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泡沫 上

 女が暮らし始めて、小屋の中はずいぶんと様変わりしたようだった。来たときにはちくちくとざらついて今にもトゲが刺さりそうだった壁が今や、なめらかな手触りに変わっている。冷たくて硬い床には男がどこからかもってきた毛皮が敷かれた。風の吹き込むままに任せていた格子戸には麻布が張られ、壁の細かい隙間までいちいち塞がれたようで、隙間風すら吹き込まない。

 女は毛皮の上にぺたりと座って、平たい貝殻で麻の皮をこそげていく。乾かして細く裂いて、糸を作るのだ。父のいた頃にはよくやっていた仕事だけれど、麻を取ってきてくれる父がいなくなってからはずいぶんやっていない。それでも手が覚えているもので、出来上がりの手触りは以前と少しも変わらなかった。

 何に使うかは聞いていない。男のやっていた仕事を頼み込んで譲ってもらったのだ。何もしないでいては、村にいた頃と何も変わらない。けれど、それくらいで男にしてもらったことへの恩返しができるわけでもない。


 女はこのところ、わからなくなっていた。男は、女がここに来た意味を知っていて迎え入れたのだろうか。村人の態度を思うに、彼に預けるつもりでここまで連れてこられたわけでない。庇護するもののいない、まして盲目の女が、森で一人生きられるはずもなく、そんなことは彼もとうに承知だと思っていた。

 男は、女に触れることも触れられることも、どちらも避けているように思われた。実際、女は男の手にさえ触れたことはない。けれどうとまれているにしては、暮らしの端々に彼の気遣いがひしひしと感じられて、だから女には男の気持ちがよくわからない。

 つい、手が止まった。男は今はここにいない。食べ物の調達か何かで、男は家をあけることが多かった。家の中に煮炊きのできる設備はなく、それでも女には温かい食事が供されていた。つまりは外に出る中にはそのような用事も含まれているのだろう。


 微かに、己の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。そんなはずはないから気のせいだろうと一人納得して作業に戻ると、また呼ばれる。女は首を傾げて、耳を澄ました。戸口の方から、確かに女を呼ぶ声がした。

 男はさっき出ていったばかりで、戻ってくるには早すぎる。そもそも、彼に名乗った覚えはない。女はやりかけた仕事を足元に置いて、そろそろと戸口に近づいた。

「あの……」

 声を出した途端、からりと格子戸が開いて手首を掴まれる。驚いて引こうとした身体をぎゅっと抱きしめられて、耳元に、懐かしい幼馴染の声が飛び込んできた。

「心配してたんだ……無事でよかった」

「……どうして、ここに?」

 肩を掴まれて、そっと身体が離れていく。幼馴染は真剣な声で、迎えに来たんだ、と言った。

「止められなくてすまなかった。村の連中のことは心配いらないから、帰ってこい」

 女は言葉に詰まる。その手に触れる床の毛皮の感触と、開いた戸口から吹き込んでくる風の冷たさ。中断した手仕事にまで思い至って、女はゆるゆると首を振った。

「ほら、早くしないとあいつが帰ってくる。急いでここを出よう」

 引っ張る手を振りほどいて、ごめんなさい、と言った。

「……麻を、引いているのです。無理にやらせてもらった仕事だから、放り出して行きたくない」

「そんなことどうだっていいだろう! このままここにいたら、あいつに何をされるかわからないんだぞ」

 びくりと女は肩を震わせた。今まで生きていて、怒鳴られたことなど数えるほどしかない。けれど何を誤解したのか、彼の声に気遣わしげな色が混じる。

「まさか……もう何かされたのか? だ……大丈夫だ、俺は気にしないから」

「失礼なことを言わないで……。あの方は、わたくしに指一本触れません」

 目の前で息を呑む気配がした。

「お前、じゃああいつの姿をまるで知らないのか? ……それならその反応も頷けるが。悪いことは言わない、何かされる前にここから離れろ」


 それから幼馴染が話した男の様子は、薄々女が想像していた姿よりよほど恐ろしいものだったけれど、全くかけ離れたものではなかった。普通の人なのであれば、村人たちはあんな風に怯えたりはしないだろうし、彼自身も手に触れることをあんなに恐れはしないだろう。

「……少なくとも、あの仕事を終わらせるまではどこにも行きません」

 幼馴染はしばらく粘ったけれど、十日後にまた来ると言い残して立ち去った。その日、女の手仕事は、男が戻ってくるまで少しも進まなかった。


 幼馴染が訪れてから二日後、女は麻糸をつなぎ合わせる仕事に移っていた。その日は雨で、男の外出もない。女は少し迷ってから口を開いた。

「……先日、迎えが参りました。近く、村へ戻ろうかと思います」

「わざわざ、挨拶のために残ったのか?」

「何も返せずに、ここを離れたくはなかったのです。……ここにいればいるほど、ご恩ばかりが重なるとはわかっているのですが」

 麻糸を軽く持ち上げて女は言った。

「……恩などと思わなくて良い。詳しくは言えぬが、われは人の中に暮らすことの叶わぬ身。……人恋しさを紛らわしてもらっていたのはわれの方だ。……だが、帰る場所があるのなら良かった」

 男はそれだけ言って黙り込む。女は声の方に手を伸ばしたけれど、その手は何にも触れられずに床についた。


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