迷わず、シャッターを、切る。
あれは一瞬のことだった。だが、桜井由梨香にとっては全てがスローモーションのように見えてならなかった。日頃から周りの風景に注視している彼女には、世界の動きは常にゆったりとしたモノに変換される。
最初は、九条通明の手から黒いビームが発射されたのかと思った。でもいくらなんでもそんなSF的展開はないよ、と判断した由梨香はひとまず謎のビームの正体解明を保留し、その向かう先に注目する。
ちょうどそこへ鴨上貴恵が通りかかる。
ビームは彼女の鼻に命中する。
その瞬間、由梨香は黒いビームが墨汁で、九条通明が手にしていたスポイトから放たれたと判断。そして同時に制服のポケットから携帯を取り出す。
それはもう条件反射と言っても差し支えないほどに素早く、自然な動作だった。
鴨上貴恵の鼻から墨汁が流れる。
まるで黒い鼻血を出しているみたいだ。
由梨香は右手の親指に力を入れる。今がシャッターチャンスだ。
でも――。
と、桜井由梨香は躊躇する。
ここで写真を撮るのは簡単だ。けれどシャッターを切った瞬間、パシャッという間抜けな擬似シャッター音が鳴ってしまう。できることなら写真を撮ったことは知られたくない。貴恵のことは嫌いだけど、表向きは好意的に接している。面倒ないさかいは避けたい。
由梨香は廊下側の一番後ろの席だから、誰かに見られる心配はあまりない。音の問題さえクリアできれば――。
その時、教室が爆笑の津波に飲み込まれる。
貴恵のきれいな顔に黒い鼻血は、どうしようもなくおかしい。笑ってしまうのも無理はないかもしれない。
教師が怒鳴って注意しているが、爆笑の渦には無力だった。けたたましい笑い声はクラスメイト達の腹の底から火山のごとく湧き上がる。
桜井由梨香はもう躊躇しなかった。
迷わず、
シャッターを、
切る。
パシャリ、という音は笑いの大波に飲み込まれ、写真を撮った由梨香にすらよく聞こえなかった。
写真を確認してみると、黒い鼻血を出した鴨上貴恵の顔がしっかりと写っている。
由梨香はその日の夜、その写真をPCにコピーし、フリーメールからクラス全員の携帯に向けて送信した。
由梨香は自分が撮った写真は全て好きだったが、その写真だけは自分で撮ったのに好きになれなかった。
貴恵の黒い鼻血写真は、生まれて初めて撮った嫌いな写真になった。