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キリンの住む建物は言われた通り大きな池の反対側にあった。シオンは池の反対側に行くのがその時が初めてだったので、ついつい辺りをきょろきょろと見まわしてしまった。セイショウはキリンの家を何度か訪ねたことがあるらしく、迷うことなくその建物に向かう。
キリンの家は一言で言えば他の妃候補者たちに全く引けをとらない豪華で美しい建物だった。しかし、他の妃達の庭とは明らかに一線を画しているのをシオンは感じた。
それはずいぶんと重厚な感じの美しい黒い石が庭の所々に配されているためのようであった。シオンには石のことは全くわからなかったが、その美しさや存在感から相当高価な石なのではないかと思われた。それらの石が絶妙な配置の上、統一された色彩で置かれているため、キリンの家の庭には何か他の妃候補者たちの庭にはない特別な個性のようなものが存在した。
門をくぐると入口から家までは少々距離があり、その間を色とりどりの花が咲き乱れて訪れる者を歓迎していた。
そして庭の一角に小さな東屋が建てられていて、そこでキリンは女官達と一緒にお茶の準備をしていた。
「セイショウ、こっちよ!」
キリンは二人の姿を目に捉えて、大きな声で呼んだ。
シオンには家でのキリンは先ほど会った時よりも、はるかにのびのびと大らかな性格の様子でとても活発な女性のように感じられた。
「よく来てくれたわね。今日は天気もいいし、春は庭に花がたくさん咲いて綺麗でしょ。だから外でお茶をしようと思ったの」
キリンはまぶしいほどの笑顔で二人を席に案内する。
「とても個性的で素敵な庭ですね」
シオンは、キリンの家の庭を眺めながら受けた印象を素直に口にした。
「個性的?ふふふ……。それはこの庭の黒い石のことを言っているんでしょ。誰でもこの庭を見るとあの黒い石が気になるみたいね」
キリンは黒い石のことはよく言われているのか慣れた感じで説明を始めた。
「実はあの石は、私の父の趣味なのよ。私の父は武官なんだけど、どこだったか任務で地方に行った時にあの石を目にしたらしくてね。とても気に入って都に戻って来ても、わざわざ取り寄せて家の庭を飾らせたくらいなの。私が後宮に入ったら、ここにも父はあの石を送ってきてね。自分では素晴らしい石だと思っているものだから、私の趣味なんておかまいなしなのよ。私の実家の庭は、見たらびっくりするくらいあの石でいっぱいよ。言うなれば、実家の庭を小さく復元したのがこの庭なのよ」
キリンは他の妃候補達に負けず劣らない華やかな雰囲気を持ち、ずいぶんと高価そうな着物を纏っていた。そこから推測するだけでも父親の職業は武官だと言いつつ、もちろんただの武官ではなく相当高い地位にいる人物であることは間違いがなかった。
それでもどこかさばさばしていて飾り気のない大らかな性格は、父親の影響があるのではないだろうかとシオンは考えた。そしてそんな性格だからこそ、数いる妃候補の中でセイショウはキリンと仲良くなったのだろうと思った。
キリンは少し話に間を置くと、いたずらっ子のように楽しそうな顔をしてシオンが手にしていた包みを指差した。
「あの……はしたないのはわかっているけれど、その包みが持ってきてくれるって話していたお菓子かしら。ちょっと気になっちゃって」
シオンは慌ててキリンの方に菓子の包みを差し出した。
「ええ、これは実家の近くのお菓子屋さんのものなんですが、セイショウも、いえセイショウ様も私も大好きなお菓子なんです。お口に合えばいいのですが」
シオンはついついセイショウのことを呼び捨てにしてしまう自分を心の中で叱った。
シオンがふと気が付くと何人かお茶の準備をキリンと一緒にしていたはずの女官達はいつの間にか姿を消していて、東屋にはセイショウとキリン、シオンの三人だけになっていた。女官達は皆どこかに下がったようだった。
三人は東屋の椅子に腰をかけ菓子箱を広げた。
「まぁ、綺麗なお菓子ね。食べるのがもったいないくらい。どれにしようか迷ってしまうわ」
箱の中の菓子を見るとキリンは真剣にどれを選ぼうか考えている様子で菓子を眺めた。
シオンはそんなキリンの表情を見てうれしくなった。セイショウと話し合った末、いくつかの菓子を少しずつ持ってきて本当に良かったと思った。自分の食べるお菓子を自ら選ぶというのは事の他、幸せなひとときだ。
三人は各々菓子を無事に取り分けると、キリンは自ら優雅な手つきでお茶を入れ始めた。
「さぁ、どうぞ」
三人の前にお茶が揃うとキリンは声をかけた。
シオンもセイショウもキリンの入れてもらったお茶に口をつけた。ほのかに甘い花のような香りと共にお茶の爽やかな味が口いっぱいに広がった。
「本当にとてもおいしいお茶ね。特に強く主張する香りや味というわけでもないのに、私が今までに飲んだどのお茶とも全く違う……。初めて飲む味だわ」
セイショウがそのお茶を褒め、シオンも隣で頷いた。
「そう?良かった。このお菓子もとってもおいしいわ。都にはいろいろお菓子屋があるけれど、このお菓子の味は都でもそうそう出会えないおいしさよ。甘さが絶妙ね。近くにこのお店があればいいのに」
キリンも菓子のことを褒めてくれたので、シオンは自分のことを言われたかのようにとてもうれしい気持ちになった。そして幼馴染のルリに向かって今すぐに、ルリのお店が作るお菓子は都のお嬢様にだって通用する味で、とてもおいしいって言ってくれたわよと伝えられたらどんなにいいだろうと思った。
「喜んでもらえてうれしいわ。どうもありがとう。ところでこちらのお茶はどちらで作られているものなの?とても珍しいものなのでしょう?」
セイショウは菓子を褒めてくれたことに軽くお礼を言うとお茶について話を戻した。
「珍しいのかどうかは私にもわからないけれど、我が家では毎年この時期になると飲むお茶なの。普通お茶は初夏に収穫を迎えるからその後が新茶として旬なんだけれど、このお茶はその後何やら発酵させて作るみたいよ。できたお茶をさらに寝かせたり、都に運ぶまでに時間がかかったり……。そういう訳で私の中ではこの時期に飲むお茶っていう意識がこのお茶にはあるわ。このお茶は毎年この時期に楽しみにしていたものだから、実家に頼んで後宮にも送ってもらったの。石とは違って自ら進んで実家にお願いしたものなのよ」
キリンは少し冗談めかして話をし、セイショウもシオンもそれに吊られて微笑んだ。
「……でもね。実は今日、講義で私が標的にあったのは……たぶんこのお茶のせいだと思うの……」
キリンは少し表情を曇らせた。シオンには今日の講義でどんなことが起きたのか知らなかったが、講義の後にキリンがセイショウに助けられたと話をしていたのを思い出し、そのことを言っているのだろうと推測した。
「実は今日の事があって、別に内緒にするとかそういう話ではなかったのだけれど、他の妃候補者達はみんな把握していることのようだったから……その……もしセイショウが誰かから私のことで話を聞いて気分を害したら嫌だなと思って……」
キリンの話し方はそれまでと全く異なり、歯切れの悪いためらいがちなものになった。
シオンはもちろんセイショウもキリンがどんな話をしたいのか検討もつかなかったので、そのまま黙って話の続きを待った。
「単刀直入に言うと、今日の嫌がらせはたぶん私への嫉妬からくるものだったのではないかと思ったの。今までは私は彼女達から標的にされたことは無かったし、だとするとあのことで腹を立てているのではないかなと」
キリンはふっと一息ついて話を続けた。
「二週間くらい前かしら。ちょうどこのお茶が実家から届いた頃、珍しくケイキ様がここにお見えになられてね……。その時このお茶をお出ししてみたの。そうしたら、このお茶をとても気に入ってもらえて……。帰りに持ち帰れるように少しお茶を包んで差し上げるって申し出たんだけど、また飲みに来るからと言って受け取らずに帰られて。それから、そうね、おっしゃった通りそれまでに比べたらわりと頻繁にここにお越しくださっていたわ。三日置きくらいにはいらしてくださっていたかしら。とは言っても全部合わせても数えるほどしかいらしてはいないのだけど。それで、そのことがリンカ達の耳に入ったのではないかと。私が今日突然嫌がらせの標的されたのはそれ以外には思い当ることが特にないし。さすがに皇后様が今日の講義にいらっしゃるとまでは知らなかったと思うんだけど」
シオンは細かい所まではよくわからなかったが、大体の話は理解した。まずケイキ様というのは皇太子のことだ。つまり、皇太子はキリンが出したお茶を気に入って何度もキリンの家を訪ねた。そしてそれを知った左大臣の娘であるリンカと彼女と親しい妃候補者達が午前中の講義でキリンに嫌がらせをしたらしい。さらに付け加えるならば、そんなキリンをセイショウが助けたらしいということ。
シオンが想像もしていなかった話に言葉を失くしていると、セイショウは冷静にキリンに返事を返した。
「キリンがもし私がケイキ様とキリンとのそのお茶を介しての出来事を、誰か他の人から耳にしたら怒るのではと心配して話してくれたのなら、そんな心配をすることはないのよ。私達はお互い皇太子妃候補としてこの後宮にいるんですもの。ケイキ様といつどこで会おうと何も言うことはないわ。私達妃候補は誰でも皇太子妃になりたいと願ってここにいるわけだけど、例え自分が他の人より強く願ったからと言って叶えられるようなことではないしね。まして誰かに嫌がらせをしたりしてどうにかなるようなことでは全くないのよ。結局、最終的にはケイキ様のお心次第なんですから」
セイショウがキリンを見つめる目はとてもやさしかった。
少しおどおどしていたキリンも安心して落ち着きを取り戻したようだった。
「それでも……キリンが私にお茶でのことを話してくれたことには感謝しているわ。後宮では誰もが競争相手だから、仕方がないことだと頭ではわかっていても、お互い心がギスギスしてしまいがちでしょ。キリンは私とのそんな関係を避けようとしてくれたってことだもの。どうもありがとう」
セイショウはそこまで話すと、話題を変えた。
「あそこに見えるのは藤棚かしら。あと一月もすれば次は藤の季節ね。私、藤の花がとても好きなの。ちょっと近くで見て来てもいい?」
「ええ、そう、あれは藤棚なんだけど。この冬に作ったばかりだから今年はうまく咲くかどうかわからないわ。どうぞ見たいだけ庭を見て回って」
キリンは慌てて返事をした。
シオンにはセイショウが意図的に話題を変えたように思えた。これ以上妃候補同士で皇太子のことを話題にしたくないということなのかもしれない。
キリンとセイショウの会話を聞いてシオンは今まで考えていた後宮という場所が、全くの頭の中だけの空想の産物であったことを思い知った。ヤオが話していた通りここ後宮では秘密など存在しないほどあらゆる情報が女官や宦官達の間を飛び交っているらしいことははっきりとした。これほどまでに妃候補達は競争相手の動向を観察し、しっかりと把握しているとは驚くほかなかった。
しかしそれ以上にシオンが自覚した事はここ後宮はセイショウが皇太子の寵愛を受けられれば全て良しというような単純な所ではなかったということだ。後宮とは何人もの妃候補が存在していて、各々が各々の思いを胸に毎日を送っている女達の戦いの場であった。




