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「それにしてもまだ春なのよ。こんな夜に外に出たら寒いでしょ」
セイショウはやさしくキリンに言った。
「そう?そうかもしれない……。でも何となく外に出てみたくなったの」
シオンにはキリンが本当に寒さと感じているのか疑問だった。キリンは夢遊病者が外を歩いているかのようだった。魂が抜けてしまっているように見えた。
セイショウは急いで自分の着ている上着を脱いでキリンの肩にかけた。それから促すようにして庭に置いてある石の長椅子の方に向かわせた。そこでも急いで懐から手巾を出すと、座った時冷たくないよう椅子に敷いた。
「さぁ、ここに座って」
キリンはセイショウに促されるまま石の椅子に座った。セイショウもまたその隣に座る。
「キリン、どう過ごしてた?ここ二週間会ってなかったでしょ?」
「……どうしてたのかな。自分でもよくわからない。……そうそう、毎日イオリが来てくれてた。でも、彼は来てもすぐに帰っちゃうの。あとはまた一人ぼっちで」
シオンにもキリンの寂しさが自分の事のように胸に沁みわたった。隣に座っていたセイショウはキリンを抱きしめた。
「セイショウ?セイショウはどうしてたの?」
シオンにはセイショウがどのように答えようか迷っているように見えた。
「実は今謹慎中なの。それで毎日着物を縫って過ごしていたわ。キリンも知っているでしょ? 私は縫物が大好きなの。だから黙々と一人作業に没頭していたわ」
「……そう。ねぇ明日も会いに来てくれる?」
キリンはセイショウが話した言葉の意味が呑み込めていないような返事をした。シオンにはセイショウの話がキリンにどこまで届いているのかわからなかった。
「いいえ、たぶん明日は無理かもしれない。できるだけキリンには会いに来たいんだけど。また少し経ったら必ずくるわ」
セイショウは悲しそうに答えた。
「そうよね。セイショウはまだ怒っているわよね。私が『青琴の君』のこと言ったから……」
「いいえ、それはないわ。本当よ。キリンは悪くない。そう、『青琴の君』のことが理由で来れない訳じゃないの」
「ごめんね。セイショウ……」
キリンは瞳に涙をうるませて小さい声で言った。
「キリン、私が来れなくても元気を出して。足、まだ治っていないんでしょ? 早く良くなって。また花を一緒に見に行きましょう」
「うん……」
「明日もイオリさんは来てくれるんでしょ。彼の指示通りに過ごすのよ。彼ならきっとキリンの足を良くしてくれるから。私もまた折を見て訪ねてくるからね」
「ねぇ、セイショウ、セイショウの家にはケイキ様は来てくれてるの?」
突然キリンはケイキのことを持ちだした。このようなことは今まで二人の間で一度もなかったことだった。セイショウは少し驚いたようだったがすぐに答えた。
「いいえ、もうずっと会ってない。キリンも知っての通り、ケイキ様は私の所には月に一度しか訪ねてこないから。まだ当分訪ねてこないと思う」
「そう……。私はこの前、具合が悪いと言って会わなかったの。そうしたらそれから一度も訪ねて来てくれない」
「きっと今すごく忙しいのよ。皇太子の仕事があるんだから。もう少し待てばまた来てくれるはず。それより今は足を早く治して」
「そうね。そうよね……」
シオンは言いづらいことを切り出した。
「セイショウ、そろそろ帰らないと。あまり長居はできないわ」
「そうね。もう帰らないと。キリン、良く聞いて。もう一度言うわ。私はちょっと暫くは来られないかもしれない。でも、折を見て必ず来るから。それにここに来ない時もずっとキリンのことを思っているからね。だから元気を出して。早く足を治しておくのよ。治ったらお花を一緒に見に行くの。どこの花がいいかも考えておいてね」
「セイショウ……」
キリンは寂しそうな顔をした。
「大丈夫。キリンには今、しっかりした医官がついているんだから。彼を信頼して怪我のことは任せるのよ」
シオンはもう一度セイショウに言った。
「セイショウ、もう帰ろう。出歩くのに余りにも不自然な時間になってしまう。キリン様、私も足が早く良くなることを祈ってます。どうかお大事に」
「ありがとう」
セイショウはようやく立ち上がった。まだ後ろ髪を引かれる思いだったが、確かにもう帰らないと危険だった。
「それじゃ、キリンまた来るから。元気を出して過ごすのよ」
二人はキリンの庭を後にした。
太医院でイオリは一人自分の席に座って考え事をしていた。
「あれ? 今日イオリは夜勤だった?」
ずいぶん遅くまで残っているイオリを見て先輩医官は尋ねた。
「いえ、ちょっと調べたいことがあって。もう少しここで本を読んでから帰ります」
「そう、俺はもう帰るよ。それじゃ、お先に」
先輩医官はイオリの返事に気にも留めず、帰り仕度をし始めた。
イオリは目の前に本を広げていたものの、全くそれを読んではいなかった。先程セイショウを訪れた時のことを思い返していた。
それにしても、イオリはセイショウに会って驚くことばかりであった。
まず、セイショウを一目見て、内心その容姿の美しさに圧倒されていた。キリンのことは人並よりずっとかわいいと思っていたが、後宮には上には上がいるのだ。イオリはあれほど美しい人を見たのは初めてであった。カリュウが愛した人というのは見た目だけも十分納得できた。
それに、キリンのことを本当に思っていてくれているようだったことにも正直驚いた。キリンから親友だったとは聞かされてはいたが、実際には妃候補同士なのだ。お互い皇太子への競争相手という関係でもある。
その上、キリンはセイショウに酷いことを言ったのだ。イオリはセイショウがキリンのことを激しく怒っていることも想定していた。
それがキリンに文を出してくれるどころか、訪ねて行くと言ってくれたのだ。
セイショウは夜訪ねてみると言っていた。イオリはかなり危険なことにセイショウを巻き込んでしまったことを自覚した。
イオリ自身はセイショウの家を訪ねたことは全く後悔していなかった。例えこのことが発覚して処分を受けることになったとしてもかまわない、という強い覚悟で訪れた。
しかし、セイショウの方はどうだろう。これが発覚したらとんでもないことになりそうだった。 今、自宅謹慎中の身なのだ。どんな処分になるのか考えるだけでも恐ろしかった。
セイショウが言う通り実行していれば、今頃家の外にいるだろう。どうか誰にも見つからず、無事家まで戻ってほしいと心から祈っていた。
それからこのことでキリンが少しでも元気を出してくれればと願っていた。
あまり時間がなかった。足が治るのにあまりにも時間がかかると、ほかの医官が診察に訪れることになる。そこでキリンの足もさることながらそれ以上に、心に問題があることがわかってしまうかもしれない。
そうなればキリンの後宮での立場が危うくなってしまうことも考えられた。
そしてイオリは責任を取らされ担当から外されてしまうことになるだろう。イオリの力不足であったのだから、責任を取ることは全く構わなかった。
しかしこの先、キリンに会えなくなってしまったらと思うと、ますます心配になる。どうしても自分の手でキリンの足を治し、元気を取り戻してあげたかった。
セイショウとシオンは家への帰路を急いでいた。行きと同様、シオンが特に周りを注意しながら先を急いだ。
すると突然声がかかってしまった。
「おい、そこの女官達。こんな夜遅く、手燭も持たずにどこに行くのだ?」




