第13話 まだまだです
パスピース月凪店の店長室。
小さな部屋の整然と整えられたデスクを見渡し、春の柔らかな光を浴びながら、坂口蓮はふっと懐かしそうに目を細めた。
「あの頃は本当に凄まじかったですね。ひいろさんが『ぼんぼん』と『シカ・エチュード』の社長を務めながら、この月凪店の店長まで兼務していたなんて……。この狭い部屋を事実上の社長室にして『一石三鳥で効率がいいです』って笑っていた時は、本気で呆れましたよ」
「そう言う蓮さんは、随分まるくなりましたよね。ふふ、昔は口数が少なくて、どこか頑なな雰囲気だったのに」
デスクの向こうで、ひいろが紅茶のカップを両手で包み込み、柔らかく目を細める。
蓮は不意を突かれたように一瞬言葉を詰まらせ、それから照れくさそうに口元を和らげた。
かつての蓮は、厨房の奥で黙々と包丁を握り、妥協を許さない気難しい一人の職人に過ぎなかった。
ひいろがシカ・エチュードを立ち上げる際に声をかけたあの時、蓮は「プロの仕事をしたい」と答えた。
現場の調理だけに閉じこもるのではなく、店舗オペレーションや組織の構築まで見渡し、プロとしての可能性をここまで広げてくれたのは、間違いなくひいろのおかげだった。
「……そりゃあ、ひいろさんの無茶振りに付き合わされていれば、嫌でも視野が広がりますから」
言葉を濁す蓮の横で、半開きになった扉の隙間から、オープンキッチンの活気あふれる声が心地よく流れ込んでくる。
いまや月凪店の厨房の指揮を執るのは、店長とキッチンチーフを兼務する速水凛子だ。
「速水店長、3番テーブルのお客様、春キャベツのパスタ追加入りました!」
「了解。京子さん、ドリンクのタイミングお願いね」
「任せて!」
パートから社員へ登用され、副店長となった京子が弾んだ声を返す。
その傍らで見事な包丁捌きを見せているのは、サブチーフの山南鳳凰だった。
かつての荒々しさは完全に削ぎ落とされ、いまや別人のような落ち着きと洗練された佇まいを獲得している。
彼は『茶寮酒膳 箸と匙』の料理長である酒井善章のもとで徹底的に叩き上げられ、兄である山南閉と共に酒井を深く敬愛していた。
その技術と温かな眼差しで、凛子を完璧にサポートしている。
フライパンが奏でる軽快な音色と、スタッフたちの息の合った呼吸。
あれから3年という刻が流れ、月凪店は活気と温もりで満ちあふれていた。
*
午後。
ひいろと蓮は場所をピース・イートの元本社屋である、現シカ・エチュードのパスピース事業本部へと移した。
会議室には、弁護士の藤田、そしてゼネラルマネージャーの上田創太、全店の厨房を統括する総括総料理長となった武藤が顔を揃えていた。
卓上には厚みのある契約書と、新会社・組織改編に関する重厚な登記書類が広げられている。
「事前に法務局の法人登記と商標をオンラインで確認しましたが、同名の飲食店グループや競合他社は存在しませんでした。問題なく手続きを進められます」
藤田が書類をめくり、眼鏡の奥の瞳を和らげた。
「まずは、シカ・エチュードから新設分割する新会社『株式会社PEACE Peace』。そして社長に就任される上田さん、覚悟はよろしいですか」
38歳になった上田創太は、かつてエリアマネージャーとしてひいろと共に現場の重い課題を背負い、駆け回った男だ。
上田は力強く頷いた。
「ええ。ひいろさんが守り抜いてくれたこのブランドと仲間たちを、今度は私たちが成長させていく番です。10店舗から12店舗への拡大も、焦らず自社で人を育てて新店を任せるスタイルを貫いてきました。武藤総括とも連携して、現場の情熱を絶対に切らしません」
「頼もしいですね、上田さん」
ひいろは穏やかに微笑み、手元の書類にそっと指先を添えた。
「栄子前社長が社名に込めたのは、平和で穏やかな時間を届ける『PEACE』でした。そして私がどうしても足したかったのが、パズルを構成する『Peace』だったんです」
ピース・イートの名残りを見ていたひいろの目には、既に遥かな未来の形が重なっている。
「私たちは一人ひとりが、この世界という巨大なパズルを形作る、かけがえのない1つのピースです。形が違うのはお互いの凹凸を補い合うため、大きさが違うのはそれぞれにしか埋められない場所があるため……『誰一人として欠けてはいけない』。不完全な私たちが手を取り合うことで、初めて1つの美しい奇跡が完成するのです」
会議室の一同が、胸の奥を揺さぶられたように頷いた。
場を包む空気は、もはや緊張や不安のそれではない。
それぞれの胸の内で、己が背負うべき「ひとつの欠片」の重みと誇りを再確認する、そんな時間だった。
そして、話題はもう一つの重要な組織改編――『株式会社ぼんぼん』の商号変更と人事へと移った。
「そして、ぼんぼんの商号変更および体制変更についてですね」
藤田が別の書類を提示する。
「単一ブランドから多業態外食企業への進化に伴い、社名を『株式会社 アプ(英表記:APU)』へと変更いたします。表向きのスペル『All Perspective Union』は多様なブランドの結束を示し、裏にはレクランマリスの言葉で『支え・後ろ盾』を意味する『appui』の響きを込めています」
ひいろは頷き、続けた。
「はい。私はぼんぼんの社長も退任し、フットワーク軽く現場を外側からバックアップする立場に回ります。そして、株式会社アプの新たな社長として……社蓮太郎さんを起用します」
その名を聞き、武藤と上田がかすかに眉を動かした。
「ピース・イートの副社長、社さんを……ですか?」
「ええ。かつての彼は身勝手なきらいもありましたが、飲食店の『良い店』の本質を深く理解している方です。副社長として経営に関わってきたキャリアもあり、彼をいまのまま加盟店一店舗のオーナーの中に留めておくのは、あまりにももったいない」
ひいろの真っ直ぐな目に迷いはなかった。
「当面の間、株式の所有権は私がオーナーとして保持しますが、いずれ持ち株はすべて手放すつもりです。……どこにそれを引き渡すかは、まだ秘密ですが」
くすりと悪戯っぽく笑うひいろに、藤田も苦笑しながら頷いた。
「分かりました。未来へ向けた重層的なバトンタッチですね。法務手続きも万全に進めましょう」
舞台を整え、自らは軽やかに次の場所へと足を進めていく。
卓上に並ぶ書類の向こう側に、ひいろが描く新しい時代の地図が、広がり始めている。
かつて歪でバラバラだった組織の糸が、美しい一枚の織物のように結び直されていく様を、重責を引き継ぐ上田も、現場を束ねる武藤も、晴れやかな面持ちで見つめていた。
*
会議を終えたひいろは、完成したばかりの新店・12号店へと足を運んだ。
新しい木造りのドアを開けると、店内には香ばしい仕込みの匂いが漂っている。
「四家社長!」
奥から出てきたのは、12号店の店長に抜擢された山南閉だった。
かつての硬質さは消え、その眼差しには自信と温かな光が宿っている。
「山南さん、調子はどうですか?」
「最高です。箸と匙で学んだ1年と、現場で踏ん張った2年……それに、酒井シェフの本から学んだ他人の心を深く理解し、想像する力が、いま全て現場で活きています。この3年間で読み込んだ200冊以上の本は、私と鳳凰の宝物です」
山南は感慨深そうに、磨き上げられた厨房を振り返った。
昔、本を読んでいるひいろに向かって「飲食店勤務なのに本なんて読むんだ」と言い放った山南が、自ら本を開き、知識の力を知り、他者の「見えない背景」をも想像するようになり、社会的知性を持った頼もしいリーダーとして現場に立っている。
「新店のこと、お願いします。山南……ふふ、せんぱい」
ひいろが悪戯っぽい表情を浮かべて言うと、山南は一瞬面食らったように目を丸くし、それから照れくさそうに豪快に笑った。
「おお、任せとけ!」
力強く応える山南の背中に、ひいろは信頼の笑みを返した。
*
夕刻。
陽が茜色に染まる頃、ひいろは再び全ての始まりの場所である月凪店のフロアへと戻ってきた。
営業前の穏やかな静けさが満ちる店内。
ホールには凛子、京子、鳳凰をはじめとする月凪店の店舗スタッフたち、そしてひいろの右腕である蓮が集まっていた。
窓から差し込む夕暮れの光が、美しく磨かれたテーブルとグラスを優しく照らしている。
「皆さん、少しお時間をいただけますか」
ひいろが声をかけると、全員が一斉に振り返り、耳を傾けた。
「ご承知のとおり、パスピースは『株式会社PEACE Peace』としてシカ・エチュードから独立します。私は社長という座を離れ、これからは外側から皆さんを軽やかに支える立場になります」
フロアに柔らかな沈黙が広がる。
京子がひいろを見つめ、慈しむような眼差しで口を開いた。
「ひいろちゃん……私、ずっと忘れないわ。ステマで炎上して、お店の看板を捨てるしかないって絶望していたあの日、ひいろちゃんが覚悟を決めて会社ごと買い取って、私たちの居場所を守ってくれたこと」
京子の言葉に、鳳凰も、周りのスタッフたちも深く頷く。
「無料相談窓口で困っている他店を助けていた時も、昔『飲食店勤務なのに本なんて読むんだ』って笑っていた山南さんが本を読み込んで店長になった時も、蓮さんが本部の頼もしい幹部に変わっていった時も……」
京子の声を受け継ぐように、凛子が熱い想いを込めて一歩前へ踏み出した。
凛子はひいろの目を真っ直ぐに見つめる。
かつて本を読み込み、世間の冷ややかな視線を浴びながらも、ロジックと知識という最強の武器を積み重ねてきたひいろ。
その「本」があったからこそ、居場所を失いかけた仲間たちという「欠かせないピース」が誰一人欠けることなく救い出され、美しく繋がり合うことができた。
全員の胸に、その長い長い道のりと感謝が込み上げてくる。
「ひいろさん……あなたが諦めずに学んで、戦い続けてくれたから、今の私たちがいます」
凛子は胸の前で手を固く握りしめ、すべての思いを乗せてその言葉を放った。
「ひいろさんって……やっぱり私たちのヒーロー(HERO)だったんですね」
その瞬間、月凪店のフロア全体に大きな拍手と歓声が広がった。
京子が目元を拭い、鳳凰が眩しそうに頷く。
ひいろの右腕である蓮も感慨深そうに腕を組み、口元を和らげていた。
溢れんばかりの感謝と祝福を一身に受け、ひいろは照れくさそうに首をかしげると、いつものように柔らかく、胸を張って微笑んだ。
「そんな――私は、まだまだですよ。まだまだ勉強不足です」
その目はすでに、まだ見ぬ次のページを見つめていた。
ヒーローの物語は、きっとここから始まる。
第一部 完
ここまで『第一部』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
主人公・ひいろが知識とロジックを武器に突き進み、居場所を失いかけた仲間たちという「かけがえのないピース」を集めて一つの美しいパズルを完成させるまでを描き切ることができました。
不完全な私たちが巡り合い、お互いの凹凸を埋め合っていく物語。
ひいろ自身は「まだまだ勉強不足です」と笑いますが、彼女が作り上げた『PEACE Peace』の温かな灯火は、もう誰にも消せないものになっています。
さて、物語はここから**【第二部 レクランマリス編】**へと突入いたします。
ひいろの故郷であり、社名『アプ(appui)』のルーツでもあるレクランマリス。
なぜ彼女はこれほどまでに知識を貪り、学び続けるのか。
ひいろの過去、そして彼女が背負う本当の「ルーツ」を巡る、新しい戦いと探求の旅が始まります。
現場を離れ、軽やかに次のステップへと踏み出すひいろを、今度はどんな出会いと波乱が待ち受けているのか――。
第二部もどうぞお楽しみに!




