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リレンがセイショウの家を訪ねていたちょうど同じ頃、皇太子ケイキは自室で一人考え事に耽っていた。
ケイキは昨日からずっと宴で起きた『青琴の君』の騒ぎのことを、繰り返し考えていた。
ケイキは幼い頃からずっと皇太子という立場から逃げ出したい気持ちに囚われてきた。自分は特に優秀な訳でも、人を惹きつける何かを持っているわけでもない。それなのに皇太子という位をただ持っているというだけで、人は次々と集まってくる。
ケイキは人見知りをする性格で、一人で静かに時間を過ごすのが好きだ。しかし皇太子という肩書は、彼を自分の好きなように生きる自由を許してはくれなかった。
さらに実の母親である皇后は、世間では次妃を殺した恐ろしい女性として恐れられていた。事の真相はケイキにもわからなかったが、息子のケイキでさえこの噂は事実かもしれないと考えていた。
皇后のケイキへの厳しい支配もまた、ケイキが皇太子として生きる息苦しさを感じる要因であった。
それに対し同じ歳の兄弟であるリコウは、ケイキとは全く異なった人生を歩んでいるように見えた。ケイキとは対照的な性格を持ち、ケイキから見ればとても自由に生きているように感じられた。
ケイキはリコウには長い間劣等感を抱き続けてきたことを自覚している。
ケイキは自分とリコウのことを考える時、お互いを城のように思い描いた。ケイキの城はとにかく周りからの要求や干渉が激しい。ここに道を作ってほしいとかあそこに井戸が必要だとか。ケイキは言われたままに努力するが、その城内は雑然としその中の街の理念など何もないのだ。城壁も低くてかなり脆い。外からの攻撃を持ち堪えるのも厳しい。
それに対して隣に存在するリコウの城は対照的だ。まず城壁は頑丈で高く決して警備を怠らない。城の中の街も絶対に自分の作りたいようにしか作らない。確固たる信念があってそれに沿って着々と政策を進めていく。
今回の一件もそうだ。
セイショウとキリンが舞台に立った時、セイショウの様子が少し変であったことをケイキは気付いていた。
しかしまさかセイショウが『青琴の君』であったとは思いもよらないことだった。
セイショウが宴の出席者達から非難を浴びせられ、あの時ケイキは無意識に立ち上がってはいた。しかし皇后の制止を振り切ってまで助けに行くことができなかった。
しかしリコウは違っていた。あの後、あの場を支配したのはリコウだった。
ケイキは自分の行動ながら、何故あのとき下へ降りて行くのを躊躇したのかと自分に問うていた。
とは言え例え皇后の制止を振り切ってセイショウの元に行ったとして、リコウのようにあの場をうまく収めることができたとはとても思えなかった。
それでも――セイショウは自分の妃候補なのだ。ケイキのために琴を弾き、ケイキのために追い詰められていた。
どうして自分はセイショウを助けてあげられなかったのか。
ケイキは自分への苛立ちを募らせて、部屋の中をぐるぐると歩いていた。その時、ふとケイキにあることが思い浮かんだ。
セイショウからの誕生日の贈り物は何であったのだろうか。
他の妃候補をはじめ、皇族からのも臣下からのも贈り物のことなど、ケイキはそれまで一切興味がなかった。ケイキはこれまで贈り物を何かにつけ、あらゆる人たちから貰って来た。しかしうれしかった記憶などまずない。
高価な品々や貴重な物であることがほとんどであった。しかしそれらの品々をケイキは生まれながら十分なほど持っている。
金の指輪や、銀の腕輪がひとつ増えたところで指は五本、腕は二本なのだ。それ以上は着けられるものでもないと考えていた。
しかし、今は無性に贈り物のことが気になった。急いで女官を呼ぶとセイショウからの贈り物を今すぐ持ってくるよう指示をした。
暫く待つと女官はひとつの包みを持って走って戻ってきた。
ケイキはそれを受け取った。また部屋に一人になるとそっとその包みを開けてみた。
腰帯であった。それには祝いの贈り物に相応しく、金糸や銀糸を所々に使った豪華な刺繍が入っていた。その刺繍を見て、これはおそらくセイショウ自身が刺したものであろうとケイキは思った。
ケイキがセイショウと言って思い浮かぶのは、刺繍を刺している姿であった。ケイキはセイショウを訪ねるとほとんど話をすることもなく時間を過ごしていた。正確には「やり過ごしていた」と言う方が正しい。
それでもセイショウは今まで一度もそのことでケイキに何か言ったことはない。ケイキが眠るその横で、ただ黙って静かに刺繍を刺していた。
ケイキはその腰帯を何気なく裏返した。そこには小さく紅梅が一輪刺繍されていた。
あれはまだ寒い日のことであった。二月か三月の初めのことだったと思う。ケイキはその日セイショウの家でいつもと変わらない様子で過ごしていた。
長椅子に横になっていたケイキは目を覚ますと、隣にはセイショウがいた。そしてその隣には刺繍道具の入った籠が置かれていた。
その籠を見ると、上に手巾が掛けられていた。そしてその手巾の端には白梅の刺繍が縫いとめられていた。
特に何も思わずにケイキは言った。
「セイショウ、これも君が刺したの?」
いつも刺繍をしている姿を見ているわりにケイキはセイショウが何を刺繍をしているのか知らなかった。興味がなかったと言ったほうがいい。
それで、その時初めてこのようなものにちょっと刺繍を入れているのかと思ったのだった。
「いいえ、これは私の母が入れてくれました」
「母親が?」
「ええ、この白梅は自分の持ち物であることの印なのです。私の街では母親が自分の子供の持ち物に印をつける慣習がありました。幼い子供が自分の持ち物であることがわかるようにということだったのでしょう」
ケイキはその白梅を見た。そして白梅はセイショウの印としてとてもふさわしいと納得した。
「ケイキ様にはそのようなものはございませんか」
セイショウは訪ねた。
「いや、持ち物はすべて女官が用意するから」
ケイキは答えた。例え持ち物に印をつけるとしても、皇后が刺繍をするなど想像もできない。
「そうですか。この手巾は幼い時につけてもらったものではございません。私が後宮に入ると決まった時、母が新たに作ってくれたものなのです。よろしければケイキ様に手巾か何か印をお付けいたしましょうか」
「いや、私には印などないから」
「今から何かお決めになられたら如何ですか。私は拙いながら刺繍をするのがとても好きで、いつも時間があるとこうして刺しておりますので」
「そう……それならセイショウが白梅なら、私は紅梅にしようか。何か刺してもらいたいものがあったら頼むことにするよ」
ケイキはこれを冗談のつもりで話した。持ち物に刺繍など入れたいと全く思ってはいなかった。
ケイキはあの時の話をこの紅梅を見るまで全く忘れていた。しかし今、この紅梅をまじまじと見て、今すぐにセイショウに会いたくなった。
ケイキはその腰帯を掴んだまま、セイショウに家へと向かった。




