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霧のはし 虹のたもとで  作者: 萩尾雅縁
Ⅱ.冬の静寂(しじま)
46/193

43 イブ

 翌日は皆で買い物に行くというので、僕はひとり留守番だ。もちろん僕もいっしょにと誘ってもらったのだけれど、さすがにそこは遠慮した。

 アンナが張りきって注文したクリスマスディナーの材料が届くはずだし、受け取っておくから気にせずにゆっくりしてきて。と言うと、アンナは「ありがとう、コウはいい子ね」と、ぎゅっと抱きしめてくれた。僕はなんだかくすぐったくって、曖昧に微笑んだ。


 アルビーは昨日のこともあってか、少し心配そうに僕を見て、ゆっくり休んでおくんだよ、と僕の片頬をさらりと擦っていった。その時彼の指にはまる銀の蜥蜴(とかげ)をひやりと感じて、なんだか嬉しかった。




 皆が出かけた後の静まり返った家にほっとしながらも、急に一人取り残された寂寞(せきばく)を感じて。

 どうしよう、何をして時間を潰そうか、とあちらこちらを見渡した。

 することなんて、何もない。アンナはとても几帳面な人らしく、僕がしておける事なんて何もなかった。シンクは空っぽで綺麗に磨かれているし、知らない間に掃除も済ませてあるようで。

 ぼんやりと居間を見まわした。きらきらしく佇んでいるツリーを見ているのも嫌でソファーに眼をやると、昨夜のアルビーとスティーブの、誰にも踏み込ませない密な空気を思いだして居た堪れず、吐息を漏らして自室に戻った。



 明日のクリスマスはアンナが腕を振るい、その翌日のボクシングデーのランチを僕が作る。材料はもう揃えてあるし、こっそり試作品も作ってみたから大丈夫。ロンドンのチェーン店の人気商品をチェックして、ロンドンっ子(ロンドナー)の嗜好も研究したし、大丈夫。


 心にこびりついている情景に囚われまいと、もう一度レシピをチェックする。意味もなく、ネットサーフィンする。


 堪らなく、淋しい――。


 我慢できなくなって、僕はずっと戒めていた禁を破って、引き出しから手帳を取り出した。日本にいる頃からつけていた手帳だ。もうすぐ今年は終わる。もう用済みの手帳。この中に綴った「することリスト」は、まだまるで実行できていない。()との約束もちっとも守れていない。


 涙が出そうだ。


 裏表紙に挟んである写真に視線を落とし、唇を噛んだ。



 今の僕にできることは、勉強して、とにかく勉強して、キングスカレッジに入学すること。それしかないなんて……。

 いや、そうじゃない。それだけでもマシなんだ。できること、するべきことがあるだけで。彼がいなくても僕ができる、たった一つのことだもの。


 急に、こうしてぼんやりと時間を潰しているのがもったいなくなって、滲みかけていた涙を服の袖で拭いた。手帳を閉じ、引き出しに戻した。


 大丈夫。僕はちゃんと頑張れる。




 玄関のベルの音に立ち上がった。きっとスーパーの宅配だ。アンナが頼んだ材料が届いたのに違いない。

 急いで階段を駆け下りてドアを開けると、そこにいたのはアルビーだった。


 ぽかんと見上げる僕に、「鍵を忘れたんだ」と彼は澄まして言った。

「寒かったよ。コウは行かなくて正解。お茶を淹れて。ランチを買ってきたんだ」


 透き通るようなアルビーの肌が頬だけ赤みを帯びている。本当に寒そうなその様子に、慌てて躰をずらす。ぼんやりして、自分が玄関を塞いでいることに気づかなかったんだ。


 アルビーと一緒に、買ってきてくれた持ち帰り(テイクアウェイ)のカレーライスを食べた。プラスチックのケースに入ったそれは、まだ充分に温かかった。それに唐揚げ。スパイシーなマヨネーズがかかっている。唐揚げの下には胡瓜がゴロゴロ敷き詰められている。

 イギリス人は普通に胡瓜が好きだ。だけど胡瓜入り飲み物を見たときには、さすがに驚いた。胡瓜入りカクテル、ピムスは夏の定番だ。

 まぁ、サラダ替わりの胡瓜なら、文句は言わない。たっぷりかかったソースに合って美味しいし。



 僕がぱくぱく食べているのを、アルビーが笑って見ている。

 口にしっかり頬張っていたので、ちょっと小首を傾げると、「やっぱりコウはリスに似ているね」と、くすくす笑われた。


 それはいつものアルビーで、僕は心底安堵していた。






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