第3話
部屋には爪を切る音だけが響いて、しばらく沈黙が続いた。
全開にしていた窓からは、蝉しぐれが聞こえている。おそらくクマゼミの集団で、じいじい鳴く声はあまり情緒がなかったので、蝉しぐれという季語にはそぐわない感じがした。
私たちを遮るものは、そのほかには何もなかった。時おり冷たい風が入ってきて、私の身体を撫でたあとあおいの短い前髪の先を少しだけ揺らした。
あおいの額は、汗で濡れている。
「あおいってさあ、ほんまのところ、誰かを本気で好きになったことってあるん?」
「あるよ」
「誰?」
あおいは少し考えてから、
「まいちゃんとか、あいかとか、さやなとか、ええと、まいちゃんとか」
「まいちゃん、二回出てきてるやん」
「二人、おんねん」と、あおいは笑いながら言った。
「どんだけ、まい好きやねん」
私も笑った。
「まいって、名前聞いただけで好きになんねん」
「そら、ふられるわ」
あおいはまた少ししょんぼりとした。そして呟くように、やかましいわと言った。
「痛っ」
「あ、ごめん」
指先に痛みが走った。微かな痛みだったけど、びっくりして、つい大きな声をあげてしまった。
「もう、身い切らんといてって言うたやんか」
「ごめんごめん、あ、血、出てきた。ティッシュ、ティッシュ」
あおいは慌てて立ち上がって、テーブルの上に置いてあったボックスティッシュをつかんだ。ティッシュを何枚も引き抜くので、いったいどのくらい血が流れているのかと心配になる。
切られてしまったところは、じんじんしているくらいで痛いという感覚はない。あおいは黙って自分が切ってしまった私の指先を丁寧に治療。出血はすぐ止まったらしく「絆創膏どこ?」と言って立ち上がった。
私は冷蔵庫を指さした。
「なんでこんなとこに入ってるん」
「腐ったら困るやん」
あおいは真面目な顔をして首を傾げたあと「そうか」と言った。
冷蔵庫から冷えた絆創膏を出して、ペリペリはがし患部に巻きつける。何枚も重ねて貼るので、そんなに貼らなくてもいいよと思ったが何も言わなかった。




