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相思華に踊る  作者: 狗山黒
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彼岸でまた逢いませう

 春の麗かな事。桜吹雪の中歩む少女は、息を飲むほど美しく見えた。

 実際に顔を合わせるのは初めてだったが、美しいと噂は聞いていた。其の噂に違わぬ、麗しい人であった。雪のように白く柔らかな肌、幽かに色付く頬、深い夜を縁取る睫毛、艶かしく輝く唇、真っ直ぐに落ちる鴉の濡羽色。握った手は小さく滑らかで暖かい。

 両親に大切に育てられたのだろう、世間の事はあまり知らぬが穏やかな気立ての持ち主であった。鳥籠に閉じ込められた大瑠璃のような、歌しか知らぬ金糸雀のような人であった。

 何よりも四季の変化、庭の様子を楽しんでいた。春の暖かさを手に、夏の輝きを瞳に、秋の静けさを唇に、冬の辛抱を胸に。

 ただ、本人は気付いていないのだろうが、時折ひどく哀しそうな顔をするのであった。其の笑みには常に、淋しさが影を落としていた。




 初めての春。例年より早く桜が咲き、梅との共演を楽しむことができた。妻は童のように、顔を綻ばせていた。

 本人は何も言わぬものの、妻は沈丁花を気に入ったようで、私が気紛れに活けると、とても嬉しそうにしていた。

 何事も人の手を借りていたのだろうか、家事をする手は覚束ない。使用人に任せればいいものを、彼女は自らの手でやる事に拘っていた。妻の小さな手は荒れて傷ついていたが、いくら気遣っても辞めようとはしなかった。頬を染めて礼を述べるだけだった。私は諦め、薬を渡し、褒めるに徹した。彼女はいつだって眉尻をさげ、はにかんでいた。

 夫は妻を愛するものであるが、此れは未だ愛ではない。心から、自分の命に代えてまでも幸せを願える程、好きではなかった。




 華は落ち、葉が茂り、新緑の季節が来る。庭の苔は青々と輝き、日光の煌めく水面を錦鯉が泳ぐ。朱塗の小さな橋から、妻は池を眺めていた。

 妻の料理の腕は上がり、山から筍や山菜を持ち帰れば、さっと天麩羅や和え物にしてくれた。私が日中出る時は、結び飯を竹の皮に包んで持たせてくれた。

 紫陽花が咲き、色を変え、梅雨が来る。空気が蒸され、蝉が鳴き始め、向日葵が目指す空には入道雲が浮かぶ。

 妻はよく傘も差さず、雨の中佇んでいた。風邪をひくと心配しても、彼女は何も言わず、あの淋しそうな笑みを浮かべるだけだった。

 照る日差しの中、妻と畑に出かけた。子供のように笑いながら、茄子、小金瓜、玉蜀黍、大葉、枝豆、胡瓜や南瓜などの夏野菜を収穫した。「人に任せられぬのは、あなたも同じですね」と妻に笑われた。

 時偶、蝉の抜け殻を泣き出しそうに見つめているのが、気になった。彼女を守らねばと、思った。




 夜が長くなった。空は高く遠くなる。秋桜が可憐に揺れ、薄が囁く。虫の奏でる音が、至る所で聞こえた。

 出掛ける度に菓子を買うようになった。初めて渡したのは、紅葉を模ったこなしだっただろうか。其の時の嬉しそうな顔が忘れられなかったのだ。彼女はとても大事そうに食し、金平糖などは一日に一粒ずつしか食べぬものだから、量の入った物は買わないようにした。土産だというのに、必ず私にくれようとした。

 月光に照らされた真白な躰は、柔らかく曲線を描く女性のものだった。紅く華の散る躰は大層美しかったが、今は秋だというのに、少し痩せている気がした。

 蹲り小刻みに震えながら眠る彼女に気づいた。




 真白な華が枝を覆い、冷たい空気が骨に沁みる季節。霜焼けになるからと言っても妻は聞かず、雪の上を裸足で歩いていた。

 彼女を残した初めての遠出。一週間ほど留守を任せた。

 土産は何がいいか尋ねたが、もらえるのなら何でも、という旨の発言しかせず、非常に困った。もっと欲張ればよいものを。

 食べなれぬ料理は美味であったし、人々も優しく持て成してくれた。一人で使う布団は広く、気候もよかった。だが妻が傍らにいない、というだけで心に野分が吹き荒ぶ。

 妻には硝子細工の簪と揃いの筆、上質な和紙でできた草紙を渡した。何か書き物をしているようだから、と選んだのだが、彼女は驚いていた。其の後涙を流したので、心臓を潰されるような思いをしたのだが、彼女が嬉し泣きをしているだけと知り安堵した。もったいなくて使えない、と言うので使ってくれぬと淋しいと返すと妻は困惑を露わにした。頭を撫で、冗談だと笑うと、未だ困惑気味に笑った。

 彼女は私の話をとても嬉しそうに聞いてくれた。相槌をうつのが上手いのだろうか、此方も調子付いて長々と話してしまった。次は共に行こう、と指を切った。

 出先でずっと妻の事が頭から放れなかった。できるだけ傍にいてやりたいと、私がいなくても幸せであるようにと、願った。




 季節は一巡りし、再び春が訪れた。梅の後に桃と桜が咲いたが、妻は不思議そうな顔をしていた。梅、桃、桜の開花時期は全て同じだと思っていたらしい。小さく笑って頭を撫でると、妻は顔を赤らめ押し黙ってしまった。

 不吉だからと私が活けるのを嫌った椿を、妻は好んだ。落ちてしまった花冠を愛おしそうに撫でていた。

 妻の両親が契後、初めて我が家を訪れる。出迎えに玄関で共に待つ妻の手を握ると、其の手は震えていた。強く握り返せば、其の手も握り返してきた。

 何か問題があったわけではない、ただ妻の顔は僅かに強張っていた。動きがぎこちなかった。言葉数も少なく、いつになく私の後ろに隠れていた。否、気の所為かもしれぬ。

 義理の両親の問は予想通りで、子は未だなのか、ということばかりであった。妻は何も言わなかった為、私が子は授かるものだからと、返答した。妻の両親は頷いたが、納得した顔ではなかった。

 両親が帰った後、妻にどうかしたのかと聞くが、彼女は何も言わず首を振るだけだった。悲しそうに口を歪める事もなく、淋しそうに眉を下げるでもない。その顔に表情はなかった。ただ、眼だけが物語っていた、憎いと。

 肩を抱けば、眉を下げ一瞬私を見上げてから、私に寄り掛かってきた。

 お前が何も言わぬのなら、私は何も言わないよ。




 柘榴の華が開く季節が来た。妻は柘榴の実がなるのを楽しみに、連日華を眺めていた。

 暁と共に朝顔が華開く。葉に下りた露が、垂れ落ちる。毎朝其の様子を眺めては水遣りをした後、梔子の薫に包まれ妻は笑っていた。

 妻と共に海へ出掛けた。行く道に咲く向日葵のような笑顔を、妻は私に向けていた。其れを見て私の頬も上がり、妻の顔は更に輝いた。

 妻は緊張した面持ちで鉄道に乗った。初めての経験だ、周りの風景に不安がっている様子で私の袖を掴んで放さなかった。いざ走り出すと彼女の顔付は興奮へと変わった。大きな鉄の塊が走るのが、物珍しいのだろう。

 妻はあまり人込みの中へ行かないのか、海辺の人の多さに驚いていた。

 泳ぐつもりはなかったが、妻は靴を脱ぎ、足だけで海を楽しんでいた。まるで童のようだと思ったが、彼女は未だ十六であった。

 海で焼き玉蜀黍とらいすかれい、とやらを食べた。初めて食したが、間違いなく異国の味であった。妻も驚いた顔をしていた。

 始終楽しそうな彼女を見ていると、私も幸せだった。




 庭の金木犀が薫を漂わせていた。和蘭撫子が華を開かせひしめき合う。

 紅葉と銀杏が其々色付いていた。地を埋める絨毯に彼女は倒れこみ、寝転がりながら声を立てて笑っていた。彼女の笑い声を聞くのは初めてだった。

 家の外には彼岸花が咲き揃っていた。葉と華は共にはいられない、此の華のようにはなりたくない、と独りごちた。真っ赤な中にぽつりぽつり、と白が混じる。妻の躰とは、色違いであった。

 妻と柿や梨をもいだ。妻の小さな手では上手くもげず苦労していたが、それでも果樹の下、木漏れ日の中で微笑んでいた。

 私が薄を狩り、妻が団子を作り、縁側で月見をした。彼女の名にあるように、団団たる満月だった。言葉もなく二人で月に照らされ、虫の合奏を聞いていると心が和らいだ。

 彼女への想いを自覚した。だが言葉にしてしまえば、消えていくような、未だ儚い想いであった。口にする事は叶わない。そんな気がした。




 世界が一層美しくなった。鈍色の空も輝いた、冬の冷たい天道も優しかった。雪さえも、冷たくはなかった。

 寒さに凍えた露が霜となり、緑を覆った。

 寒木瓜がちらほらと咲き、寒椿は花弁を幾重にも重ねた。山茶花が咲いては落ちる中、妻と焚火をした。

 雪の結晶を見ては、妻は喜び、消えていく様を見ては、あの淋しそうな顔を覗かせた。彼女の哀しみが、何処にあるのか、私には到底分からなかった。

 母と妻が共に出掛けていった。申し訳なさそうな顔をしていたが、楽しんで来いと声を掛ければ、頬を緩ませた。

 何気無しに部屋を覗くと、小さな鍵が落ちていた。部屋の鍵にしては小さすぎると疑問に思った処で、小箱が目についた。寄木細工の小さな箱、南京錠が掛けられている。試しに鍵を差し込んで回せば、小さく音を鳴らし、開いてしまった。

 気が咎めるのを感じながら、箱の中身を見ればまたしても鍵が入っていた。入れ子人形のようだと、鍵穴を探せば、抽斗が見つかった。好奇心の儘に鍵を外すと、中に入っていたのは鍵付きの草紙だった。愚かにも鍵と一緒に仕舞われていた。

 欲に塗れた私の手は日記の鍵を解き、葉を捲る。

 彼女の生き様を知る。嗚呼、彼女は、私の妻は、斯くの如く生きてきたのだと、心に闇を住まわせていたのだと、思い知る。

 頭を花瓶で殴られたような気がした。心臓に脇差を突立てられたかのように、胸が痛む。

 私が愛したのが、どちらなのか。そんな事はさして問題ではなかった。私は彼女を理解しきれなかった、其れだけが、其の後悔だけが胸中に渦巻いていた。

 出先から戻った妻を、名の無い妻を、強く胸に掻き抱く。妻は戸惑っていたが、其れでいい。私が妻を知らぬように、妻も私を知らなくてよい。そんな事を知るのは、死後華となってからで充分だ。




 彼女と夫婦になり三度目の、彼女を愛してから二度目の、そして真の彼女を見出してから初めての春が訪れる。

 石楠花と躑躅が薄紅の華を、椿と牡丹が紅の華を、桜は淡紅の華を咲かせた。花水木と藤が揃って私達を見下ろしていた。

 此の家に来てから妻は華に明るくなったようで――私の影響かもしれぬが――私が教えた訳でもないのに、躑躅を摘んで蜜を吸っていた。唇からこぼれる花冠が、妙に瑞々しく見えた。

 妻を連れて、花畑に出掛けた。山の裏手に、小さな華々が並んでいたのだ。

 薄紅の蓮華、紫の菫、桃色の桜草と芝桜、黄色い蒲公英と地縛り、背を伸ばす姫女苑と春紫苑、群生する赤詰草と白詰草。水仙が薫を放ち、鈴蘭は俯く。豊かな色彩を持つ香雪蘭が私達を招く。遠くで菜の花が列をなしている。

 妻は花畑に倒れ、華に埋もれた。私が隣に寝転ぶと、小さく「死ぬ時も華の中で」と漏らした。

 無造作に投げ出された妻の手を握ると、両の手で握り返し、妻は微笑んだ。死ぬ時は一緒だと言われている気がした。

 手近に咲いていた白詰草を幾つか千切り、冠を造り妻に捧げた。目を輝かせながら、冠を頭に掲げ、華の中で妻は微笑んでいた。

 冠より、首輪の方がよかったかもしれぬと悔いる。妻が今にも華に消えてしまいそうな、下らぬ妄想が頭を過った。

 其の儘眠ってしまった妻を抱え、帰路に就いた。幼子の寝顔だった。

 帰り際、偶然傍を通りかかった行商から華を買った。

 家に着いて妻を起こし、夕食を済ませ、寝る支度に入る頃、妻に切り花を贈った。西洋から入った華で、妻は初めて見るのだろう、不思議そうにじっと眺めてから、礼を述べ花瓶に活けた。

 妻に捧げたのは鬱金香、洋名はちゅうりっぷ。紅い、赤い牡丹百合。




 槿が咲き始めた。咲いては落ち、落ちては咲き、短いようで長い華だ。

 鬼灯が華を灯した。妻は昨秋に、あの赤い実を頬張っていた。

 様々な色の百合の中に桃色の撫子が混ざる。妻は其の美しさに目を細めていた。

 立葵が向日葵と競い合うように背を伸ばしている。立葵は枝に幾つも華をつけ、向日葵は大輪の華を咲かせた。

 妻と縁側に座り、昼は茶を飲み西瓜を食み、読書に勤しんだ。言葉はいらぬ、此の静けさが心地良かった。夜は妻の酌で酒を呑んだ。妻が造った肴をつまむ。有触れた日々だが、此れ程の幸せを感じた事はなかった。

 蛍狩りに川辺へ出掛けた。二人で手を繋ぎ、夜の畦道を行く。青い稲がそよいでいる。蛙の鳴き声が歌う。

 澄んだ川に月明かりが反射する。風に靡く柳の下で、蛍を眺めた。幾つもの小さな煌きが揺ら揺らと宙を舞う。「星が落ちてきてしまったのですか」と妻は空を見上げた。

 流れ落ちる天の川と、満天の星空。綺羅と瞬く色鮮やかな数多の星屑。暗闇が暗闇と思えぬ程、空は眩かった。言葉にはできぬ、何も口から零れなかった。私如きが、許されはしない。飛ぶように流れた星を見て、「あ」と妻は声を上げた。

 妻に自鳴琴を贈った。歌しか知らぬ金糸雀が、鳥籠から飛び立つ事はもう無い。ならばせめて、私という籠の中で、歌ってほしかった。歌しか知らぬなら、其れ以外は私が教えればいい。彼女の幸せを創れるのなら、業火に身を窶してもいい。




 大輪の菊が華開く横で、小菊が華と華を押し合う。

 真っ白な風車が、其処彼処に咲いていた。

 紅葉と銀杏が色を変えるように、田園は青から小金に姿を変えた。日光の下に輝く小金が、眼に眩しい。

 首を垂れる稲を見た父は「子はまだか」と問うてきた。私は曖昧に笑って誤魔化した。

 稲の刈入れが終わり、里芋の収穫に入ろうとしていたところに妻が来た。昼食は持って来ていたし、何より母を伴っていた。何事かと慌てて会いに行くと、妻の顔も母の顔も晴れやかであった。不思議に思い聞くと、妻は一言、子を授かったと。

 何を言われたのか一瞬分からなかった。自分は何を言うべきか、何をすべきか、頭が回らなかった。後ろから来た父が話を聞き、私の肩を叩き漸く気が付いた。未だ声は出なかったから、ただ妻を抱き締めた。妻も抱き返してくれた。

 父は父らしく構えていたが、何処となく落ち着きの無いのは明らかだった。母は浮足立ち、産着を縫い始めていた。私は、というと、父と同じように右往左往するだけである。男など、何もできぬも同然だ。平常に過ごしているのは、妻だけだった。

 あちらの両親に告げれば、予想通り帰って来いとの事だった。家の者は皆引き留めたが、妻は「忌事」だからと笑って聞かなかった。

 妻は私が贈った物を持って帰ろうとはしなかった。生きて帰ってくる為の人質だ、と笑っていた。そんな事を言われては、私は何も言えなかった。

 帰ってしまう妻に彼岸花の束を贈った。犇めく赤に落ちた黄、取り残された白。赤に囲われ、黄が白を抱くように結んだ。再会を願った、相思華。

 腹を撫で、哀しそうに微笑む、最後に見た其の顔が忘れられなかった。




 世界が色を失う冬。全てが真っ白に消えた。

 霜が降り、池に氷が張る。冷たい空気に身が晒され、鼻がつんと痛んだ。何時かの妻の真似をして雪の上を素足で歩けば、心まで霜焼けになるようだった。

 文を出すと言った妻からの文も、彼女の女中からの文も一通も届かなかった。私への返事も無い。文を書けぬ程、厳しいのだろうか。

 父は未だ気も漫ろといった様子だ。母は地に足がつかない様子で育児の準備を整えている。私だけが、海底に沈んでいるようだ。

 妻の残していった自鳴琴を毎日のように聴いた。

 たった一人で縁側に座った。書を読んでも頭にはまるで入らない。女中の造った肴は、味がしなかった。酒を呑んでも、気分が良くなる事はなかった。

 部屋の広さを改めて体感する。荷は殆ど其の儘なのに、途端に殺風景になったような気がした。景色が死んだのではない、私の心が死んだのだ。

 いつもの癖で布団の片側に偏って寝てしまう。其の癖が余計淋しさを増長させた。未だ妻の残り香があった。妻が傍にいるような気がして、香に包まれて眠るが、起きて虚しさに襲われるだけだった。

 此れ程の苦しみを感じたことはなかった。人を待つだけだというのに、待つのはいつもやりきれない。




 沈丁花を活ければ妻が帰ってくるような気がした。躑躅の蜜を吸いに帰ってくるような気がした。椿を落とせば拾いに来る気がした。白詰草の冠を造っては、妻の不在を思い知らされる。桜の中に妻の姿を錯覚した。花畑に倒れこんでは、妻の姿を思い描く。

 妻はあちらで幸せなのだろうか。腹に子がいるのだから、今までとは待遇が違うだろうと考えたが、妻が幸せなはずがない、常に其処に帰結した。

 気が落ちて、華の世話をするのも億劫だった。

 未だ、文は届かぬ。私の文は届いているだろうか。

 愛が信頼だというなら、私は妻を待つだけである。本当は其の儘駆け出して、会いに行きたかった。

 妻と子が元気ならば、我が家が不浄になろうと物の怪が憑こうと構わない。ただ、早く帰ってくればいい。




 朝露が、落ちた。

 紫陽花は色を変えたのだろうか。

 梔子の薫が漂ってきた。

 蝉の鳴き声に雑じって、妻が私を呼んだ気がした。




 紅葉と銀杏は色を変え、落ちていったのだろう。稲も小金になり、首を垂れただろう。

 薄は今年も囁くだろうか。秋桜はそよぐだろうか。金木犀は香るだろうか。果物は熟しただろうか。月は妻を照らしてくれるだろうか。

 一年経ったが、妻は帰ってこなかった。妻ではなく、妻の両親に文を出すと、妻の実家に呼ばれた。

 驚きか、悲しみか、声を失った。顔色悪い女性が、床に臥していた。

 死産となった妻は、床に臥せた儘、其の儘目覚めぬそうだ。私の所為、だろうか。物の怪に憑かれてもよいなどと言った、私への罰だろうか。

 相も変わらず小さな手を握った。力無く垂れた手が、握り返す事は無い。時雨が私を襲う。

 お前が目覚めぬのなら、季節など巡らなければいい。お前と私の時は、止まった儘なのだから。

 我が子が眠るという桜の木の下に一人佇む。葉の擦れる音が、妻の声に聞こえた。




 華の少ない庭にも冬は来る。数少ない木々に雪が積もった。春が来る頃には、妻を連れて再び花畑を見られるだろうか。永遠の冬が、口を開けて待っていた。

 妻の連れていた女中は私を避けていた。理由を聞く事さえも許されなかった。

 女中が桜の木の下に佇むのを見掛けた。根元に向かって、妻の名を、呼んでいた。

 根拠は無かったが、心を巡るのは、たった一つ。妻は死んだ、ということ。其処に寝ているのは、妻ではない。

 違和感はあった。ただ、何処が違う、とはっきり言える程の差異は無かった。妊娠の影響かと思ったのだ。

 妻の両親がいずれ口を割るだろうと、隠れてついて回った。

 妻の妹の眠る部屋で、誰もいなくなると両親は話し始めた。ぽつりぽつり、漏らすように話すのだ。頓挫した計画を、妻を責めるように話していた。


 双子が生まれてしまった。先に生まれてきた姉が悪いのだから、と徹底して妹の影武者になるように育てた。幸いにも瓜二つだったし、姉は其れを不思議に思わなかったから上手くいった。

 だがある時、姉は事実を知る。私は影武者として生きる術しかない、と知る。

 姉は復讐を企てる。単純にして複雑な呪いを、育んだ。

 姉は妹として嫁ぎ、子をなし、実家へとんぼ返り。子を産んだ姉は殺され、姉として妹、否、妹として妹が嫁ぐ。子は乳母が育てる。妹は妊娠という不浄の痛みを知ることなく、純潔の儘、妻として母として幸せになるのだ。

 姉は此処までの目に遭うとは知らなかったようだ。

 ところが実家に戻った姉は、自分が殺されると勘付く。毒を盛られつつ庭の鬼灯の根を食べ、母子共に死ぬことを決意したのだ。復讐が果たせぬなら、せめて計画を曲げるだけでもしようと考えたのだろう。

 彼女の思惑通り事は進み、姉と其の子供は死んでしまう。

 子はおらぬがいいと考えた。しかし妹は床に臥せる。

 妹が床に臥せた原因はまるで分からぬ。


 憤りよりも悲しみが襲う。何が悲しいのかも分からぬ。私を頼ってくれなかったことか、死んでしまったことか。

 ただ妻も子もいないのなら、私に生きる必要はなかった。

 桜の木の下で何か踏みつけた。蝉の抜け殻だった。




 まだ春だというのに蝉が泣き始めた。蝉の姿は何処にも無い。

 死ぬ機会を失い、惰性で生きていた。

 ある日、行商が家を訪れた。男は眠る妹を見て、口角を上げた。

 男を問い正しても、まともな返答は得られず、蝉の抜け殻を手渡されただけだった。だが男の言う通りに、妻の名を呼びかけると、妹は目覚めた。

 妹ではなかった。憎しみと悲しみを孕んだ其の瞳は、間違いなく、私の妻のものだった。私を抱き締める腕も、私を呼ぶ唇も、流れ落ちる髪も、色付く頬も、匂う香も、音をたてる心臓も、妻の其れだった。

 周りは恐れ慄いていたが、そんな事は気にならなかった。今、私の世界にいるのは、妻だけだった。世界に色が付いた。

 目覚めた妻は私に何も言わなかった。私が何を知っているのか聞かなかった。私も妻に聞くことはなかった。

 妻に渡した『ひがん』の華は、私の願いを叶えたのだ。

 嗚呼、また会えたね、鞠子。




 妻の家はまるで華が咲かない。妻には多くの華が咲いて見えるようだが、おそらく早く帰りたいあまりだろう。

 早く帰りたかったが、妻は未だ満足に動けなかった。

 私は妻と離れで暮らしていた。面倒は、あの女中が看てくれた。

 私は幸せだった。狭く暗い部屋に二人きり、其れが私には到底考えられない程幸せだったのだ。

 鳥籠に閉じ込められた鳥に歌ってほしいのなら、歌を教えるのではない。自分も鳥籠に入ればいい、それだけの事だった。

 昼間は何をするでもない、妻の小さな手を握り、話をするだけだった。妻は床に臥した儘だったが、以前のように笑ってくれた。起き上がれるようになったら、何をしよう、何処に行こう。取り留めもない話だったが、妻が笑ってくれるなら、其れでよかった。

 妻を腕に抱いて眠った。妻の躰が震えることはない。暖かで柔らかく、優しい匂いがする。妻が帰ってきたのだと、感触を味わった。

 何かを隠すような素振りを見せることもなかった。漸く、私は愛する妻の全てを見られたのだ、と安堵した。

 食事に毒が盛られる事も、両親と妹の影に怯える事もない。妻は安らかに生活することができるのだ。早く連れて帰り、私の父母と、そして新たに授かるだろう子供と、暖かな生活を送る事ができれば、と願った。

 妻の顔には、未だ一抹の淋しさが残っていた。




 夏の終わりの頃。向日葵や朝顔は枯れ落ち、枯葉を散らす風は冷たくなってきた。空は遠い上、夜は長い。寒蝉と蜩だけが、淋しそうに鳴いている。家の傍の彼岸花は、華を付けただろうか。

 何処からか焦げ付く臭いがした。障子を開け外を見ると、母屋に焔が灯っていた。此の儘では此方にも移るだろうと思ったが、時は遅く、離れにも火はついていた。

 音をたて木々が燃え、煙が渦巻く。赤々とした炎は、彼岸花を連想させた。天道の近くに呼ばれたような気がした。

 心の奥底で、もう逃げられないと声がする。それでも妻を抱えて逃げようとした。

 「蝉は、夏の間しか、歌えぬのです」

私の腕を止めて、妻は呟くようにそう言った。あの哀しそうな笑みを浮かべた顔、ただ、今まで見た事ないくらい穏やかな笑みであった。

 私の膝は崩れ落ち、ただ黙って妻を抱き締めた。劫火を消そうとするかのように落ちる涙に気付いたのか、妻はあやすように私の背を撫でては叩いた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と涙ぐむ声が聞こえた。

 父母には申し訳無いと思った。ただ妻と共にいる為には、此れしかなかった。妻を一人淋しく殺す事などできない。彼女の幸せを願うからこそ、信じるからこそ、愛するからこそ。

 朱い華が地を埋める彼岸で、華開くような、幸せそうに笑う妻が私を待っている。其の笑みには、もう淋しさは無い。真っ赤に燃える彼岸に、足を踏み入れた。

――『彼岸でまた逢いませう』より一部抜粋、加筆修正

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