 ふと、彼の口ぐせが思い浮かぶ。


 そうだね、火蜥蜴(サラマンダー)、僕もそう思うよ。食べることは、きっと生きる基本……。


 

 僕を喰べ尽くしたアルビーは、彼を喰らおうとしていた闇から、自分を取り戻すことができたのだろうか?


 




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