第84話 情動侵蝕
扉が開いた瞬間——
空間の“温度”が変わった。
温かいわけでも、冷たいわけでもない。
ただ、感情が薄く引き剥がされる感覚が、肌の上にまとわりついた。
「こりゃ……嫌な空気だな」
「ええ……
ここが“基幹層の外縁”……」
ルシアナの声にも緊張が滲む。
扉の向こうは、暗闇ではなかった。
かといって光でもない。
まるで“色そのものを忘れた世界”だった。
灰色に溶けた地平線。
影も音も、匂いすらない空間。
——そこに、何かが存在している。
《——侵入者、確認》
空間が、ただそれだけを告げた。
声が響いたというより、
“存在そのもの”が頭の中へ直接割り込んでくる。
「っ……!」
カケルは思わず頭を押さえた。
「カケル、大丈夫!?」
「あ、ああ……
頭の中、勝手に覗かれたみたいで……気持ち悪ぃ……」
《——感情パターン、解析開始》
空間に文字が浮かぶ。
《——対象A:カケル
怒り:高濃度
恐怖:秘匿
自己否定:潜在
保護衝動:最大値付近》
「……勝手に分析すんじゃねぇよ」
カケルが吐き捨てた瞬間。
空間が、ぐにゃりと歪んだ。
その歪みが——
カケルの“怒りの波形”を描き始めた。
「なっ……!?」
怒りの形をした“黒い柱”が、
カケル目掛けて急降下する。
「カケル!!」
ルシアナが叫ぶより早く——
「クソがァッ!!」
カケルは黒柱へ拳を叩きつけた。
衝突の瞬間、空間に“亀裂”が走り、柱が粉々に砕け散る。
だが——
《——次、解析》
さらに別の歪みが生まれた。
《——対象A
“恐怖”パターン抽出》
「……恐怖?」
空間が揺れ、地面が落ちる。
いや——違う。
カケルの視覚が奪われた。
「う……っ!?
ま、前が見えねぇ……!」
「カケル!」
ルシアナが手を伸ばそうとした瞬間——
《——神性反応:不適合
対象外》
空間がルシアナを拒絶した。
ルシアナの指先が、カケルに触れる直前で“弾かれる”。
「っ……!
カケルにだけ作用する……!
これは——人間の感情に特化した攻撃!」
「く……そっ……!」
視界がぐらつき、
足元が闇に沈んでいく。
恐怖……
恐怖……
頭の中へ、意味のない囁きのような声が流れ込む。
(俺……怖がってんのか……?
何に?
何を……?)
足が沈み、膝がつく。
「カケル!!」
ルシアナが叫んでも、声が遠い。
(あぁ……
まただ……)
黒い視界の向こうで、
会社のデスク。
深夜のビル。
怒鳴る上司。
冷たい蛍光灯。
(あの頃みたいに……
また感情を失って……
殻みたいに生きて……
全部……捨てちまうのか……俺は……?)
《——対象A
“虚無”パターンに侵入》
空間がカケルの胸を裂くように揺れた。
(やめろ……
そんなの……
二度と……)
「カケルぁぁああ!!」
突然、光が差し込んだ。
目の前の闇が、一瞬だけ薄れた。
ルシアナが必死にカケルの顔を覗き込んでいた。
涙をこらえきれない表情で。
「あなたは……もう……
“空っぽのあなた”じゃない!!」
(……あ……?)
「前借亭で……
仲間と笑って……
泣いて……
怒って……
あなたは“感情のある自分”を取り戻したのよ!!」
その言葉が胸に突き刺さる。
闇の中で、
ミレイユの笑顔が浮かぶ。
グレンの豪快な声が響く。
ボビンのまっすぐな目。
フィンの照れた笑顔。
ミュコのかわいらしい鳴き声。
(そうだ……
俺には……
仲間がいる……)
感情が、ふつふつと戻ってくる。
「……当たり前だろ……」
カケルはゆっくり立ち上がり、
闇へ向けて拳を握った。
「俺は、もう“空っぽ”にはならねぇ!」
《——解析結果:怒り、揺らぎ。
情動パターン、不安定——》
「黙れ!!」
カケルの叫びに呼応して、
足元の光の道が強く輝いた。
「俺は……仲間と出会って……
感情を取り戻したんだよ!!
それを勝手に触んじゃねぇ!!」
黒い虚無が後退する。
空間の“奥”で、
巨大な影が揺らめいた。
《——新たなパターン検知
“情動抵抗”……?》
「なに、これ……」
ルシアナが息を呑む。
「空間の奥……なにかが……形を成してる!」
灰色の闇の奥に、
“巨大な何か”の輪郭が現れつつあった。
それは人でも獣でもなく、
ただ“情報の塊”が人の影を模倣して立っているような存在。
《——侵入者
削減対象に登録済み
——排除開始》
「……来やがったな」
カケルが低く呟く。
「お前が……
ラグナの残りカス(残滓)か」
物理攻撃ではなく、精神攻撃のターンです。
過去のトラウマ、ブラック企業時代の記憶……。
一番見たくないものを見せられましたが、ルシアナの必死の呼びかけがカケルを繋ぎ止めました。
次回、ラグナ残滓が姿を現します。
そして操られた冷律会の神々も……ピンチです!




