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霧のはし 虹のたもとで  作者: 萩尾雅縁
Ⅱ.冬の静寂(しじま)
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33 鮭フレークサンド

 白い息を吐きながら寒さに身を強張らせて夜道を帰ってくると、マヨネーズとガーリックの焼ける香ばしい匂いが玄関にまで漂っていた。ドアを開けたとたん一気に緩む空気。温度のある匂い。思いきり吸いこんで、灯りの漏れるキッチンのドアに目を向ける。


 何かお惣菜の温め直しでもしているのだろうかと、ひょっこりと(のぞ)いてみた。


 アルビーが、「いいタイミングだね。食べる?」と、ちょいとホットサンドののった皿を持ちあげて僕にみせる。

 


 何もなかったように誘ってくれる彼に対して、安堵と、そんな食べものなんかに釣られてなるものか、僕は怒っているんだぞ、という自尊心が瞬間、喧嘩していたのだが――。

 あっけなく、食欲の前に負けた。お腹がぺこぺこだったのだ。

 夕食は学食で食べたけれど、それから何時間も経っているんだ。夜食に、日本から送ってもらったカップ麺を食べようかどうしようかと、道々思案しながら戻ってきたところなのだ。


 僕が何も言わなくても、アルビーはホットサンドを切り分けて皿に盛ってくれている。ふらふらと席につき、勧められるままに一つ摘まんだ。


「アルビー、これ……」

「パンにも合うだろ?」


 結局こうなる運命なのだ。


 僕の指の間で、サクサクの薄い食パンに挟まれたピンク色が、きらきらと存在を主張している。冷蔵庫の奥にそっと隠していたつもりの僕の鮭フレークが、ホットサンドの具にされていたのだ。ご丁寧にクリームチーズも塗ってあって、グレードがもう一段上がっている。

 


 食べながらアルビーはコーヒーも淹れてくれた。いつもは何もしないのに。


「コウ、何か怒っている? 不満があるなら言わなきゃ分からないよ」


 僕の前にマグカップを置く彼を、ぷっと膨れっ面をして上目遣いに見あげる。


 こんなにキッチンを散らかしたって、絶対に自分じゃ片づけないくせに。洗い物だってしないくせに。そのくせ僕を赤ちゃんだって言う……。

 僕は怒っているのだ。それなのに、宝石のような瞳に吸い込まれそうになる。魔法をかけられる。甘えたくなる。

 慌てて目線を逸らした。この瞳に、僕は勝てはしないのだ。


「べつに何も……」

 下を向いたまま口籠る。

「何?」


 ついっと顔を寄せてきたアルビーの体温をふわりと感じて、飛び跳ねるように立ちあがっていた。


「ごちそうさま。シンクに置いておいてくれれば後で洗うから」


 ギクシャクと、出しっぱなしのクリームチーズとコーヒーの粉だけ、冷蔵庫に片づけた。そしてまだ湯気の立っているマグカップを手にすると、アルビーと目を合わせないようにして部屋を出た。アルビーは、特に僕を引き留めたりもしなかった。




 自室に戻ると、緊張が一気に解けてため息をついていた。僕は最低だ。アルビーに対して腹が立つのなら、彼が言うように、言えばいいのだ。


 子ども扱いしないでって。


 でもそれじゃあ、アルビーの大人扱いは、って考えると、それはそれで怖いものがあって。


 アルビーの白いうなじ。綺麗な鎖骨。そこに浮かぶ赤い痕――。


 頭に浮かぶ映像に、とっさに顔を逸らす自分がいる。それでも浮かんでくる妄想を黒のラッカーで塗り潰す。その匂いで頭がクラクラして、思考することを止めてしまう。そんな僕はきっとズルい。


 だから赤ちゃんだって言われるのに。


 揶揄われて、笑われている自分は惨めだけど、大人なアルビーを遠くから見ていたいのはどうしようもなくて。

 赤ちゃんだって言われるのは嫌なのに、子どもをあやすように抱きしめてくれるアルビーの大地のような温かさはとても心地良くて。


 僕は、そんな赤ちゃんでいたい自分を捨ててしまうこともできないんだ。



 右手の薬指にいるとぼけた顔の銀色の蜥蜴(とかげ)を親指で撫でながら、問いかけてみた。


「ねぇ、僕はどうしたらいいんだろう?」


 もちろん蜥蜴は、机に沿えつけられたクリップライトの光を跳ねるばかりで、何も答えてはくれなかった。







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