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霧のはし 虹のたもとで  作者: 萩尾雅縁
Ⅳ 初夏の木漏れ日
162/193

157 渦

 かなりの冊数に渡るアーノルドの日記は、心理学の専門書と一緒に本棚に収められていた。全て初めに渡されたのと同じ装丁だ。背表紙に年代が箔押しで入れられ、年代順に整然と並んでいる。ということは、この日記帳って特注なのかな? 

 取りあえず、昨夜借りた一冊分の隙間の前一冊と、後二冊を本棚から抜いた。


 まだ試験期間中で良かった。全ての試験を終えている僕は、しばらく学校に行く必要はない。ゆっくりとこの日記を読める。この棚にあるくらいの冊数なら、眼を通すだけなら今日、明日で終わらせることもできるかもしれない。

 

 おそらくここにある日記帳は、アーノルドがアビゲイルに出逢ってから死に別れるまでの八年間分。刻印された年代は、アルビーの産まれた年までで終わっているから。




 アルビーの机に日記帳を置き、まずは食べ終えたトレーを持って階下に下りた。


 キッチンを先に片付けないと。それからお風呂に入って、それから……。


 心の襞にこびりついている言葉を考えまいと、頭がどうでもよいことを、とめどなく思考し始める。


 食洗機に食器を入れ、案の定置きっぱなしのフライパンと包丁を洗い、ベーコンの塊を冷蔵庫に戻し、シンクに放りっぱなしの卵の殻を片づけた。食器だけは、言わなくても食洗機に入れるようになってくれた。それだけでも進歩だ。でも食洗機のスイッチが入れられ、ちゃんと洗い終えていることは滅多にないから、急ぐときはここから食器を取り出して手洗いしたりもするのだけれど。まぁ、それは追々(おいおい)でいいかな、と思っている。


 


 それから三階に上がり、先にバスタブに湯を張ってから、いったん部屋に着替えを取りに戻った。

 何だか落ち着かない。何かしていないと、その辺にあるものに八つ当たりしてしまいそうだよ。胃の奥から湧き上がるようなイライラを、ぐっと我慢して浴室に向かう。


 アルビーに借りたパジャマを脱ぎ捨てて、まだお湯の溜まり切っていないバスタブに飛び込んだ。

 どうどうと流れ落ちるお湯を両手で受けて、顔に叩きつけるようにして洗った。


 考えまいと、沈めようと、どれほど打ち消そうとしても浮かび上がってくる言葉に翻弄され、息が苦しかった。狭い浴室を白く濁らせるこの湯気に、こんな想いなんて包まれて消されてしまえばいいのに。

 ユラユラとうごめくこの水面上に、どうやったって浮かんでくるんだ。こればかりは、僕の大好きな窓辺の植物たちが柔らかな緑色に染め上げ、この空間を豊かに満たす、この綺麗な空気にだって浄化できない。


 だってこれは、嫉妬だもの。解っている。汚れているのは僕。今、僕がこの場の調和を壊している。



 ――もう終わりにしたいんだ。


 僕との関係を? 

 それとも、スティーブへの想いを?


 アルビーの落としたこの(つぶて)が、僕の中に広がり続ける波紋を刻んだ。



 永遠に失われた赤毛の人形(サラマンダー)を手に入れることは不可能でも、彼らの身元や消息が分かれば、残りの精霊の人形の行方も知れるかもしれない。だから、彼はあんなにも何度も()のことを僕に訊ねたがっていたんだ。

 もし、その精霊に似た連中が、アーノルドに人形の制作を依頼したことが、本当であるのなら……。


 僕自身、判らなくなっていた。()があの人形に自分の得る形を似せたのか、それとも、人形の方こそ、本来の彼の姿を似せたものだったのか。


 彼は神秘そのものなのだ。どんな解釈だって成り立たせてしまうほどの。


 アーノルドの記憶の中から、彼らは生まれたのかもしれない。そんな可能性だって否定できない。突出した見事な腕を持つ芸術家の手によって、彼らは形を手にいれたのかもしれないじゃないか。


 彼が日記に書いたような意味ではなく、彼自身が感知できない精霊の作用が儀式の中に働いていた可能性だってあるんだ。あんな無意味過ぎる儀式であっても……。

 アーノルドが精霊に望み、精霊たちが彼に望んだことは何だろう? 

 望みと見返りは常に釣り合わなければならない。彼らは公平な取引を望んだはずだ。



 そしてアルビー、きみは僕に何を望んでいるの? きみが終わらせたいのは?

 

 

 白く(もや)のかかった向こう側、ぼんやりと視界に揺れる緑に似た彼を捉まえようと、僕は必死に手を伸ばす。追い掛ける。対流する熱。霧状の粒子の流れ。そんなものがクルクルと大きく渦巻くアーノルドの記憶の中に、アルビーもまた囚われている、そんな気がして。






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