04.神(シン)
―――――遅かった。
マソオは色をなくしたシノメの顔を見つめたまま、臓腑を迫り上げるような焦慮を押し殺していた。
今すぐにでも駆け出して、シノメの言葉が誠であるのかこの目で確かめたかった。しかし、兇変に見舞われ、嘆き煩悶しながら堪えてきたであろう彼らの前でそれを煽るような態度は見せられない。
マソオは小さく肩を震わせるシノメにゆっくりと言葉をかけた。
「どうぞ心を鎮めて下さい。神の失跡は確かに大事ではありますが、前例が無いわけではありません」
途端にシノメの体が鞭で打たれたようにびくりと揺れる。
マソオは眉を顰めた。シノメを落ち着かせようとした言葉が、逆に彼女を怯えさせている。目を伏せて戦慄く今の彼女に、門の前で村の者達に示した毅然とした村長の姿を見出すことは出来なかった。
「出来うる限りの力を尽くすつもりです。長、仔細を話していただけますか?」
憔悴し切りのシノメには酷だが、耐えてもらわねばならない。
「はい、もちろんでございます」
シノメは頷くとかすれた声で話し始めた。
「ルカタの地に祀られし神は名をウツシロと申されます。穏やかで情け深い御気性をお持ちの男神で私共の誇りであり、縁でありました」
何かを思い出すようにウツシロの話をするシノメは、濃い疲労の色が滲む顔に柔らかな皺を刻んでマソオを見た。
「寡黙な方でございますが、それ故にか静謐な空気を纏われて、ウツシロ様と言葉を交わすと、どの様な時でも不思議と心が平らいだものです」
シノメの口調は、まるで肉親や敬愛する友の話をしているように親しみの篭ったものだった。しかし、温かい光を宿していた瞳に突として暗い陰が差す。
「ウツシロ様がお姿を隠されたのに気づきましたのは、丁度十日前………あれは夜半中降り続いた雨が明け、雲の切れ目から青空がのぞく朝の事でございました。私とウカンが社に神拝に参りましたところ周囲の泥濘に踏み荒らされた跡があり、扉は開かれ、辺りには泥がこびりついておりました。まことに今思い返しても総毛だつ光景でございました」
シノメは腕を擦って、恐ろしげに首を振った。
「いくらウツシロ様をお呼びしても応えがなく、扉から覗く床には点々と泥が落ちております。ご無礼を承知で中を検めさせて頂きましたところ、どこにもお姿はなく………。そのまま今日まで一度もお戻りになられておられませぬ。」
言葉を切ったシノメが細く息を吐くと、部屋の中はしんと静まり返った。
―――――なんということだ。神の社を暴いた者がいるのか。
この場にいるのがリョオウだけならば、マソオは間違いなく天を仰いで嘆息していただろう。
想定した最悪の事態を上回る実情を目の当たりにし、マソオは言葉を失った。板を貼り付けたように頬は強張り、身体の芯が寒風に当てられているかのように冷えて縮こまっていく。
一体誰が何の為に………。
神はその者の手にかかって屠られたのだろうか? それとも………。
不意に、かんっという高い音が耳に届いた。
リョオウが灰吹きの縁に煙管を打ちつけたのだ。
マソオははっとして、視線をあげた。
シノメは震える拳を膝に置いて瞑目し、ウカンは膝先の床の木目に目を据えてじっと見つめている。強張った顔を見られずに済んだ事にマソオはほっと息を吐いた。
新しい葉を詰め終わったリョオウが煙草盆に顔を寄せる。熾った墨を埋めた、火入れにかけられた乳白色の釉は、縒り糸を解いたように筋をひいて流れる秋の雲の様な、美しい文様を形作っていた。
葉に火が移り、煩わしいと思っていた煙がたゆたうのを目で追ううちに、マソオは落ち着きを取り戻していた。
「村の方々はこのことをご存知ないようですね」
村の者達が知っていれば、皆がみな動じずに平素の営みを送ることなど出来はしない。だが道中で見かけた女達も、村の様子も、長閑なものだった。
「………はい。ウツシロ様は先だって現れた怪を倒すのにお力を使われて浅き眠りに入られたと、そう伝えております」
力の弱い神の中には極まれに大きく力を消失した後、眠りにつくものがいる。その様な神は万一に備え、村の周囲に結界を張り巡らしているもので、ルカタの村にも今にも消え入りそうになっている朧げな護りがかけられていた。
「ウツシロ様がお眠りになるのは、よくある事なのですか?」
マソオの問いにシノメは首をもたげかけ、ふと眉を寄せると、縦にも横にも振らぬまま口を開いた。
「私が長になって三十年余りになりますが、その間に二度。先の代は短く5年程でその間にはありませんでしたが、その前の祖父の代には一度あったと聞かされております。それ以前の眠りについては伝えられておりませぬ」
マソオは相槌を打ちながら考え込んでいた。どうも引っかかる。頻繁に眠りに入る神は、その正確な記録が残らぬことが多い。しかし、幾らも眠りを必要としない神は、その数が少ない程、遡って伝えられるものだ。ウツシロほどの頻度ならば先々代以前の記録が残っていないのは不自然だった。
ウツシロは本来眠りを必要としない神だったのだろうか?
それにしても、とマソオは首を傾げた。十数年に一度の変事に、十日もの長い眠り。よく村人は不審に思わなかったものだ。
マソオはリョオウに向き直った。
「ウツシロ様の社を見に行きたいのだがどうだろう?」
ふうと白い煙をはいて、リョオウは首をかたむけた。
「とうに日は落ちております。見てどうなさるのです」
家に上がる時には夜の闇が迫っていたのだ。今頃はとっぷりと暮れているだろう。確かに、社の惨状を見にしたところで今日はもう動けるものではなかった。
「神が既に失われているのなら、我らに講じられる策は限られております。今更、急いたところで何ら変わるものではありますまい」
つとリョオウは顔を上げ、閉じられた見えぬ眼を前に向けた。
「あなた方もよくよく心積もりをしておくことです」
事も無げに告げられた言葉に、シノメとウカンは揃って瞠目し、わなわなと震える唇を噛み締めるように引き結んで息を張る。身を締め付けるような口惜しさに苛まれているだろう二人を見て、マソオは小さく息を吐いた。
「よさないか、リョオウ。申し訳ありません。急がぬのは決して村を軽んじているからではなく、私が未熟であるがゆえなのです」
いえ、と苦いものを飲み下すように顔を歪めたシノメは、微笑を浮かべてマソオを見た。
「リョオウ様の仰るとおりにございましょう」
落胆と覚悟の入り混じった寂しい笑みだった。
「明日の朝、社までご案内申し上げます。小半時もかかりませぬが、足元が良いとは言えませぬゆえ、脚絆をご用意させていただきます」
「……………え?」
シノメの言葉の意味を飲み込むのに、マソオは一拍の時を要した。
「ウツシロ様は野路神であらせられるのですか?」
「はい。私とウカン以外はそうそう通る道ではありませんので下草が生い茂っております。秋の祭りの前には草を刈り、村人が行き来するようになりますが、まだ間がありましたゆえ………」
マソオは愕然とした。喉の奥が激しい渇きを覚えるようにひりつく。
通常、神は村や町の中、もしくは隣接した地に社を持つ。怪異から人々を護るのに近くに在った方がそれは易い。
それを態々人里から離した場所に造るのは、偏にその神の力が強すぎるからだった。強大な力が人に影響を及ぼさぬよう、力ある神々の社は人々の生活の場から距離をおいて建てられた。
野路神とは人が分け入らぬ野の路に在る神。―――――猛き神であった。
驚くと同時にマソオは得心もしていた。折に触れて接する事のない神であるから、不在が長引いても訝しがる者が出ないのだ。
遠くで廊下が重く沈む音がした。小さく声が聞こえたかと思うとやにわに部屋の外が騒がしくなる。
「どうやら宴の準備が整ったようですな………参られますか?」
ウカンの言葉にマソオは暗影を振り払うように大きく頷いて立ち上がった。