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「あ、こんばんは」
シオンは慌てた様子を絶対見せないように落ち着いて挨拶をした。
「実はリコウ様に借りていた琴を返しに行ってきた帰りなんです。今日までに返すとお約束していたのにすっかり忘れていまして。二人かがりで琴を持っていったので手燭を持つことができなくて」
家を出る前、もし宦官などに声をかけられた時のことをシオンはセイショウと一緒に考えていた。これでリコウに確認されたら終わりだったが、これしか良い言い訳が思いつかなかった。
セイショウはシオンの影になる場所に立って、着物の裾の汚れが気になるかのようにうつむいていた。
「ああ、そうか。それは御苦労だったな。こんなに暗くなってしまっている。手燭を持たずに歩くのは危険だぞ」
「ええ、本当にそうですね。なんとか灯籠の明かりで道は見えますから。気をつけて帰ります」
「ああ、そうした方がいい。それじゃ、気をつけて」
宦官はシオンの言った理由に特に疑問に持たなかったようだった。
「はい。ありがとうございます。それでは」
シオン達は急いでその場を後にした。
無事、二人は家まで戻って来られた。ヤオは二人が帰ってくるまでずっとヤキモキしていたようだったが、戻ってきたことでほっとしたようだった。
「シオン、本当にどうもありがとう」
セイショウはシオンに感謝した。
「うん。でも、やっぱり危険だよ。もう夜は出られないよ。今度見つかったら絶対に怪しまれる」
「そうね……。気をつけて歩いていても見つかってしまうわね。何か考えないといけない」
セイショウはそれでもキリンのことは諦めていないことは確かだった。
シオンも無事戻って来られたことで、先程のことを思い返す心の余裕が生まれた。それにしてもキリンの変わり様には本当に驚いた。あんなにいつも明るくて笑っているようなキリンと今日会ったキリンが同一人物なのが信じられなかった。
「ちょっと疲れたので部屋に戻るわ」
セイショウはそう言うとそれ以上何も言わず一人部屋へと行ってしまった。シオンにはセイショウの気持ちがよくわかった。あんなキリンの姿を見たら相当衝撃を受けただろう。一言だけ声をかけた。
「セイショウ、今日はゆっくり休んでね」
セイショウは部屋に戻ると長椅子に腰をかけて、ぼんやりとしていた。夜もこれから皇后の着物の製作をしなければならなかった。目の前の卓の上にはその縫い途中の着物が置かれていた。しかし今はとても手をつけられるような気持ちになっていなかった。
キリンがとにかく孤独を感じているようだということはよくわかった。思えばここ後宮では友達をつくるのは難しい。セイショウにはシオンもヤオもいる。シオンは実の妹だしヤオも幼い頃から一緒に育って実の妹みたいなものだ。気心の知れた人が女官として一緒に暮らしてくれれば安心できる。
キリンにもそういう人がいればいいのだけど。セイショウは思った。
しかし、キリンの家はセイショウの家とは全く違って立派で大きいはずだ。もちろん使用人もたくさんいるのだろう。キリンと一緒に後宮に来た使用人もいたと思うが、キリンとの距離はセイショウが思う以上に離れているのかもしれない。
セイショウは改めてシオンとヤオを後宮に一緒に行かせてくれた両親に感謝した。シオンとヤオには申し訳ない気持ちもあったが、どんな立派な着物や装飾より二人がいてくれる方が遥かうれしく心強いことだ。
セイショウはこれからどうしたらいいのか考えを巡らしていた。セイショウ自身はそう簡単に夜にキリンの家を訪ねることはできないことはわかった。
シオンに文を届けてもらうのはできそうだったが、それも頻繁にというわけにもいかない。謹慎中のセイショウがキリンに頻繁に文を送れば、後宮では噂になることもありえる。
もしキリンの様態を気遣う文を送っていることが広まってしまったら、逆にキリンには良くない結果になってしまう。
そこでケイキにお願いができないかと思った。ケイキが訪ねて行けば、キリンが元気になるかもしれない。しかしこれにも問題があった。
ケイキへの文には検閲が入る。妃候補が個人的なお願いを皇太子にさせないためだ。自分のところに会いに来てほしいなど、書いてはいけない制約が色々あった。
しかしケイキがセイショウのところに訪ねてくることは当分ないはずだ。どうしたらいいだろう。
セイショウはいい方法を思いついた。宴の翌日、ケイキはセイショウが贈った腰帯を戻しに来た。あの腰帯に白梅も刺繍するようにと。
急いで仕舞ってあった腰帯を出してきた。
セイショウはその腰帯に白梅の刺繍をまだしていなかった。実を言えば刺繍をするのを躊躇していた。セイショウは白梅の刺繍をそこに入れれば、ケイキにも不幸が訪れそうで怖かったのだ。ずっとこのことで悩んでいて手がつけられないでいた。
――しかし、今はこれを利用するしかない。
セイショウは意を決してこの腰帯の刺繍に取り掛かった。小さな刺繍だ。急いでやれば明日の朝までに完成させることが十分できる。目の前の皇后の着物を脇によけると、ひたすら腰帯への刺繍に没頭した。




