輿
女の父親は、少し前、森に入っているときに、足を滑らせて崖から落ちて死んでしまった。それは不運な事故だった。けれど女にとって不幸だったのは、父親の庇護を失ってしまったことそのものだった。
女は村へ来てすぐの頃に負った怪我のせいで、目が見えない。村の役にも立たず己の食い扶持を稼ぐことすらままならぬ女は、父親がいなくなった今はもうほとんどの村人にとってはただのお荷物に過ぎなかった。
それを知っていたから、女は拒まなかった。裏の森にある堂の守りをして欲しいという言葉を、口減らしであろうと察しながら、文句も言わず頷いた。
たった一人、彼女の幼馴染の男だけは反対したけれども、本人が頷いてしまった以上、その決定が覆ることはなかった。
女はその朝、村人の誰とも言葉を交わさぬまま、用意された衣装を着て輿に乗った。輿は縁のある台に持ち手を付けただけの簡素なものだったけれど、まっさらな木綿の着物を着た女が乗ると、まるで輿入れの様子にも見えた。
無論、盲目の女にそれは見えはしなかったのだけれど。
悪路を進む輿はひどく揺れた。女はその上で耳を澄まし、空気の匂いをたどる。人々の声も煮炊きの匂いも次第に遠ざかり、草木の匂いばかりが深くなっていく。輿を運ぶ男たちは初めからずっと押し黙ったままで、彼らが草を踏みしめる音と遠い枝の鳥達のさえずり、葉擦れの音だけが聞こえていた。
どれほどの時間が経っただろう。男たちの足取りは重いが、止まる気配はない。女は返事はないだろうと思いながら、あの、と声をかけた。
担ぎ手がびくりと肩を震わせたのが、輿の振動で知れた。
「あとどれくらいなのでしょう」
「……もうちっと先だ」
答えが帰ってきたことに驚き、そして同時に女は担ぎ手の一人が父の友人と知った。楽しげに笑い合う父とその男の声、過去確かに耳にした光景を思い出して胸が痛んだが、こらえて一言、分かりました、とだけ答えた。
一度きりの会話のあと、気まずく沈黙したままで、輿はまたしばらくの間進み続けた。感じられる光はずいぶんと減ってしまった。深い森に分け入って、木々の葉が分厚く重なり、陽の光はまばらにしか届かないのだろう。戻る気はまるでないけれど、どうあっても自分ひとりでは戻れないところまできてしまったのだと女は知った。
唐突に、さあっと光が降り注ぐ。棄てられる身でおかしな話だけれど、その明るさは、女には何故か救いのようにも思えた。
担ぎ手たちがぴたりと足を止めた。ゆっくりと輿が地面に下ろされて、そのままあたりはしんと静まり返る。
「……着いたの、ですか」
すまねえ、と聞こえた気がした。長く目の代わりに頼ってきた鋭い聴覚でさえも、聞き違いかと思うほどに微かに呟かれたそれは、おそらくは父の友人の声だった。
逃げるように、幾人かの足音と人の匂いが遠ざかっていく。それらが葉擦れや鳥のさえずりにかき消されるほどに小さくなった頃、女はゆっくりと輿から降りた。その耳に、からり、と軽い格子戸か何かが開く音が届く。ギィ、と木の床を踏みしめる音が続いた。
「……どなたかいらっしゃるのですか? 村の者から、こちらの堂の守をと頼まれているのですが」
「ぬしは……」
つぶやくような声は、やけに低くしゃがれていた。
「ぬしは、目が見えぬのか」
恥じ入るように、女はうつむいた。
「役立たずのめしいでお恥ずかしいことです。あなたさまがいらっしゃるようですから、わたくしはほかへ移ります」
「待て、その目でどこへ行けるものか。……われももう長く人と話していない。ぬしさえ良ければ、村の者が戻るまでここにいたら良かろう」
女はきょとんとして、見えぬ目を声のする方へ向けた。
「村の者が戻るまで、こちらへ居てもよいと仰せですか」
「そう言った。露天より少しばかりましという程度のあばら家だが、ゆるりと休んでいくといい。……ぬしがどうしてもすぐに村へ戻りたいと望むのなら、われが送り届けてやろうが」
いえ、と女は首を振る。もはや戻る家などありはしない。
「それでは村の者が戻るまで、こちらでお世話になりたく存じます」
女は声のする方へ向かって、ゆっくりと頭を下げた。