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霧のはし 虹のたもとで  作者: 萩尾雅縁
Ⅰ.秋の始まり
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1 白雪姫

 伝統と栄光の歴史が支配する古都ロンドンの雑踏のなかに初めて彼を見つけたとき、僕はたっぷり三十秒間息をすることを忘れた。


 歩道に面したカフェテラスの白いテーブルを前にして、彼はじっと何かを睨めつけるような鋭い瞳で身動ぎもせず座っていた。

 降り始めの雪のように冷たさを感じさせない白い肌に、ふわりとした艶やかな黒髪がかかる。赤い唇は鮮血を想像させるほどにぞくりと蠱惑(こわく)的だ。性別を超えて際立つ容姿に、ふと童話の白雪姫を思いだす。だが僕は、すぐさまその連想を否定した。愛らしい白雪姫とは違い眼前の彼は、周囲のいっさいを拒絶する冷ややかさを身にまとっていた。彼のいるその場所だけ、どこか異空間を覗きこんでいるような錯覚に巻きこむほどの――。


 僕は、あまりにも彼のことを不躾に見つめていたのだと思う。彼はすっと凍りつくような一瞥をくれて、腹立たしげに口の中で何か呟くと立ち去ってしまった。

 恥ずかしさと申しわけなさで身がすくんだ。僕の方こそ、この場を逃げだしてしまいたかった。


 この待ち合わせさえなかったなら!


 謝ろうにも彼の姿はすでにない。しかたがないので深く息をついて緊張を解き、指定されているカフェテラスのテーブル席を見回した。麗らかな陽射しが心地よい時間帯でもあり、屋外席はどれも埋まっている。だが女性客ばかりだ。目当ての人物はいないようだった。

 外の席で、との約束だったが、席が取れなかったのかもしれない。

 店内に入り、ポップなBGMと穏やかな喧騒の流れる広いフロアを丁寧に見渡した。天然木の床に木製のテーブルが並ぶオーガニックが売りの人気店で、客層は若者が多い。


 僕と同じ学生。紺のジャケットに白のシャツ、ジーンズ。耳にピアスが三つ並んでいる黒髪の青年――。


 それらしき人物はいない。


 カウンターでコーヒーを注文し、通りに面したテラスに戻った。さっきの彼のいた席が空いていた。ドキドキしながらそこに腰かけた。目を瞑り、瞼に焼きついているあの不思議な彼を思い浮かべる。

 けれど、今はこんなふわふわした気分に浸っている場合じゃないのだと、すぐに軽く頭を振って気を引きしめた。


 掲示板から写したメモを取りだし、もう一度確認する。

 約束の時間からもう15分もすぎているのだ。


 時間にルーズな人だと嫌だな。


 もくもくと不安がわいてきて、落ち着かない。




 だけど結局、僕はこのカフェで二時間の待ちぼうけを食らった。


 がっかりだ。何の希望も持てずに今夜もまた、あの寒々とした部屋に戻らなけりゃいけないなんて……。




 日本を出てから五か月。語学コースのサマースクールを終え、ロンドン大学の大学進学準備(ファウンデーション)コース開始を目前にして、気温の急降下に僕の忍耐は我慢の限界に達している。

 学生寮の水がぬるまった程度のお湯しかでないシャワーに始まって、へばりついてやっと暖をとれる蛇腹の暖房器。布団はなく薄っぺらいシーツのみ。


 夏の間はまだ我慢できたけれど、寒い! とにかく寒いんだ、僕の部屋は! 


 真剣に引っ越しを考えていたとき、校舎の掲示板にこのメモを見つけた。



「ハウスシェアメイト募集。一名。居間・バスルーム・キッチン共同。個室家具付き。綺麗好き、几帳面な男性希望。家賃500ポンド、条件により値引き有り」



 ロンドンの家賃は高い。一人暮らしなど望めるはずもない。学生寮に耐えられないとなると、下宿かシェアハウスという選択肢になる。これがまた良い条件ではなかなか見つからない。

 このメモは、何よりもまず場所がいい。治安のいい地区だ。それでこの家賃は破格だ。その上この、条件により値引きというのが期待させるじゃないか。幸いまだ貼りだされたばかりなのか、まだ予約名は書かれていない。一番乗りできる。


 僕は喜び勇んで、アポイントを入れた。――そして、すっぽかされた、というわけだ。


 諦めて席をたとうとしたとき、コツンと何かが足先に触れた。夜空の欠片のようにきらきらとした、メタルブルーの万年筆がこげ茶のデッキに転がっていた。手に取ると、太目の胴軸にA・Aとイニシャルが刻んであった。


 神秘的な色合いに、さっきの印象的な彼の落とし物なのでは、とそんな気がして――。


 僕はそっと隠すようにこの万年筆を握りしめてポケットにしまった。






 

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