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キリンは宴の日から二日ほど足の傷による熱にうなされていた。ようやく三日目に傷も少し落ち着いて熱も下がっていた。
それまでずっと寝所で寝込んでいたが、少し歩き回れるようになり食事もとれるようにまでに回復していた。
しかしキリンは一人孤独だった。後宮で一番親しかったセイショウと縁を切ったのは自分の方だ。とは言えこの後宮で他に頼れる人は一人もいなかった。
宴から三日も経つというのに他の妃候補者達からのお見舞いの訪問は一人もなかった。
そして何より来てほしいと思っていたケイキからの訪問は全くなかった。怪我を心配する文さえ届いていなかった。
キリンは皇太子妃になりたいとか、皇太子を愛するのが自分の道だとかそういう単純な思いでいるわけではなかった。それでも何かの縁で後宮に入ることになったのだ。妃としてケイキと縁が結ばれ、お互いが幸せになれる道があったらいいなといった楽観的な希望はもっていた。
少し前にケイキがお茶を飲みに何回か通ってくれた時のことを思い出し、キリンは懐かしく思った。しかしそれも数回来ただけで途切れてしまっていた。
キリンはわかっていた。ケイキは自分のことなど特に何とも思っていないということを。何回か続けて訪ねてきたからと言って、それまでの態度と変化があったわけではなかった。
ケイキは一見やさしくて親切なので勘違いをしてしまいそうだが、それで誤解をしてはいけない。ケイキは他人との間に絶対的に踏み超えられない線を引いているところがある。キリンには決して入ることのできない場所をもっているのだ。
キリンはケイキが他の妃候補達にも同じように線を引いて付き合っていることを感じていた。そのためその事実がキリンをなぐさめ、まだ自分にもケイキと近づく機会はあるのではないかとささやかな希望を持っていた。
しかし、ようやくこの先にケイキとの未来はないのかもしれないと考え始めていた。
こんな風に家から出られないほどの傷を足に負っても、お見舞いの文の一通も送ってこないというのは、ケイキは自分に全く無関心であるということの証明以外なかった。
そうだとしたら、これから一体どうしたらいいのだろう。
セイショウとの仲も今後どうしたらいいのかわからず、キリンは怪我以上に精神的に追い詰められていた。
四日目の午前中、医官が一人でキリンの元を訪ねてきた。
それまでキリンの元には歳とった医官が医女を連れて訪ねてきていた。キリンは熱も高かったので、医官はその薬の処方などを医女に細かく指示をするため連れてきていた。
それが無事熱も下がり、これからは足の消毒を毎日しながら様子を見ることになった。傷が悪化しないよう漢方薬の処方はそのまま続けるが、後は自力での回復を待つというところまできたのだ。
部屋にキリンはその医官と二人きりになった。
「これから回復するまで、私が毎日足の様子を見に参りますから」
年若い医官はそう説明した。
そこでキリンは何か気になった。どこかで聞いたことのある声のようだった。それまではただ医官が訪ねてきたとだけ思っていた。しかしその医官を良く見てみた。
「イオリ……イオリでしょ?」
キリンは自分でもまだ信じられない思いで言った。
「キリン……いや、キリン様、お久しぶりです。良かった。私のことをまだ覚えていて下さったんですね」
そこにはキリンがよく知る青年が立っていた。
イオリはキリンの家のかかりつけ医の息子だ。イオリの父親はキリンの住む家の近くで町医者として開業していた。
イオリの父はキリンの家族や使用人などの具合が悪いとよく訪ねてきていた。そしてキリンの家では診察から薬の処方まですべて彼に任せていた。
子供の頃、イオリもまたよくキリンの家には出入りをしていた。キリンの兄のカリュウと会って遊ぶために来ていたのだ。
カリュウとイオリは年も近かった。その上、カリュウは誰とでもすぐに仲良くなれる性格だったのでイオリともすぐに遊び仲間となっていた。
キリンもたまに仲間に入れてもらって遊んだことがあった。カリュウは体を動かして外で遊ぶのが好きだったが、イオリはどちらかというと部屋で静かに遊ぶのが好きな方だった。
キリンはイオリと絵巻を一緒に見ながら珍しい動物の話などをしたのをよく覚えている。
しかし、カリュウが皇子達と共に学舎で学ぶことが決まって、イオリとの仲は自然と遠くなっていった。カリュウが家にいないことが多くなり、イオリが訪ねてくることも徐々に減ってしまった。
それから十年くらいは経ったのだろうか。
「どうしてここにいるの?」
キリンにはまだ信じられなかった。
「キリン様と会わなくなってから、もう十年は経っています。私はその間に父親の跡を継ごうと医者を目指していました。そして、今は宮廷の医官をしています。将来は父の医院を継ぐかもしれませんが、今はここで医術の勉強をしながら働いています」
「本当にイオリなの?信じられない……」
呆然として驚いているキリンをイオリは椅子に座らせた。そしてキリンの前にしゃがみ込むとキリンの足首に巻かれた包帯を解こうとした。
「今から足の消毒を致します。そうすれば、私が医官になったことも実感できると思います」
イオリは頬笑みながらそう答えた。
キリンはイオリの話を聞いていたのか、いなかったのか前かがみになってイオリの頬に右手を添えた。
「イオリ……」
イオリは驚いてキリンを見た。
「キリン?」
キリンはイオリと目が合うと突然泣き出した。大粒の涙を流し激しく泣き始めたのでイオリは戸惑った。
「一体どうしましたか?もしかして、足がひどく痛いのに今までずっと我慢していましたか?」
「どうして……どうしてイオリは私に敬語を使うの?私とイオリは一緒に遊んだ仲だったでしょ。私は今でも全然変わっていない。なのにイオリはどうしてそんなに変わってしまったの?」
「キリン……。いえ、キリン様。今ではキリン様は皇太子妃候補になられました。私はただの宮廷の新米医官です。もうキリン様とはずいぶん身分が違います」
イオリは静かにそう答えた。
「嫌よ。どうかその敬語を今すぐやめて。私のことは昔と変わらずキリンと呼んで。私はどうしてか今、後宮にいるけど、中身は全然変わってないんだから」
「そうはいきません。私のことを昔と変わらず考えてくれているのはうれしいです。しかし私は宮廷の医官です。さぁ、足を見ます。こちらに足を出してください」
それからイオリはキリンの足の様子を診察しながら、色々とキリンに話しかけたり尋ねりした。
「消毒の間滲みますから少し痛みます。我慢してください」
「ここはどうですか?痛いですか?」「包帯の巻き具合はきつくないですか?」
しかしキリンは治療の間、一言も返事をしなかった。
イオリは無事キリンの足の治療を終えると、広げていた薬びんなどを手早く片付けて立ち上がった。
「また、明日消毒に参ります。それまでにどうか私達の関係を考えてみてください」
イオリはそれ以上何も話さずに部屋を出て行った。
キリンは一人部屋に取り残されていた。
偶然イオリと出会ったことで、自分がどれだけ後宮に来る前から遠く離れた場所に来てしまったのか実感していた。
そもそもこれはキリンが望んで選んだ道ではなかったが、今までは何の根拠もなくそれでもどうにかなると楽観的に思っていたところがあった。
しかし今、後宮で自分は一人きりだと実感していた。ケイキに頼れず、セイショウとの仲も終わって、キリンはこれからどうしたらいいのか途方にくれていた。
キリンは逃げ出せるものなら、今すぐ後宮から逃げ出したかった。キリンはどんどん自分だけの暗闇の世界へと入り込んで行った。




