第85話 影の心臓部
“それ”は、まだ完全な姿を見せてはいなかった。
灰色の闇の奥で、巨大な塊が脈動している。
心臓の鼓動のように波打つたび、
空間がぐらり、と揺れる。
《——解析完了。
侵入者A:カケル
侵入者B:ルシアナ・フェルシア
削減優先度:最上位へ更新》
声は機械のようでありながら、
どこか“生き物の息遣い”のようでもあった。
「……これが、ラグナの残滓……?」
ルシアナの表情が硬くなる。
「ラグナ本体とは全く違う……
これは感情ではなく“計算の塊”よ」
影の塊の輪郭がゆっくりと、
形になり始めた。
人型とも獣型ともつかない“抽象的な影”。
しかしそれは確かに、こちらを見ていた。
《——情報補正処理を開始。
不要情動:順次削減》
その言葉と同時に、
空間の色が“淡い灰色”から“濃い黒”へ変わった。
「う……っ!」
カケルは胸の奥に強烈な圧迫感を感じた。
まるで世界の空気が重くなり、
心臓を掴まれるような苦しさ。
「カケル! 立って!」
「わ、分かってる……がっ……!」
影の脈動は、
“空気”ではなく、“感情”を押し潰す力だった。
(これ……“感情ゼロ化”の圧か……!?)
怒りも、
恐怖も、
悔しさも、
悲しさも、
全部、冷たい水に沈められていく感覚。
「カケル、しっかりして!」
「お前……
こんな、クソみてぇな力で……
俺から感情を奪おうってのか……!」
カケルは歯を食いしばった。
◇
突然、空間の左側に“光の裂け目”が開いた。
「な……!?」
《——冷律会ユニット、追加配置》
裂け目から次々と現れたのは——
先ほどの“光の人影”ではなかった。
より濃く、輪郭がはっきりした “冷律会の神々本人”だった。
しかし目は虚ろで、
その姿勢は糸で吊られた操り人形のようだった。
「……スルヴァ……?」
ルシアナが小さく名を呼ぶ。
だがスルヴァは返事をしない。
ただ、ラグナ残滓の方向を見つめている。
《——冷律会ユニットへ命令伝達
侵入者を囲み、情動流を遮断》
神々が一斉に動き、
カケルとルシアナの周りを取り囲む。
「クソッ! 囲まれた……!」
「カケル、待って!」
ルシアナがカケルの腕を掴む。
「彼らは……“操られているだけ”よ。
本人の意志じゃない!」
「分かってる! でもこのままじゃ——」
《——情動封鎖開始》
足元の道が、黒い膜に覆われた。
「これ……っ!?
動けねぇ……!」
「情動の流れを“止めてる”のよ!
身体じゃなくて、心を固定されてる!」
ルシアナも膝をつきかける。
◇
その時、遠くから轟音が響いた。
調律会の神々の声が、かすかに届く。
「アルシア様っ! 調律柱が——!」
「基幹層の乱れが全層に伝播しています!」
「このままでは神界そのものが——!」
ルシアナの顔が歪む。
「……まずい……
この暴走は、調律会の手にも負えない……!」
「つまり……
ここで俺たちが止めなきゃいけねぇってことだな」
「ええ……!」
「ここしかないわ!」
◇
ラグナ残滓が、ついに“上半身”だけを明確な形にする。
だがその形は歪んでいて、
感情を持たない者の“模倣された姿”だった。
《——最適解を更新中
削減速度を上昇させます》
空間中に無数の“黒い糸”が走った。
それらは全方向からカケルとルシアナへ伸び——
まるで“感情そのものを吸い上げる触手”のようだった。
「来る……!」
「カケル、正面は私が凌ぐ!
あなたは——」
「分かってる!」
カケルの足元の黒膜が少しだけ割れた。
その瞬間、彼は拳を握り込んだ。
「——ぶち破る!!」
カケルの怒号が、空間を震わせた。
黒い糸が襲いかかり、
冷律会の神々の影が揺れ、
ラグナ残滓の影がさらに濃くなる。
◇
そして、ルシアナが——
一瞬、目を見開いた。
「……おかしい……」
「なんだよ!」
「ラグナは……
本来、“感情そのもの”を好む性質じゃなかった……
でも、今のラグナ残滓は……」
ルシアナは震える声で続けた。
「まるで“感情を理解しているように振る舞ってる”……!」
「……どういうことだ!?」
「ラグナ残滓が……
“進化”してる……!」
その言葉がカケルの背筋を凍らせた直後——
《——情報処理、76%完了
完全形態へ移行します》
ラグナ残滓が巨大に膨れ上がった。
ラグナ残滓、ただの影かと思いきや「進化」しています。
感情を理解したふりをするシステム、一番タチが悪いですね。
囲まれて絶体絶命の二人。地上にも影響が出始めています。
次回、完全形態へ移行した敵が、カケルの「心」を直接狙い撃ちにしてきます。
ルシアナの悲痛な叫びが響く……!




