泡沫 下
麻糸を紡ぎ終えた頃、幼馴染の予告した日が来た。朝からそわそわする女には気が付かなかったのか、男はいつものごとく何も言わず出かけていく。見張っていたのだろう、男が出かけてすぐに、外から女を呼ぶ声がした。
ゆっくりと戸を開けると、手を握られた。
「ほら、いくぞ」
ついてくるのは当然だとばかりに引っ張られた手を、思わず振りほどいた。驚いたように名を呼ばれ、女はうつむく。
「戻ったら、また村に迷惑がかかるのではないですか」
「俺の嫁にきたらいいんだ。迷惑だなんて、俺が言わせない」
女はぎゅっと手を握りしめた。
「……棄てられたわたくしに、優しくしてくださいました。負い目ばかりのわたくしに、してもらった、なんて言ってくれたのはあの方だけです。それなのに、帰れるのならと喜んでくれさえしました。……またお荷物になるくらいなら、私はここにいたい」
「いやだ。お前を置いてなんて帰れない」
女はごくりと喉を鳴らして、それからまっすぐに幼馴染に顔を向けた。
「あの方に要らぬと言われるまでは、私はあの方の側にいます」
このように何かを言い張ったことなどなかった。けれど、これだけは譲れない。
気圧されたかのように、女の幼馴染の男は数歩後退る。足音でそう察して、女は麻布の張られた格子戸をかたりと閉じた。
また幾日かが過ぎた。
作った糸は機にかけられ、もうすっかり布のかたちになっている。女はなぜだか、迎えを断ったことを男に話せずにいた。
織り上がった布を機から外し、その表面をさらさらと撫でる。麻から糸を作った。糸を長く繋いで、それを織って布ができた。自分で作った布だ。それを思うとなんとなく、胸が暖かかった。丁寧に布を畳んで、男に渡した。男はそれを受け取って側へ置くと、ふと、気がついたように口を開いた。
「村へ戻ると言ってからずいぶん経つが、まだ迎えは来ぬのか? われが送っていってやろうか」
女は困ったように少し手をさまよわせて、結局膝の上で握りしめた。
「わたくしの存在が迷惑でないと……人恋しさの慰めになると言ってくださった言葉は、真実でしょうか」
男がこちらを向く気配がする。彼は少し黙ってから、もちろんだ、と言った。
「もしかしてそれを気にしていたのか? われは……もとよりひとりきりで生きねばならぬ身の上なのだから、ぬしが気に病むことはないのだ」
女は違うのです、と首を振った。
「目が見えぬわたくしに、いることの意味をくださったのはあなたさまが初めてでした。……ですからわたくしが自分で、ここにいたいと願ったのです」
「……きっといつか後悔するときがくるぞ」
「今すぐにここを追い出されたとしたって、わたくしの選んだ道です。後悔はありません」
しばらく、男は黙り込んだ。それから低く、知らぬからだろう、と言った。
「ぬしはわれを知らぬからそのように言えるのだ。われがこんな身体だと知ったら、すぐにでも逃げ出すのだろうが……!」
強すぎる力で、手首をぎゅっと握られた。思わず手を重ねると、びっしりと生えた固い毛が触れる。ようやく触れられたその感触を嬉しく思う間もなく、がたりと格子戸が開く音とともに何者かが踏み込んできた。次の瞬間、握られたままの手首が下に向かって引っ張られる。男の苦しげな叫び声が耳に届くと同時に生ぬるく粘つく液体が顔にかかり、流れて女の目に入った。
何が起こったのか、女にはすぐにはわからなかった。光がいっぱいに目の中に広がって、視界に色の奔流が飛び込んできたのだ。目の前に赤を吹き出す大きな黒い影があった。しばしそれを見上げていた女は唐突に、それが片腕を失った男なのだと気がついて悲鳴を上げた。姿の恐ろしさなど気にする余裕はまるでなかった。己の着物の片袖を破って、それで男の傷口を押さえつけるが、あふれだす赤は止まらない。彼を失ってしまうかもしれないことへの恐ろしさに、心が冷たくなっていくのを感じた。じわりと視界が滲む。どうして、こんなことが起こらなければならないのか。
「……どうして」
今までに耳にしたことのない声がした。見れば、戸口に見知らぬ男が立っている。彼の持つ刀には男の血がべっとりとまとわりついていて、だから女にとっては苦しむ男よりも彼のほうが、はるかに恐ろしいものに見えた。