11 性的指向
「僕はゲイなんだろ、って彼に言われたからだよ。普通言わないだろ、そんなこと。だから、彼はそうなのかなって思っただけだよ」
露骨に不機嫌そうだったマリーの面が、訝しげに表情を消す。
「違うの?」
違うだろ、そのリアクション!
思わず心の中で叫んでいた。
マリーも、アルビーもなに考えてるんだよ! アルビーに憧れはするけど、そんなんじゃないんだ。だいたいこっちの人間は、日本人の性別は見分けがつかないなんていって、しょっちゅう男か、女か、て訊かれたりする。日本じゃそんなことはなかったのに。そりゃ、確かに童顔かもしれないけれど、性別の区別がつかないほどじゃ――。
心の中で言い訳は暴走していたけれど、実際口から出たのは、「違う」の一言だけだ。それも押し殺したような、潰れ声で。
僕の視線は、空色の壁紙を分断する焦げ茶色の腰壁に注がれていた。見切りの部分に埃が薄っすら溜まっている。ちゃんと掃除したつもりだったのに。僕は指でその埃を拭いとる。顔をあげるのが嫌だったから。
いったい僕は、他人からどんなふうに見えているのだろう?
マリーの瞳に、歪な僕の姿が映っているんじゃないか、と怖かった。
「アルは――。ゲイっていうよりも……」
ちらりと上目遣いに見上げた彼女も、僕からは顔を背けてあらぬ方に向かって喋っていた。僕の性的指向なんてどうでもいいって感じだ。
じゃ、何なんだよ。さっきの「違うの?」て一言は!
「あんたが来てから落ち着いていたし、油断していたのよ。馬鹿だったわ、私も」
僕に向かって言われているのか判らない言葉に、返事はできない。その場に立ちつくしたまま泣きそうな顔をして玄関のドアを睨めつけている彼女に、なんて声をかけていいのかなんて、輪をかけて判らなくて――。
「紅茶、淹れようか?」と、僕は返事も待たずにキッチンに戻った。マリーは黙って僕に続いた。
洗濯機の轟音の響く中、甘いミルクティーを淹れた。僕の持参の茶葉を使った。この家にはティーバッグしかなかったから。食に煩い僕の友人に教わった美味しい紅茶の淹れ方が、こんなところで役にたつなんてね。
雨あがりの湿り気を帯びた空気に柔らかな芳香が揺れる。雨粒に覆われた窓ガラスに映る緑が幾重にも歪んで見える。その不明瞭な視界が、アルビーを思いださせた。空っぽの彼の指定席。あんなにくっきりとしていた綺麗な彼の輪郭が、朧に揺れている。たっぷりの雨粒で擦ったみたいに。
ゆっくりとマグカップを口許に運ぶマリーの空気も、どこか和らいで。僕は洗濯機に負けないように、声を高めて彼女に尋ねた。
「彼、恋人はいるの?」
しまった――。
マリーの眉根が腹立たしげに歪んでいる。触れてはいけない話題だったらしい。
「アルビーだっていい大人なんだからさ、帰ってこない日があったって、」
言わなくてもいいことを、僕はつい重ねてしまう。こんなところで融通が利かないんだ。
「解ってるわよ!」
ほら怒らせた。これだから僕は……。
「これは私の我儘なの。アルには言わないで」
僕から顔を背けて窓に向けた彼女の横顔は、奥歯をくい縛っているかのように強張ってみえた。
「言うってなにを?」
泣きそうな顔をしてアルビーが帰ってくるのを待っている、ってことを? こうして僕に八つ当たりしていることを? そんなこと僕に言えるわけないじゃないか。
「あんたがゲイじゃないってこと」
なんでそうなるんだよ!
僕はもう空いた口が塞がらなくて……。
洗濯機の轟音のせいで聞き間違えたに違いない、と脳内に入りこんだ彼女の言葉を耳から零れ落とそうとするかのように、僕はぐいっと頭を傾げていた。




