第2話 休憩時間です
「お疲れ様でしたぁ。夜のメンバー、もうすぐ来ると思いますんで」
タイムカードを打刻する直前。
主任の福良密生が、山南の耳元へそっと、粘り気のある声を滑り込ませた。
「……山南さん。本当に、今日もあなたばかり大変なポジションに回されて、見ていて胸が痛みますよ。店長はあっちで、パートの人たちとヘラヘラ喋っているだけなのにねえ」
いつも通りの穏やかな、しかし酷く歪んだ微笑みを唇の端に残して、福良はバックヤードの闇へと消えていく。
山南の心の中に「不公平」という名の、決して消えることのない燻った火種を、これ以上ないほど丁寧に注ぎ込んだ後の、鮮やかな退勤だった。
午後4時。
ランチタイムのあの狂気じみた喧騒が嘘のように、店内には深い静寂が戻っている。
この店は、ランチ営業が終了する15時から、ディナーが始まる17時半までは一旦クローズとなる。
そのあいだの2時間半、スタッフたちはそれぞれ2時間ほどの休憩に入るのが、いつものルーティンだった。
ランチの営業が終わり、山南はいつものように15時きっかりに休憩に入って、17時までしっかり休んでいる。
労働者として当然の権利だからそれ自体は何も悪くないのだが、彼はパートのお姉様たちが15時半まで残ってホールの片付けをこなし、それから食事をして帰っていく背中には、決して目を向けようとはしなかった。
店長である四家緋和は、全体の業務がようやく落ち着いた16時頃から、ようやく自分の休憩に入ったところだった。
ガラス張りの大きな窓の向こう。
昼間は眩いばかりに太陽の光を跳ね返していた月凪町の海は、ゆっくりと時間をかけて茜色から深い夕暮れ色へと、その色彩を溶かし始めていた。
刻一刻と表情を変える波頭が、夕日を吸い込んだ硝子細工のように細く、頼りなくきらめいている。
客席に人の気配はなく、ただ、西日から伸びる長い椅子の影が、フロアの床に幾何学的な模様を描き出していた。
この、昼と夜のあいだの引き潮のような静寂を、緋和は密かに愛していた。
「チーフ、ディナー用の地物アサリ、砂抜き終わりました。トマトソースの補充も完了です」
誰もいない、冷えた厨房の奥から聞こえる、低く無駄のない声。
業務委託の坂口蓮、二十四歳。
彼はフリーターでもなければ、会社の就業規則に守られた社員でもない。
独立した個人事業主として、この『パスピース月凪町店』の厨房をランチからディナーまで通しで回す契約を会社と結んでいる、組織に属さない、圧倒的に有能な若き職人だった。
蓮は、山南が「俺ばかりが大変だ」とフロアでパニックになり、マドラーをグラスに叩きつけている間も、ただ淡々と、契約された時間内に対価に見合うだけのプロの仕事をこなしていた。
彼にとって会社の人間関係や、社員である山南の被害妄想など、自分の報酬には一円の価値も生み出さない、心底どうでもいい雑音に過ぎない。
会社への忠誠ではなく、己の技術と契約のロジックだけで厨房に立つその佇いは、若さに似合わぬ冷徹な強さを持っていた。
「ありがとう、蓮くん。いつも助かるわ」
客席の片隅、夕暮れの斜光が差し込むテーブルで、ひいろは、分厚い専門書を開いたまま蓮に微笑みかけた。
彼女が読んでいるのは、最新の飲食経営労務、環境経済学、社会心理学の技術書。
大学時代、福祉の分野を志して資格を取りながらも、自分の手で人を笑顔にするモノ作りを求めて製菓の道へと転身し、さらに「接客を通じて、目の前のお客様に豊かな時間そのものを提供したい」と気がついて飲食業一筋で歩んできた彼女の歴史。
接客大会で何度も頂点に立ち、いまや誰もが認めるエキスパートとなったその実力は、決して天性のものではない。
若い頃はたくさん迷い、たくさん回り道をしてきた。
だからこそ、「何か確かな武器を持っていないと、大切な仲間もお店も、何より自分自身すら守れない」という、深い不安の裏返しとしての謙虚さと、自らを追い立てるような勤勉さの積み重ねが、彼女の知性の骨格を作っていた。
「いえ、仕事ですから」
蓮はそれだけ言うと、コックコートの袖を正し、ディナーの仕込みへと戻っていく。
その徹底したドライさが、ひいろにとっては最高に頼もしい壁だった。
しかし。
その静謐な調律の空間を乱すように、ホールの奥から重く引きずるような足音が近づいてくる。
社員の山南閉。
昼の営業でサブチーフの凛子に作業効率の低さを論破され、さらに退勤間際の福良から注がれた甘い毒。
それらが彼の脳内で歪んで発酵し、どす黒い怨恨となって渦巻いていた。
山南は、客席で一人、凛と本を読んでいる年下の女性店長――緋和の姿を見つけた。
自分と同じように、17時までの休憩時間を消化しているだけの、ただの同僚のはずだった。
だが、その手元にある分厚い本を見た瞬間、山南の胸の奥で、歪んだ優越感と、それ以上に醜い自己嫌悪が混ざり合った、歪な棘が首をもたげた。
山南はひいろのテーブルの横に立ち、その手元にある専門書を上から覗き込んだ。
正式な装丁に並ぶ活字を、彼は薄汚いものでも見るかのように見下ろす。
そして、その肉厚で美しい静寂の世界を汚すように、せせら笑うような、トゲのある声を放った。
「へえ。飲食店勤務なのに、本なんか読むんだ。意外」
ひいろは、ページをめくろうとしていた指を静かに止めた。
驚きもせず、ただ静かに、本から視線を上げて山南を見つめる。
その瞳には、彼を非難する色も、見下す色もなかった。
ただ、凪いだ海のように穏やかだった。
山南の言葉の底にあるのは、単なるひいろへの嫌がらせではない。
飲食店は体力を使い、スピードと活気だけが求められる場だ――そう信じ込み、そこで働く人間が、ビジネス書や哲学、歴史、あるいは海外古典や純文学といった、静かに思考を深めるための言葉に触れることをハナから拒絶している、根深い「職業差別」だった。
そして何より滑稽なのは、山南自身が、その飲食店勤務の渦中にいるという事実を完全に忘れて、その言葉を口にしていることだった。
ひいろは、彼の侮辱そのものの視線を受け止めながら、ふと、胸の奥で冷めた納得を感じていた。
(ああ、この人は、自分がそうだからって、私まで一緒にしているんだろうなあ)
自分が飲食業を「その程度の仕事」だと見下しているからこそ、同じ場所にいるひいろが知性を磨こうとすることが、身の程知らずの贅沢のように見えて不快なのだ。
自分で自分を安い檻に閉じ込めている男の、あまりにも哀れな遠吠えだった。
「ええ。お店をより良くするための勉強です。山南さんも、もし興味があればお貸ししますよ」
ひいろの聴く者の心を解きほぐすような、聡明で温かみのある声。
それが、山南の耳には「お前は勉強不足だ」という強烈な当てつけのように変換されて届いてしまう。
自分の底の浅さを見透かされたと感じた山南の歪んだ防衛本能が、一瞬で牙を剥いた。
「ハッ、結構だよ。俺は現場叩き上げだからね、そんな紙の上の綺麗事なんて実務の役には立たないんだわ。それよりさあ、店長は優雅に読書してて楽でいいよな」
山南はわざとらしく肩をすくめ、手にしていた空のトレイをテーブルにガタリと音を立てて置いた。
「俺はさっきまで、ランチのバッシングとディナーの営業準備で、死ぬほど動き回りながら大変な思いをしてたんだけど? 自分以外の人がどれだけ大変か、少しは気がついたらどうなんだ?」
「山南さん、お疲れ様です。あなたがいつもお店のために動いてくださっているのは分かっています。でも、私が今しているのも、楽をしているわけではなく、店長としての職務なんです。現場を円滑に回すための仕組みを学ぶのも、私の仕事ですから」
「職務? 本を読むのが仕事かよ。その小難しい勉強は、今、この瞬間にやらなきゃいけないことなんですか?」
山南は一歩、ひいろのテーブルへと身を乗り出した。
「営業するための物理的な準備のほうが、どう考えても大事でしょう。店長がそうやって机の上で理屈をこねているあいだにも、現場を動かすための物理的な段取りは山ほどあるんですよ。
少しはこちらの大変さにも、目を向けていただきたいですね」
丁寧な口調を崩さないまま、しかし言葉の端々に隠しきれない刺を混ぜて、山南はひいろを見下した。
山南自身もまた、今はただの休憩時間であるにもかかわらず、まるで自分だけが常に犠牲になっているかのような、理不尽な被害妄想が彼の言葉を尖らせていく。
「お店を開けるための準備は、もちろん大切です。だからこそ、パートさんたちの動線を計算し、事前に必要な仕込みの量をデータ化して共有しています。場当たり的に動くのではなく、仕組みを作るのが私の役割です」
ひいろは本を優しくテーブルに置き、山南の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「山南さんが今『大変だ』と感じているのなら、それは私たちがまだ、事前の段取りを最適化できていないからかもしれません。だから私は、こうして学んでいるんです」
ひいろはどこまでも冷静に、かつ誠実に理由を説明しようとした。
だが、その「ぐうの音も出ない正論」こそが、山南が最も恐れ、拒絶するものだった。
自分の要領の悪さや、段取りの低さを正面から突きつけられているように感じた山南は、ついに頭に血が上り、理性を失って声を荒らげた。
「ふざけるな! こっちができない理由ばっかり探して、偉そうに上から物言ってんじゃねえぞ!」
静まり返っていた夕方の店内に、山南の怒鳴り声が激しく突き刺さる。
「俺にばかり仕事が集中してんだろ! 薄いシフトで俺ばかりに損をさせてんのはどこの誰だよ! そんな仕事、後回しにしろ!」
厨房の奥で作業をしていた業務委託の蓮の手が、一瞬だけ止まったが、彼は深く関わることを避けるように、何も言わずに再び自分の包丁の音を響かせ始めた。
「山南さん、落ち着いてください。怒鳴っても何も解決はしません」
ひいろは本をそっと閉じ、静かに立ち上がった。
彼女の背筋は真っ直ぐに伸びており、その佇まいには、どんなに理不尽な怒声を浴びせられてもブレない、プロフェッショナルとしての気高い芯があった。
「俺は間違ったことは言ってない! 営業前の段取りが一番大事だって言ってるんだ! 現場の苦労も知らないくせに、本ばっかり読みやがって!」
自分の仕事は今やらなきゃいけないことなのか――。
山南は心の中でそう何度も吐き捨て、ひいろを激しく睨みつける。
二人の間に、目に見えない火花が散るような、ピリピリとした口論の緊張感が張り詰めていた。
しかし、ひいろの凪いだ視線に気圧された山南は、それ以上言い返せない悔しさに顔をどす黒く染め、吐き捨てるように背を向けた。
乱暴な足音を響かせながら、彼はホールの暗がりの方へと去っていく。
一人残された客席。
ひいろは深く、静かなため息を一つだけつき、再び椅子に腰を下ろした。
怒鳴られた恐怖よりも、自分の言葉がどうしても届かないもどかしさと、少しずつ歪んでいく現場の空気への懸念が、彼女の胸を小さく締め付ける。
私がもっと勉強して、誰もが納得する完璧な仕組みを作らなければいけない――。
彼女はそう自分を律するように、再び静かに本を開いた。
窓の外の海は、いつの間にか深い夜の群青へと、その姿を完全に変えていた。
もうすぐ、夜の大学生アルバイトたちが出勤してくる時間だ。




