未来の写真家の足取りは軽やか。
桜井由梨香にはテストよりも身体測定よりも憂鬱な時間がある。店番だ。
日曜日は母はスーパーのパートに出るから、店には父しかいない。そのため、父が昼食の時だけ由梨香が店番をすることになる。
大体いつも十二時から一時までの一時間だ。その間、彼女はカウンターに置いてある丸椅子に座り、一時間もの間、店の時計をじっと見つめ、早く一時になれと念じる。
店番と言っても、由梨香がカウンターに入っている時に客が来たためしなどほとんどない。今日だって、カウンターに座ってからかれこれ三十分経つが、誰一人として来店してない。こんなことなら店番なんかいらないんじゃないかと思う。
こうやって店番していると、自分はもう一生この「桜井模型」からの脱出は叶わないんじゃないかという恐ろしい気持ちが心の奥底から湧き出てくる。
薄暗い店内に所狭しと詰まれたプラモの数々。中には由梨香が生まれる前から店に置かれているものまである。
そんななんやかんやが、桜井由梨香を暗い気持ちにさせる。
いや、暗い気持ちなのは今に始まったことじゃない。ここのところずっとだ。
貴恵の黒い鼻血写真をばら撒いてから今日で一週間が経った。
その間に色々あった。驚いたのは、九条道明が自分の鼻から墨汁が垂れている姿を写真に撮り、クラス皆の携帯に送ったことだ。
いったいどういうつもりなのかはわからないが、由梨香は飛び上がるほどびっくりした。クラスの皆はその写真を見て笑い、二、三日の間は道明をからかった。
だがすぐに皆飽きてしまったのか、今じゃ誰も写真のことに触れない。貴恵の写真も同じように忘れられている。
貴恵と道明は仲直りしたのか、前と同じように普通に話すようになった。
……いや、前より親しげだ。
何があったかはわからないが、もしかすると――、と桜井由梨香は睨んでいる。
結果的に、貴恵にとってはプラスに働いたのかもしれない。
それが由梨香を暗い気持ちにさせている。どうして貴恵はああも恵まれているのか。そしてなぜ自分はこんなシケた模型屋で店番などしているのか。腹が立つを通り越して、諦観すら抱く。
そんな由梨香の耳に、明るい声が入る。
「ゆーりーか」
桜井由梨香は力なく首をふると、店の外に出る。そこには一橋将也が立っている。彼は顔をほころばせている。
「なんか用?」
「とりあえずこんなところじゃなんだから中に入ろうよ」
「それはあたしのセリフだバカ。しかもそんなこと言うつもりないし」
「いいからいいから。吉報を持ってきたんだぞー」
将也に背中を押されて店に戻る。
「いやぁ模型屋の店番ができるなんて、由梨香が羨ましい」
「黙れバカ将也」
「つんけんすんなよ。心躍る日曜だぜ?」
「心躍る日曜にこんなショボい模型屋で店番する女子の気持ちも考えろっ!」
「ああ、本当にご機嫌斜めだなぁ。ここは俺の吉報の出番だな」
将也は一人で納得し、勝手に話を始める。
「なんと、俺のブログのアクセス数が千人目を突破したのであーる!」
「ふうん」
「えーそれだけかよ。リアクション薄いなぁ」
「凄さが全然わからない。大体千人ってそんなに凄くないんじゃないの。一万やそこらいってるブログなんてざらにあるし」
「まあそうだけど、俺のブログにしては凄いんだよ。なんせ今までが酷かったからさ」
「そう」
「お前のおかげなんだよ。由梨香」
「えっ」
「お前が撮った写真をアップしてから、アクセス数が急上昇したんだ。あのしょっぱいコメント書いたヤツもきっとびっくりしてるよ」
「そ、そうなんだ」
「ありがとな」
「べ、別に、いいけど」
由梨香はどういう顔をしていいかわらからず、なんとも奇妙なしかめ面を浮かべる。
自分が撮った写真で人から感謝されるなんて初めてだ。なんだか胸の奥がホカホカして、体が軽くなったような気分になる。
「やっぱ由梨香の写真スゲェよ」
「う、うん……」
「だからさ」
将也はそこで声のトーンを少し落とす。
店内の空気が少し重くなったような気がする。
「もうバカな写真をばら撒いたりすんなよ。せっかく良い腕してんのに、もったいないよ」
「えっ――」
由梨香はハッとして将也の顔を見る。
彼はふんわりと笑みを浮かべているだけだった。
由梨香が何かを言おうとすると、間が良いのか悪いのか、父が昼食を終えて姿を現す。
「おーい由梨香ぁ、交代だぞー。おッ、一橋くん、いいところに来たな。君に見せたいものがあるんだ」
「何ですか何ですか」
そこから父と将也のプラモ談義が始まり、由梨香は蚊帳の外であった。
彼女は自分の部屋へ戻り、カメラを手にする。それからフィルムを入れ、写真を撮りに出かける。
外は風が穏やかに吹き、夏の日差しが商店街に降り注いでいる。
由梨香の足取りは軽やかだった。




