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シオンは都から遠く離れた国境の都市に住んでいる。都市とは言っても国の中でも特に注目されるような大きな都市などではない。米を作る農家がほとんどという田園地帯の中の少々賑やかな街があってそこに住んでいるというのが一番実状に近い。そしてシオンの父はこの地方都市の県令を長く務めていて、これまで家族は穏やかな生活を送っていた。
「送っていた」と過去形なのはこの街は2年ほど前、状況が一変してしまったからである。国境の街ということで地方都市とは言え人の往来は多く、あくまで辺境の街にしてはということだが、商業も順調に発展を遂げていた。そしてこれまでは特別大きな問題も起こさずに隣国とは付き合いを続けてきていた。
しかし隣国で政変が起き王が交代をすると、突然何の前触れもなくシオンの街のすぐ隣の村を攻めてきた。狙いはシオンたちの住む街の侵略であることは疑いようもなかった。幸い最初の攻撃は小規模なもので街に駐屯していた軍によってそれ以上の攻撃を食い止めることができた。しかしそれからは交戦、休戦を繰り返しながら小さな小競り合いを1年もの間続けることになった。
それまであまり注目されることのなかった穏やかな街は、都でも大きな注目を集める地方都市となり都にいた中央軍もこの街に次々と援軍を送ってきた。
そしてついに1年前大規模な戦闘の後、両国に多大な犠牲を出した末に終戦となった。最終的に両国の国境は戦以前の状態で決着し、領土は少しも侵略されることなく守り通すことができたが人的、経済的損失は少なくなかった。
それからは、戦いの舞台が街中ではなく主に街から少し離れた小さな村々や河川敷の草原だったことも幸いして、シオンの住む街は徐々に落ち着きを取り戻して行った。
ひとつ大きく戦が始まる前と変わったこと言えば、多くの兵士たちが今後も引き続きこの街に駐屯することになったという点であった。しかしこれは当然の流れであり、街の人々も強く望んだことである。
こうして穏やかな日常がシオンの住む街に再び訪れた。そしてシオンは以前とほとんど変わらない生活を取り戻していった。
しかしセイショウはこの戦によって大きく運命を変えることになってしまう。
セイショウ――彼女はシオンの二歳年上の姉である。街で知らない者はいないほど美人で有名な存在だった。目鼻立ちは整い、華奢で可憐な佇まいは誰が見ても目を奪われるほどの姿である。そして何より美人の最大の条件と言われる髪の色と瞳の色がぴたりと一致するその様は、見る人の心を穏やかにさせた。深い青色の髪と瞳は夏のどこまでも晴れ渡った空を思い出させ、一度見たら忘れることができないほど人々の心を強く惹きつけるのに十分だった。
そしてセイショウは容姿だけでなく、両親の教育もあって知的で学識もあり書を書かせても刺繍をさせても、そしてついには何をさせても一流だと人々は口にしていた。
そんな訳でセイショウは幼い頃から人々の注目を集め続けて育ったわけだか、性格は至って地味であった。家で一人静かに過ごすことが多く、特に本を読むのが大好きだった。本と言ってもこのような地方の街では手に入る本には限りがあったため、どんな分野の本でも手に入れば端から全て読んでいた。
見た目とは大きく異なり地味で家に閉じこもりがちだったセイショウだが、2年前、戦が始まると多くの兵士達がこの街に滞在することとなり、その兵士達の世話をするために頻繁に兵舎を訪れる生活へと変化をする。もちろん、セイショウだけでなくシオンを始め街の女性達は皆、食事や、洗濯、さらに怪我をした兵士たちの看護のために兵舎を往来した。しかし、そこでも圧倒的に注目を浴びたのは言うまでもなく美しく可憐なセイショウだったのである。
一年ほど続いた戦いの末、街には平穏が再び戻ってきた。シオンの家族も街の人達同様、これでひとまずは落ち着いた生活に戻れると安堵していた。
ところがそこに急に持ちあがったのが、セイショウの皇太子の妃候補としての後宮入りの話であった。戦の為にこの街に来ていた兵士達が都に戻ると、セイショウのことを口々に話題にしたのが原因だった。
「辺境の街に、目を見張るほど美しく聡明な女性がいる」
うわさはうわさを呼んで、都では大きな関心を集めることになった。そしてその話は都の有力者達の耳にも当然入り、セイショウの父の元へ皇太子の妃候補の要請の手紙が送られてきたのであった。
都の有力者からの要請を地方都市の一県令が断れるはずもなく、セイショウの意思などは全く無視され、後宮入りはあっという間に決まってしまった。
後宮に行くように突然言われ動揺して家を飛び出してしまったシオンだったが、ようやく心を落ち着かせ家に戻ってきた。
シオンは母親のスイレンが呼んでいたことを思い出して部屋へと向かう。扉の前で名前を告げ入って行くと、スイレンは長椅子に座り、手巾に刺繍を刺していた。
スイレンはセイショウが部屋へ入ってきたのを見て、にこりと微笑むと自分の隣に座るように促した。そして長椅子の横に置かれた小さな卓の上に刺繍の道具を置いて手を休めた。
「セイショウを助けるために後宮に行くようにというお話はお父様から聞いたわね」
スイレンはシオンの方へ体を少し傾けた。
「セイショウは後宮で何か問題があったの?」
シオンは気になってはいたものの口に出せなかった疑問を単刀直入に尋ねた。
「……ええ、そうね。セイショウは後宮で寂しい思いをしているようだと伝え聞いたわ」
スイレンは次に続く言葉を慎重に考えているようだった。シオンは父や母がどこからかセイショウの近況をいくらかは知ったことを察した。
セイショウが後宮に入って半年ほど、月に一度くらいの間隔で欠かさずセイショウは手紙を送って来ていた。そしてその内容はいつも、後宮での生活は何の問題もなく、日々穏やかに過ごしているから心配はしないようにというものであった。
シオンはそれを読んでそれをそのまま信用していたわけではなかったが、多少の問題や戸惑いがあったとしてもセイショウならうまく後宮で暮らしているのではないかと努めて思うようにしていた。しかし今こうして半年間のことを振り返ってみると、きっと父や母も自分達ではどうにもできない娘の事をシオンと同じように思っていたのかもしれないと感じた。
「私、後宮に行くね。私が行けばセイショウの助けになることが何かできると思うから」
シオンはスイレンの話の続きをそれ以上待たずに努めて明るく話を締めくくった。そして短い会話を終わらせて部屋から出ようと立ち上がる。
その時シオンはスイレンの隣にある小さな卓の上にある刺繍途中の手巾が目に入った。
「これは……」
「シオンに持って行ってもらいたくて急いで作っているの。手巾なら荷物にならないでしょ。これは以前セイショウに持たせたものとお揃いなのよ」
シオンには見覚えがあった。母は半年前セイショウが後宮に行くときも同じように手巾に自ら刺繍を入れて持たせていた。
セイショウの手巾には愛らしい白梅の花の刺繍が手巾の端に縫いとめられていた。これはセイショウやシオンが幼い頃、数々の持ち物に自分の持ち物だとわかるように母がつけてくれた印であった。そして、今作業中の手巾には――昔と幼い頃と変わらない『饅頭』の図柄の刺繍がつけられようとしていた。
饅頭の印――これはシオンが幼い頃そうしてくれと強く頼んでつけてもらったものだ。シオンは母や使用人達から他の柄の方がいいのではないかと何度も説得されたのを今でも覚えている。しかし幼いシオンは、饅頭が何よりも大のお気に入りだったのだ。
あの頃、シオンは今も仲のいい幼馴染のルリの菓子屋の饅頭にとにかく魅了されていた。毎日菓子屋に行ってはおやつにひとつ饅頭をもらって食べるのが日課になっていたほどだ。ルリの菓子屋の饅頭は幼いシオンのてのひらにちょうど乗るほどの大きさで、店の商品の目印となる二重丸の焼き印が饅頭の真ん中には焼きコテでぽんと押されていた。
事情を知らない大人たちはシオンの持ち物の印が三重丸(饅頭の輪郭に焼き印の二重丸)なのを見て、三重丸とはいいですね、などと意味もなく褒めたりしてくれていた。
さらに単純なルリはシオンのその印を見て栗饅頭を自分の印として持ち物につけてくれるよう母親に頼みこんだ。そういう経緯で栗饅頭の目印の焼き印である二重丸の中に小さく菱形の入った柄がルリの印となった。
二人は自分の希望通りの印をそれぞれ持ち物につけてもらい大満足であったが、シオンの友達の女の子達の中でシオンとルリの印をうらやましがる子は一人もいなかった。
スイレンはシオンが手巾に視線を向けているのを見て微笑んだ。
「懐かしいでしょ。大きくなってからは、物に印をつけることなんてなかったから。セイショウが後宮に行くときにも渡したけど、シオン、あなたにも持たせたくてね。あの時は気が進まなかったけどお饅頭の印、今となってはシオンらしくていい図案ね。説明がないとお饅頭とはわからないけれど」
シオンもその刺繍途中の手巾を見て微笑んだ。
「子供の時は、私とルリしかこの刺繍を気にいってなかったけど、やっぱりあの時お饅頭の印にしておいて良かった。これを見れば、あのおいしいお饅頭を思い出すし、あのやさしい甘さは人を元気にさせるもの」
シオンとスイレンは刺繍途中の饅頭の印を見ながら、暫くの間二人でくすくすと笑い合っていた。




