01.序章
月のない夜だった。空には厚く雲が立ち込め、視界は皆無と言える。瞼を開けても閉じても変わりがない。足元はおろか伸ばした己の腕の先も見えない。しかし、男は確かに感じ取っていた。吹きつける風の合間に漂う身の毛がよだつ獣の気配を。
男がそれの足取りを嗅ぎ取り、追い続けてもう二昼夜になる。夜にいくら距離をつめても、男の力が弱る昼になれば離される。体力が限界を迎える前にと、強引に仕掛けたのが拙かった。危ないところで絡めとりはしたものの、その先の手が打てない。膠着状態に陥って、もうどれくらいになるだろうか。足は震え、腕は棒切れになってしまったかのように感覚がない。辛うじて残っている指先のそれは、爪が剥がれていく痛みだけを伝えていた。
―――――雨が近い。
粘つくような風に水の匂いをかいで、男に焦りが生まれる。
頭上では一羽の鷹が、気が狂ったように激しく旋回していた。
雲はますます厚く空を覆っていた。
「………給え………給え………給え」
男の唇は絶えず小刻みに動き、ぶつぶつと何か呟き続けているが、もう何と言っているのか男にも分かっていないだろう。 夏の夜特有のむっとした熱気をはらんだ空気が重く男の体に纏わりつく。額を伝う大量の汗を拭いもせずに流れるにまかせているせいで、目は痛み、襟はぐっしょりと濡れそぼっていた。
がんがんとこめかみを殴られるような衝撃がその強さを増して行き、男は限界が近づいている事を悟った。
ぽつり、ととうとう男の頬に雨粒が落ちる。
これまでか。
男は死を覚悟した。だが、ただ死ぬのでは矜持が許さない。
「くそったれ」
男がうなる。複雑に組まれた両の指にぐっと力を込めると、獣の呼気が速く短くなった。
「スグウ! 来い!」
吼える男の声に呼応して上空を羽ばたいていた鷹が凄まじい速度で降下する。
鷹はその体に、目に見えない硬質の気を纏い、男の眼前にいる獣へと吸い込まれるように落ちて行く。
ところが、男の気が上空へと逸れたその一瞬に生じた綻びを闇の中の獣は見逃していなかった。
生まれた針の先ほどの穴をついて、獣はいっきに男の術を噛み砕いた。
ぱんっと音がして、男の腕が左右に弾かれる。
獣は自由を取り戻した。
鷹の狙いは逸れ、獣の鋭い切っ先が男を捕らえたかに思えたその時、突如眩い光が細く地を這い獣の体に巻きついた。
「スグウ!」
指を絡めて印を組みなおした男は、渾身の力をスグウに与える。
再び空高く舞い上がっていた鷹は、力強く風を切ると、光の鞭に縛られ身動きの取れない獣の体を突き抜いた。
獣の体がぐらりと傾ぐ。地に沈む重い音を聞き、男もまたその場にくず折れた。
雨がぽつぽつと男の体を叩く。どうやら本降りになってきたらしい。
見る間に辺りが泥濘んでいくが、男は俯けに倒れ付したままだった。
腕の感覚は未だに戻らず、足は痙攣を繰り返している。
ひどい有様だ。水溜りで溺死したら、あの女は何と言うだろうか。
ふいに同輩の女が脳裏に浮かんだ。いつも顔に貼り付いている柔和な笑みが、いけ好かない女だった。
死の際に思い出すのが、気に障る奴の事だとは―――最悪だ。
くさる男の目の端を白い影がかすめた。ぎろりと目玉を動かしてみるとぼんやりと光を発する白い衣の裾がふわりと舞っている。
男はぎりりと奥歯を噛んだ。
「体を動かせませんのでこんな格好で失礼しますよ。私は誡師、キアン・カムラ・モモシ。敏速なご助力、お礼申し上げます。神よ」
思うにならない体に反して、舌は滑らかに動き言葉を紡いだ。軽口めいた口調になってしまったのは、謝意よりも恨みが勝っているからだ。
キアンが強気に出たのは、元よりこの地を守る神の助力を当て込んでの事であったのに、瀬戸際まで力を貸そうとしなかった神に、どうして素直に感謝が出来ようか。
「そなたに頼みがある」
勝手を言いやがる! 神たる身で怪を倒す力を惜しんだというに。この上頼みだと?
顔を上げて睨み付けてやりたかったが、それも叶わない。
しかし、キアンを激高させる一言を発した神の、続く言葉に彼は言葉を失う事になる。
「我を滅してくれぬか」
神は静かな声でキアンにそう告げた。