化物
ずいぶんと昔の話である。
一人の男がいた。人よりも少し剣の才能があり、その上たゆまぬ努力を続けた彼は間違いなく、時代に名を残す武士であった。けれど彼にはまだたどり着きたい目標があった。
天下無双の強者と諸国に名を轟かせ、数々の妖魔を討ち果たしたと評判の大剣豪。年老いたとはいえその武勇に翳りはない。幼いころに偶然目にした彼の剣技が忘れられず、ずっとそれを目指して修業を続けてきた。どれだけ剣技を褒められようと、勇猛と讃えられようと、彼の中ではまだ足りない。
その辺りでは、ある程度有名な武人は御前試合に出るのが当たり前だった。例に漏れず、彼にもまたお召しがかかったけれども、彼が心を揺らされることはなかった。彼にとっての剣は、誰かに認められるためのものではなく、彼が彼自身を高めるためのものだったからだ。けれど、当日居並ぶ強者どもの中に一つの顔を見つけて表情を変えた。
引きも切らず押し寄せる仕官の誘いをすべて断って、武者修行の旅に出ているとは聞いていた。けれどまさか、こんなことがあるだろうか。
彼が長く憧れ続けた剣豪が、飛び入りの柄の悪い連中の並ぶ中、堂々たる風格で座していた。
白い玉砂利が敷き詰められた中庭で、男は老剣士と向かい合っていた。大勢に見られているはずだが、視線など感じられず、物音すらも遠い。だというのに、向かい合う相手の息遣いや心臓の音は鮮明に聞こえる気がした。
気持ちは燃えるようにたぎるのに、頭はどこまでも澄み切って静かだ。
相手のまとう覇気が膨れ上がった。意識するよりも先に、木刀を持つ腕がするりと動く。上段からの打ち込みを防いで、そのまま胴を薙いだ。その木刀の先が後退った老剣士の身体を掠めて、男は目をみはる。
牽制のため振るっただけで、かわされて当然の剣筋だった。老剣士自身も、かわしきれなかったことを苦々しく思ったようで舌打ちをする。一旦開いた間合いで、二人は改めて睨み合った。
木刀を交わし合ううち、男の動きはキレが増していく。憧れの剣豪との試合である。気持ちが高ぶらないはずはなく、どんどん調子が良くなっていく。一方で老剣士はだんだんと、その動きを鈍らせていった。
打ち合う刀の重みが減っていく。かわす動きは少しずつ遅れていく。決定打とまではいかないものの、男はじりじりと老剣士を追い詰めていった。
カン、という軽い音とともに木刀が宙を舞った。地面には息を乱して膝をつく老剣士。男は信じられない気持ちでその光景を眺めていた。
審判による勝利の宣言を、男は信じられぬ思いで聞いた。己の剣技はまだ足りていないはずだった。けれど確かに老剣士は地に這いつくばり、男は立って彼を見下ろしている。
否応なしに、気付いてしまった。男はもう二度と、憧れた剣豪と戦うことはできない。今の彼はもう憧れた彼ではなく、老いた元剣豪でしかない。そして男もまた、きっと憧れた剣豪の域に達することもできずに、老いて衰えていくのだ。
男は初めて、老いることを怖いと思った。あと十年、いや五年だけでも今の若さをとどめておければ、きっと彼は古今無双の剣士となれる。けれどそれは、決して叶うことのない夢だった。
男はそれから、激しく修行に打ち込むようになった。男の身体の絶頂期はもう、そう長くない。時間に追い立てられるように、彼は寝る間も惜しんで刀を振るった。
そんな中、ある噂を耳にした。
人に不老不死をもたらす異形の神の噂。彼はその噂にすがりついて、追いかけて、そしてとうとうそれを見つけた。
赤く爛々と輝く大きな眼。真っ黒な毛が体中を覆い、長身の彼ですら見上げるような大きな体躯。爪は固く尖っていて、口からは鋭い牙が覗いている。
異形の神というよりは、まるで妖魔のごとくにしか見えなかったけれど、彼は迷いなく願った。
「どうか、神よ。この身に神の奇跡を。……永久の命を」
それは低くしゃがれた声で嗤った。
「望むものの意味を知らぬというは、何とも愚かなものよな。……真にそれを望むというのなら、叶えてやるのに否やはない」
息を呑んだ男に、それは静かに問うた。
「すべてを捨ててでも望むか? 老いること、衰えることのない身体を」
「もちろんだ……! この望みが叶うなら、何を失ったって構わない」
それはにやりと口の端を吊り上げた。
「ならば貴様のすべてを対価として貰い受け、その代わりに老いることのない身体をやろう」
言うやいなや、それは男の頭をその大きな手のひらで掴んだ。ぱちぱちと目の前で火花が散るような気がしたと思ったら、次の瞬間、男は意識が遠のくのを感じた。
男が気がつくと、男は目の前に立つ男の頭を掴んで立っていた。異形の神の姿はすでになく、不思議なことに目の前の男は自分によく似ている。うっとうしげに彼は頭を掴む手を払い除けた。払いのけられた手には黒々とした毛がびっしりと生えていて、それはあの異形の神によく似ていた。
「これは……?」
呟いた声は低くしゃがれている。思わず喉を押さえた手のひらに、ごわごわとした毛皮の感触を感じた。
「まだ気が付かないのか? 貴様は望んだ通りのものを得たのだ。己のすべてを対価として、な」
思わず上げた悲鳴は到底人のものではなく、まるで獣の遠吠えにしか聞こえなかった。
そうして男は化物となった。男はその姿を恥じ、人の住まぬ森の奥深くに堂を立てて暮らし始めた。そこへ雷に追われた開拓民たちが逃げ込んでくるのは、彼が森へ暮らし始めてからゆうに二百年が過ぎた頃のことである。
戦闘シーンにつきましては、お察しの通りド素人です。
不自然な箇所もあると思いますが、ご容赦ください。