第86話 完全形態への移行
ラグナ残滓の影が、音もなく膨張した。
灰色の空間そのものが震える。
天井のない場所に、見えない天井がひび割れたような、
そんな錯覚さえ起こした。
《——情報処理、80%完了
感情データ、統合中……》
漆黒の影がゆらりと揺れ、
“腕のようなもの”が姿をとった。
だがそれは肉体ではなく、
回路と光が絡み合った“擬似的な形”。
「……やっぱり。
この残滓、明らかに以前より“形”を持ってきてる……!」
ルシアナが息を呑む。
ラグナ残滓は本来、
世界の最適化のための “システムにすぎない”。
それが——
今、まるで“生き物のように”形を獲得している。
《——最適化のため、感情干渉を開始します》
瞬間。
空間全体が“黒い脈動”に染まった。
「くっ……!」
カケルとルシアナの足元の光の道が揺れ、
二人は思わず踏ん張る。
黒い波が空間の底から押し寄せてきて、
感情を奪う“圧”が胸を締めつけていく。
「やばいわ……!
この圧は、今までより遥かに強い……!」
「俺も……やべぇくらい分かる……!」
怒りが薄れる。
恐怖が薄れる。
喜びも、悔しさも、全部“溶けていく”。
(……やべぇ……
このままじゃ……
何にも感じられなくなる……!?)
◇
その時。
空間に浮かぶ“黒い糸”が、ルシアナへ向かった。
《——神性检出。
神性は干渉対象外——
だが、情動を保持するため削減推奨》
「っ……!!」
黒糸がルシアナの胸に突き刺さる。
「ルシアナ!!」
「だい、じょうぶ……!
これは……情動を削る攻撃……!
でも……!」
ルシアナの膝がわずかに沈んだ。
「っ……神性の“感情”だけを狙って……くる……!」
「てめぇ!!」
カケルが拳を構えた瞬間、
黒糸はカケルの方向へ揺れた。
《——仲間保護パターンを確認
攻撃優先度:最上位に更新》
「来いよ……!」
カケルが迎撃準備をした時だった。
影の奥から、新たな声が響いた。
《——情動流の逆流開始
地上層、調律層、両方へ干渉……成功》
次の瞬間——
空間が一気に“白”へ染まった。
◇
どこか別の場所。
地上。
前借亭の厨房にいたミレイユは、
手にしていた鍋を落としそうになった。
「えっ……?
な、なにこれ……!?」
頭の中に突然、
無数の“ザザッ”というノイズが走った。
料理の香りも、
温度も、
匂いも、一瞬で遠のく。
視界が揺れ、心が“薄くなる”。
「みんな……!!
な、なんか変な感じが——!」
グレンは椅子から立ち上がり、眉をひそめた。
「……胸の奥が……スカスカになって……?」
ボビンは目を押さえた。
「これ……以前、冷律会が来た時に似てる……!
でももっと酷い……!」
フィンは自分の手を見つめ、
半ば震えながら呟いた。
「感情が……
薄くなっていく……?」
ミュコが苦しそうに鳴く。
「ピュッ……!!」
ミレイユは唇を噛んだ。
「これ……
カケルの場所で何か起きてる……!」
◇
一方、神界。
調律会の塔では、
調律柱が再び轟音を立てて揺れていた。
「アルシア様! 情動流が——!!」
「地上の感情が一気に低下しています!」
「基幹層からの“黒い逆流”が止まりません!」
アルシアは震える柱に手をかざしながら叫んだ。
「全部つながっている……!
ラグナ残滓が、地上と神界……
両方の情動流を同時に奪い始めた……!」
「こんな侵蝕……初めてです!」
「誰か……!
基幹層の暴走を止めない限り——!」
アルシアは目を固く閉じた。
(カケル、ルシアナ……
あなたたちに賭けるしかない……!)
◇
基幹層では。
世界が“白”へ塗りつぶされつつあった。
黒の圧とは違う、
感情を消す“静寂の波” が押し寄せてくる。
カケルは声を上げた。
「これ……全部、あいつの攻撃か……!」
《——完全形態へ移行中
目標:世界の初期化
情動流:ゼロに最適化》
「初期化……!?
リセットの強制発動……?」
ルシアナの顔が蒼白になる。
「とうとう、完全に初期化に入った……!」
「……はっ」
カケルは笑った。
その笑いは怒りとも呆れとも違う。
「どんだけ欲張りなシステムしてんだよ……
条件満たすの待てなくて、勝手に世界ぶっ壊そうとするんだからな……」
《——合理性:高
最適解として承認》
「承認すんな!!」
カケルが叫ぶと同時に——
ラグナ残滓の影が、
ついに“顔のようなもの”を形作った。
それは人の顔を模倣した“無表情の仮面”。
だが、感情はない。
ただ“効率”だけを見つめる瞳だった。
《——侵入者A、削減対象。
今より“情動核”へ直接干渉を行う》
「情動核……?」
カケルの胸が、
“誰かに掴まれたように”締めつけられた。
「……っぐ……!」
「カケル!!」
ルシアナが駆け寄ろうとするが、
空間が裂け、彼女の足が“白い砂”に沈んでいく。
「くっ……!
これ……“感情の溶解”……!」
ラグナ残滓の声が響いた。
《——抵抗は無意味
あなたの“感じる力”は——
今ここで、停止します》
最後の一言で、
空間の光がすべて消えた。
唯一残ったのは——
ラグナ残滓の無機質な瞳だけ。
《——削減開始》
世界中で「感情」が消えかけています。
前借亭のメンバーも異変に気づきましたが、カケルは遠い神界。
情動核への直接干渉……カケルが「虚無」に戻されようとしています。
次回、カケルの心が壊れる寸前。
もうダメかと思ったその時、空間を裂いて現れたのは――!?
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