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飲食店勤務が本を読んで何が悪い  作者: アイアイ
シーズン1 パスピース編
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15/17

第11話 始まりです


 すべての始まりは、ひいろがピース・イートを去った、あの嵐のような日の直後に遡る。


 栄子社長との最後の電話を切り、張り詰めていた肩の力を抜いた瞬間、ひいろの手元でスマートフォンの画面が再び明滅した。


 液晶の海に浮かび上がったのは、意外な名前だった。



『咲良理人』(さくら りひと)



 『株式会社箸と匙のあわいで。』の代表であり、

その独特な店舗づくりの姿勢で、業界からも一目置かれる若き経営者。




 数日後、ひいろは指定された彼のオフィスを訪ねていた。




「え?」


 大きな窓から差し込む穏やかな光のなか、卓上を挟んで提示されたその提案に、ひいろは珍しく小さく目を見開いた。


 理人は、その反応をあらかじめ予想していたように、口元に柔らかな笑みを浮かべる。



「驚きますよね」



「はい、少し驚きました」



 ひいろはすぐに姿勢を正し、相手の真意を測るように視線を戻した。



 理人は手元の資料を指先で軽く叩きながら、言葉を続ける。



「うちのグループ会社が店舗設計や厨房機器のメンテナンスに関わっている『株式会社ぼんぼん』という会社があります。モダン食堂ぼんぼんを30店舗展開する、小さな外食企業です。ご存じですか」



「何度か利用したことがあります」



 ひいろの回答に淀みはなかった。


 その瞳の奥で、膨大な情報が瞬時に整理されていく。



「昔ながらの洋食屋のノスタルジーを残しつつ、余計なものを削ぎ落としてスタイリッシュかつ親しみやすい接客を提供する。非常に優れたコンセプトのブランドです。最近は少し、接客にバラつきがあるのが気になっていました」



 理人は少し意外そうに、眉を小さく上げた。



「……詳しいですね。料理の方は?」



「ナポリタン、オムライス、ハンバーグ。定番はそのままに、盛り付けと彩りで今の空気に寄せている。ファミリー層はもちろん、デート利用まで取り込んでいる業態です」



「知らないこと、ないんですか」



 理人は感嘆を隠しきれない。



「業界の話ですから」



 ひいろは淡々と、しかし確かな事実として告げた。



「……それで、業績が落ちてきているのも、知っています」



「……そこまで」



「二代目が急逝されて、番頭格だった方が社長を引き受けています。でも経営の舵取りには向いていない。ご本人もそれを自覚していて、後継を探している。……そこまでは、知っています」



 理人は、少し間を置いてから、観念したように笑った。



「じゃあ、話は早い。さっきの話ですけど」



「……“ぼんぼんの社長を、私に”、ですか」



「はい」



「本気ですか」



「本気です」



理人の眼差しから先ほどの緩やかさが消え、真っ直ぐな光が灯った。



「あそこを救うには、ひいろさんのような方が適任だと思っていました。買収に必要な資金は、すべて弊社から融資――貸し付けをいたします。あなたに『ぼんぼん』の100パーセントのオーナー社長として腕を振るっていただくために、あえて『出資』ではなく『貸す』形をとらせてください。返済は会社に利益が戻ってからで構いません。……どうでしょう、あそこで、勝負してみませんか?」



「私が適任なんですか?」



ひいろは問いかけた。その声音には、甘えも謙遜もない。



「あの、パーティの夜、三沢さんの紹介で初めてひいろさんに会ったときから、適任だと思っていました」



「あの時から? 初めてお会いしたのに……ですか?」



「三沢さんや、私の妻から、あなたの話をよく聞いていたので、なんとなくイメージしていたんですよ。だから、初めて会ったような気がしなくてね」



理人は遠い日を愛おしむように笑う。



「私たちが初めて会ったとき、理人さんは何て言ったか覚えてます?」



ひいろの口元が、わずかに綻んだ。



「『ああ、なるほど』と言いましたね。あの時は失礼しました」



「そう、失礼だったんですよ」



ひいろは声を立てずに笑う。



「で、理人さんは続けてこうも言いました。『お上手ですね。人の、息継ぎを聞くのが。ただ聞いているんじゃない。相手がどこで言葉を迷わせるのか、どこで息を詰まらせるのか、そういうものを、急かさずに待っている。置き去りにしない聞き方をされる』」



理人は手元のお茶に視線を落とし、懐かしむように微笑んだ。



「そして、ひいろさんは、こう返した。『咲良さんって、不思議な方ですね。初対面なのに、なぜか喉が詰まらない。最後まで、私の話の終わりを待ってくれるような安心感があります』とね」



「そうでしたね。よく覚えてますね」


「ひいろさんもね」



張り詰めていた空気が一気に和らぎ、二人の間に温かい笑い声が弾けた。


昼下がりの光が、その笑顔をやわらかく包み込む。



「あの時も、今も、ひいろさんは、人を守る側の、どこか静謐な顔をされています。だから、ぼんぼんを救うのに、適任なんです」



「それは、光栄です」



ひいろは悪戯っ子のような笑みを浮かべてみせた。



「でも、私の経歴、もう調べた上でのお話と、認識して宜しいですか?」



「……バレました?」



「ええ。私の印象だけで、このお話をするような人だったら、お断りしていました」



再び、二人の笑い声が静かなオフィスに響く。


理人は表情を改め、居住まいを正して頭を下げた。



「四家緋和さん、数々の不採算店を再生させたあなたの手腕、どうかお力添えいただけますよう、よろしくお願いいたします」



「承知いたしました。謹んでお受けいたします。こちらこそ、どうぞ宜しくお願いいたします」






数日後。


 実質的な作戦会議が始まった。



 理人の会社が「ぼんぼん」全30店舗の設計施工・メンテナンスを握っているからこそ、初手から極めて精緻なアプローチが可能だった。



「まずは、これを見てください」



 理人が手元のタブレットを操作し、シームレスに同期された各店舗のデータベースをひいろへ提示した。


 ひいろはデバイスを受け取ると、画面を軽快にスワイプし始めた。


 次々に切り替わる無機質な数値、修繕履歴、精度高く描かれた店舗の3D図面。


 一見するとただのデータの羅列に過ぎない画面を追いながら、ひいろの視線は瞬時にその裏側にある「現場の呼吸」を捉え、立体的に構築していく。


 彼女の脳裏には、まだ見ぬ厨房で汗を流すスタッフの動きが、明確な輪郭を持って浮かび上がっていた。



「……なるほど。理人さん、この星見通り店ですが」



 ひいろの指先が画面の一箇所を叩いた。


拡大されたのは、厨房内の設備配置図だ。



「フライヤーの横に、盛付け用のメイン台が配置されていますね。これでは揚げ物を取り出すスタッフと、ソースをかけるスタッフの動線が完全に交差します。修繕履歴を見ても、この半年でフライヤーの排気ファンとグリルの熱源まわりの部品交換が頻発している。……おそらく、熱がこもる場所でスタッフが立ち往生し、排気効率が落ちている証拠です。この動線の悪さは、ピーク時の提供スピードを平均して3分遅らせています」



 理人は驚きに目を見開いた。


ひいろのスワイプは止まらない。



「それから、こちらの丘の上店。3D図面を見る限り、奥のボックス席のパーテーションが少し高すぎます。プライベート感を意識したのでしょうが、これが店内の見通しを遮っている。内装の重厚さが災いして、平日のアイドルタイムに気軽に入りたい主婦層やシニア層の心理的ハードルを上げ、顧客層が特定のセグメントに偏りすぎています。修繕履歴でも、奥の席の合皮シートの摩耗だけが異常に早く、手前のテーブル席が遊んでいることが分かります」



画面を数秒見ただけだった。


ただ図面と部品の交換履歴を照らし合わせただけで、実際に店へ足を運ばなければ見えないはずの「現場の非効率」と「客の動き」を、彼女は言い当ててみせた。


現場の主治医としてハードウェアを長年支えてきた理人だからこそ、ひいろの分析の正確さが本当によく理解できた。



「……参りましたね。現場を一度も見ずに、そこまで可視化されるとは」



理人は感嘆を通り越し、呆れたように息を吐いた。



「データは嘘をつきませんから」



ひいろはタブレットを理人に返し、柔らかく、しかし意思の強い瞳で相手を見つめた。



「ですが、どれほどハードの配置を最適化し、器を整えたところで、そこで動く人々の心が通っていなければ意味がありません。今回のぼんぼんの再生において、私が最も重要視しているのは『接客マインドの抜本的な見直し』です」



理人は、興味深そうに身を乗り出した。



「なるほど。具体的には?」



「理人さんと出会ってから、私は『茶寮酒膳 箸と匙』を何度か利用させていただきました」



ひいろは少し表情を和らげる。



「あそこには、他店にはない独特の空気があります。お客様の誰もが、肩の力を抜いてあの空間に浸っている。お互いの違いを否定せず、ただそこにあることを許容するような、あの深く優しいホスピタリティ……あれこそが、今のぼんぼんのスタッフたちに欠けている『お客様の息継ぎを待つ接客』の極みではないかと感じました。ぼんぼんの再生にあのエッセンスを組み込みたいのです。だからこそ、理人さん」



ひいろは言葉を真っ直ぐに届けた。



「あの店で動く人々の血流を、神髄を、私自身の肌で直接知りたいのです。どうか『茶寮酒膳 箸と匙』に、私を体験入店させていただけませんか?」



理人は一瞬、呆気に取られたようにひいろを見つめた後、じわじわと嬉しそうに目元を緩めた。



「それは面白い……いえ、わかりました。すぐにセッティングしましょう」





数日後。


17時。


ひいろは支給された『茶寮酒膳 箸と匙』のどこか引き締まった制服に袖を通し、バックヤードへ向かった。



17時30分のディナーオープンに先立ち、厨房とホールの全スタッフが集まる夕礼が始まろうとしていた。



そこには、自身の会社や弁護士としての仕事をきっちりとこなし、17時ちょうどに出勤してきた副店長の藤田悠司(ふじたゆうじ)も、銀縁眼鏡を押し上げながら、すでに静かに整列していた。


「株式会社ぼんぼん」の顧問弁護士でもある藤田は、二か月後に控えた株式譲渡に向け、財務と法務の整理を静かに進めていた。


理人の会社が買い取るはずだったその計画は、いま、ひいろを新たなオーナーとして迎える形へと大きく舵を切っている。


ひいろにとって藤田は、すでに深く信頼を寄せるビジネスパートナーの一人となっていた。



「皆さん、今日はディナーの現場に体験入店される、四家緋和(しか ひいろ)さんです。まあ、すでに顔馴染みの方も多いと思いますが」



理人の紹介を受け、ひいろは一歩前に出て、集まったメンバー一人ひとりの顔を見渡した。



「四家緋和です。これまでは一客として皆さんの素晴らしい空間に癒やされていましたが、今日はそのホスピタリティの神髄を、内側から学ばせていただきに参りました。本日はホールのサポートとして、精一杯努めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」



すでに何度か店を訪れ、顔馴染みとなっているスタッフたちが、それぞれの持ち場から親しみのこもった、しかしプロとしての引き締まった視線を返す。


この気心の知れたプロフェッショナルたちが織りなす「茶寮酒膳 箸と匙」のディナーが、静かに幕を開ける。





アンティークの家具が並び、琥珀色の柔らかな照明が落ちる洗練されたフロア。


レクランマリスの料理をベースにしつつ、同じ地平にある「ピッツァが美味しい国」の文化が混ざり合う、豊かで魅力的な世界観。





開店とともに、入り口のドアノブが回り、お客様が次々と吸い込まれていく。



空間が目に見えない熱を帯びて動き出す中、ひいろは、その圧倒的な「動」とホスピタリティの「静」を五感すべてで体感することになる。



まずひいろを圧倒したのは、オープンキッチンから放たれる凄まじい生命力だった。



注文の伝票が厨房に滑り込んだ瞬間、言葉を介さずとも、キッチンメンバー3名の連動が火花を散らす。


チーフが全身でリズムを刻むような独特の躍動感を見せながら、高火力で一気に鍋を煽り、素材の旨味を凝縮させていく。


それと完璧にシンクロし、サブチーフが水の如き流麗な包丁捌きで色鮮やかな食材を刻み、流れるような美しい盛り付けで皿を仕上げる。


そしてもう一人が小気味よく動き回り、的確なサポートで厨房の血流をさらに加速させていく。


オープンキッチンの真横、パントリーを隔てた向こう側、ドリンカーを通ったその最奥に位置するピッツァ場。


職人が絶対的な精度で薪窯の火と生地を対話している。


客席を挟んでピッツァ場の対面、入口と外に面した製菓工房では、パティシエの芸術的なデザートが送り出される。


この、フロアを跨ぐ広大なキッチンエリアから響くリズミカルな音と熱気は、お客様の五感を否応なしにかき立てる極上のライブステージそのものだった。


その熱量あふれるエリアを眺めるフロアの一角で、アルバイトスタッフが静かに、しかし凛とした美学を持ってグラスを磨き、空間に極上の凪を生み出していた。


キッチンの「動」の熱量を、フロアの「静」のホスピタリティが見事に包み込み、調和させていく。


これが、この店の特別なフィロソフィー「あわい」なのか。






車椅子の老紳士と、その付き添いと思われる女性が来店した。


店内のシックな段差の手前で、女性がほんの一瞬だけ進め方に迷って視線を泳がせる。


その刹那、ひいろが動くよりも早く、理人が音もなくそこへ歩み寄っていた。


理人は言葉よりも先に、ただごく自然な動作で車椅子の前輪を優しく浮かせ、何事もなかったかのようにバリアを感じさせず店内へと誘う。


その顔には押し付けがましさは一切なく、ただ相手の存在をそのまま受け入れるような、境界線のない笑みが浮かんでいた。


案内されたテーブル席で、ホール統括の待島美歩(まちしま みほ)の『心のこもったおもてなし』が、さらにひいろを驚かせる。


老紳士は、メニューを広げたものの、小さく掠れた声で何度も言葉を詰まらせていた。


お腹は空いているようだが、メニューに並ぶ料理を見つめながら、自分の胃腸の具合や噛み切れる硬さかどうかを気に病んでいる様子だった。



効率を重視して先回りして決めてしまうような真似は、ここにはない。



美歩は老紳士の横にそっと膝をつき、その視線の高さを完全に合わせた。



お客様が言葉を探し、喉を詰まらせ、ゆっくりと息を吸い込む――そのすべての「息継ぎ」を、美歩は遮ることなく、急かすこともなく、ただおだやかな湖面のような眼差しで、そのすべてが紡ぎ出されるのを待っていた。



「……今日は、少し、胃に優しいものが、食べたくてね」



長い沈黙の末に漏れた老紳士の細い声に、美歩は深く、包み込むように頷いた。



「かしこまりました。それでは、本日ご用意しております新鮮な白身魚のヴァプールを、お野菜の優しいジュに香草をほんの少しだけ効かせ、お体に障らないよう柔らかく仕立ててお作りいたしましょうか」



「ああ……それがいい。ありがとう」



老紳士の強張っていた肩の力が、すっと抜ける。



その傍らで、藤田が銀縁眼鏡の奥の目を優しく細めながら、温かいお茶を手際よく差し出した。


副店長である藤田は何気ない世間話を一言添えた。


そしてもう一人、この店の相談役、待島直希(まちしま なおき)。


理人がこの店のマエストロなら、彼は銀髪のコンシェルジュ。


お客様を引き立て、自らは背景の空気のように姿を消し、心地よい風が通り過ぎていくような所作で、老紳士のテーブルを整える。


全体の空気をごく自然に、まるで馴染みの我が家に帰ってきたかのように和ませていく連携。


厨房のチーフたちも、フロアからのイレギュラーなオーダーに対して、嫌な顔一つせず、むしろその挑戦を楽しむかのように即座に手元を動かした。


誰一人として、マニュアルの奴隷になっていない。


効率だけを追い求めるロボットではなく、お互いの個性を肯定し、強みを引き出し合いながら、目の前のお客様の「そのままでいい」を全力で守っている。


店全体が、琥珀色の優しい灯りの下で、確かに呼吸を合わせていた。





体験を終え、制服を着替えたひいろの胸には、熱い、言葉にできないほど強固な確信が生まれていた。



(これだ……。この『置き去りにしない接客』と、厨房とフロアが織りなす圧倒的なライブ感こそが、今のぼんぼんに最も必要な血流だ。この素晴らしい魂を、あそこに吹き込んでみせる)









四家緋和は「株式会社ぼんぼん」の社長に就任した。


 就任当初、ひいろが最初に着手したのは、かつての名店が完全に陥っていた「トレンドの見失い」の修正だった。



 ノスタルジーという言葉の甘えの中で、ただ時が止まり、古びていくだけだったメニューの基準をすべて見直した。



「四家社長、このオムライスのどこがダメなんですか」



 改革の初期、古参の料理長が不満を露わにフライパンを叩いたこともあった。



「味なら先代の時代から変えていません。うちの伝統の味だ」



「味の話はしていません、料理長」



 ひいろは怯むことなく、穏やかな、しかし芯のある声音で返した。



「卵の焼き加減、ライスの炒め方、ソースの配合といった基本の『キ』は素晴らしい。ですが、盛り付けの高さ、あるいは器の色彩が今の空気に合っていません。お客様がテーブルの上の料理を美しいと感じ、誰かに伝えたくなるその一瞬の心理を、私たちは五感に訴えかけるライブ感をもって設計し直さなければならないのです。伝統は、時代に合わせて呼吸をさせなければ死んでしまいます」



 料理長は言葉を失い、呆然とひいろを見つめた。


 厨房の熱気のなかで、静まり返った空間に二人の視線だけが交差している。


 ひいろは一歩、料理長へと歩み寄った。


「私は、料理長が守ってきたこの店の骨組みを壊したいわけではありません。むしろ逆です。あなたの素晴らしい技術を、今の時代の人々に正しく届けるための『服』を着せ替えたいのです。……手を貸していただけませんか」



 真っ直ぐに差し出された、若い社長のその小さな手のひらに、料理長は視線を落とす。


 長年、頑なに守り続けてきた自負の裏で、燻ぶる確かな反発心。


 そして同時に、もう一度新しい時代と向き合ってみたいという、職人としての無垢な好奇心。


 その狭間で激しく葛藤するように、彼は大きな拳を硬く握り締めた。


 沈黙のあと、男は諦めたように、小さく鼻を鳴らした。



「……味が落ちたと客に言われたら、俺はすぐにフライパンを置きますからね」



「……はい。その覚悟ごと、お預かりします」



ひいろの真っ直ぐな瞳には、微塵の揺らぎもなかった。









就任から半年後。


改革の速度を引き上げるため、ひいろは動いた。


外側から援護射撃を行うべく、飲食店専門のコンサルティング会社「株式会社シカ・エチュード」を立ち上げたのである。


 更に、理人のチームと密に連携し、器の選定から照明の角度に連動するソースの光沢までをミリ単位で調整していく。


構造改革も、決して冷酷なものではなかった。


スタッフ一人ひとりの労働環境を見直し、無駄な作業動線を削ることで、現場に「お客様と向き合うための心のゆとり」を生み出した。


体力を取り戻した店舗から順次、あの体験入店で掴んだ『置き去りにしない接客』のエッセンスを落とし込んでいく。


マニュアルで縛るのではなく、お客様の息継ぎを待つゆとりがスタッフの笑顔を生み、それが店舗の確かな血流となった。


仕掛けた地域密着型の緻密な販促が、見事に噛み合う。


かつて「もう行くことはない」と思われていた地元のファミリー層や、新しい若い顧客層が、劇的に生まれ変わった店へ次々と吸い込まれていった。


客足が戻り、厨房のフライパンが小気味よい音を立て、フロアに笑顔が満ちる。





ひいろがピース・イートを退職して1年以上経っていた。


「ぼんぼん」の業績は、爆発的なV字回復を遂げたのだった。






オフィスの一室。



「代表、次の買収案件に関する法務チェックと契約書、すべて揃いました。藤田先生からも『リーガルチェックは完璧、いつでもいける』とお墨付きをいただいています」



書類を差し出したのは、かつてピース・イートで業務委託として関わっていた料理人、坂口蓮だった。


彼は今、シカ・エチュードの正社員、および信頼のおける料理部門のスーパーバイザーとして、ひいろの右腕を務めている。



「ありがとう、蓮さん。藤田さんがそこまで言ってくださるなら安心ですね」



ひいろは書類を受け取り、目を細めた。


シカ・エチュードは、立ち上げからもうすぐ1年になる。


少数で始めた会社だったが、いまでは、ひいろの明確なロジックと情熱に共感した優秀な専門職たちが、続々と集うようになっていた。



「それにしても」と蓮が少し真面目な顔になる。



「四家社長がピース・イートを辞めてから、1年以上経ちますね。早いものですね」



「来月で1年半、ついこの間のよう」


あの時の寂しさは、まだ懐かしさに変わっていない。


時の流れは早いけれど、心の癒えはなかなか速度を上げてくれない。


そんなことを考えていたひいろの端末に、パスピースの深刻な状況を伝える知らせが飛び込んできた。


無断の予算流用、悪質なステマの蔓延、および融資止めによる倒産の危機。


画面を見つめるひいろの瞳に、かすかな揺らぎが走る。


脳裏に浮かぶのは、必死に店を守ろうとしていたスタッフたちの顔、磨き上げられた床、精度高く維持されていた厨房、そしてかつて共に汗を流した日々の景色だった。



「みんな……」



ひいろは静かに立ち上がり、窓の外の街並みを見つめた。


彼女の新しい戦いが、ここから再び、かつての場所へと繋がっていくことになる。







そして現在、午前11時。


パスピース月凪店。



倒産の危機に瀕し、絶望に沈んでいたそのフロアの真ん中で、電撃復帰を果たしたひいろは美しく仁王立ちしていた。


その背後には、彼女の右腕として鋭い眼光を放つ坂口蓮の姿もある。



1年半の沈黙を破り、最強の味方を得て戻ってきた店長を見上げ、ボロボロだったスタッフたちの目に、かつてない熱い輝きが蘇る。


ひいろは全員の顔を堂々と見渡し、不敵かつ極めて鮮やかな笑みを浮かべた。



「さあ、みなさん、始めましょうか」



次の瞬間、地響きのような声が店中に轟いた。



「おーーっ!」




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