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霧のはし 虹のたもとで  作者: 萩尾雅縁
Ⅰ.秋の始まり
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5 腐海

 朝の最低気温が十二度をつけたある日のこと。僕の住む寮のシャワーのお湯がとうとう出なくなった。おんぼろボイラーが壊れたのだ。


 いくら空気が乾燥していてそんなに汗をかかないから、といっても、僕は日本人だぞ! 風呂――、はなしでも、シャワーなしの生活に耐えられるはずがないじゃないか!


 幸い引っ越し先は決まったし、アルビーも、マリーもいつ越してきてもいい、と言ってくれている。

 問題は、今月が後二週間も残っているってことだ。今引っ越したら家賃が二重払いになってしまう。マリーは日割りでいいわよ、って言ってくれたけれど、それでも痛い。

 行き先が決まるまでは、こんな部屋一日でも早く出ていってやる、って思っていたのに、いざいつでもとなるととたんに現実に目が向いてしまう。日割りにしてもらっても、二百ポンド。大金なのだ。なんとか月末まで我慢しなければ――。

 でも、でも、切実にシャワーを浴びたい。このジレンマで頭が沸騰しそうだ。



「コウ! 何しかめっ面して歩いているのよ!」


 マリーだ。彼女の後ろにアルビーがいないか、つい探してしまう。なぜか彼女にはこの大学図書館でよく遇うのに、彼を見かけることはない。いつものことだけどちょっとがっかりして、ちらりと彼女を見た。曇天だというのに金髪がツヤツヤと輝いている。ああ、髪の毛を洗いたい。

 ぼんやりと彼女の髪を見つめていたせいか、マリーがつんと顎をしゃくった。


「何よ、何かいいたいことがあるんなら言いなさいよ」


 彼女を見つめたまま、言うべきかどうか――。


「マリー、行こう」


 アルビーだ! すかさず振り返っていた。やっぱり――。


「シャワー使わせてもらえない? 寮のボイラーが壊れちゃって」

「ボイラー?」

「お湯が出ないんだ」


 彼に逢ったらまず一番に前回の失言を謝ろうと思っていたのに、口から出た単語は「シャワー」だった。


 深緑の瞳を縁どる長い睫毛を二、三度瞬かせて、アルビーはくいっと頭を傾け歩きだす。「ほら、行くわよ」と、マリーが僕の腕に自分の腕を巻きつけてきた。あの仕草は了承の(しるし)らしい。長身のアルビーはともかく、マリーと並んでも僕の方が背が低いなんて。ちょっと、しゃくだ。


 今に限ったことでなく、アルビーは驚くほど無口だった。マリーはあれで普通だと言う。だからシェアメイトの募集条件に、「寡黙」の文字があったのか、と僕は妙に納得した。最初はマリーがあまりにもお喋りだからそれに輪をかけて喋る奴がきたら喧しくてしかたないからか、と思っていたけどね。どうやら彼は、お喋りな奴が好きじゃないらしい。




 シャワーを借りて、その後お茶まで御馳走になった。アルビーは戻るなり自分の部屋に直行。僕はまだ彼に謝罪できていない。


 話題に困ってなんとなく、すぐに引っ越してこられない事情を彼女に話した。

 

 気のせいかな。

 彼女、僕の切羽詰まった状況を喜んでいるみたいにみえる。なんだか青い瞳がますます輝いているような。


「ねぇ、条件次第で今月の家賃、サービスしてあげてもいいわよ」


 やった! と思うよりも先に、僕の頭は、そんなうまい話があるわけないだろ。条件ってなんだよ、と警戒モードに入っていた。嫌な予感がするのだ。ごくりと唾を呑みこんでいた。


「条件って?」

「洗い物をして欲しいの。食洗器が動かなくなっちゃって」


 なんだ、そんなことでいいの? 


 僕は拍子ぬけて息をついた。マリーはにっこり笑って僕をキッチンに案内する。





 そこに一歩足を踏みいれて感じた異臭――。

 思わず目を逸らし、意識的に視界を遮らずにはいられないほどの。


 初めてこの家を訪れた日の記憶に残っている「清掃業者」の単語が脳裏をよぎる。


 シェアメイト募集メモ、間違っているだろ? 

 募集していたのは「掃除夫」じゃないの? 

 

 僕が選ばれた理由もこれで納得だ。綺麗好きの日本人は、各国共通の都市伝説だ。


 ちらり、とシンクを見やる。


 …………。ああ、食器が――、腐海の波間で溺れている……。断末魔の叫びまで聞こえてきそうだ――。


 あの腐海に手を突っこむ勇気が、はたして僕にあるんだろうか? 

 耐えられるのか? 

 頑張れ、頑張るんだ! 

 この家のバスルームには、バスタブがあるんだ!

 ここで耐えぬけば、毎日風呂に浸かれるんだ!



 僕はぐっと歯を食い縛り、息を止めてタンガリーシャツの袖を捲った。


 



 

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