第81話 基幹層への降下
光の階段は、まるで空間の底に吸い込まれていくように続いていた。
カケルは一段、一段と足を運びながら、背後の光が遠ざかっていくのを感じていた。
残してきた会議場も、調律会の神々も、もう見えない。
「……静かだな」
思わず口にすると、隣を歩くルシアナが小さく頷いた。
「ええ。
本来なら“情動流”のざわめきが聞こえるはずなの。
この階層に降りるなら、なおさら」
「ざわめき?」
「人間の街みたいにね。
喜び、怒り、悲しみ、安堵……
本来は全部が糸みたいに交わって、微かな声として響くの」
ルシアナは耳元に手を添え、かすかに眉を寄せた。
「でも……
今は、それがひとつも聞こえない」
「……全部、冷律会の削減のせいってことか」
「まだ“入口”にすぎないのに……これは異常よ」
ルシアナが言い終える前に、
階段の下からひやりとした風が吹き上がった。
◇
やがて、階段の先が広い踊り場のようになっているのが見えてきた。
そこは——
まるで巨大な図書館のホールのようだった。
だが、本があるわけではない。
無数の“光の板”が空中に浮かび、ゆっくり回転している。
「これ……全部、神界律の“断片”ね」
「律のピースかよ」
「ええ。
本来なら調律会の管理下にあって、静かに循環しているはずなのに……」
ルシアナが手のひらを差し出すと、
光の板のひとつがそっと近づき、そこに文字列が浮かんだ。
《情動流 条件:安定》
《削減プロセス:未承認》
《感情ゼロ化:禁則》
「……正常な律よ。
ここまでは、まだ“壊れてない”」
「じゃあこの先か」
「そう思う」
ルシアナは光の板をそっと手で押し戻し、カケルの方を向いた。
「この階層は“律の中庭”と呼ばれている場所なの。
基幹層に近いほど、純粋なルールが現れる。
ここが静かすぎるってことは……」
「ルールそのものが、上書きされてる?」
「……かもしれない」
◇
その時だった。
空間が、ふいに“ざらり”と音を立てた。
カケルもルシアナも条件反射で身構える。
光の板のうちいくつかが、不自然に揺れながら一箇所へ集まり、
ぼんやりとした“人影のような形”になった。
「おい……これって……」
「情動の残渣が……勝手に寄り合ってる!?」
ルシアナの声に驚愕が混じる。
本来、残渣は人間の情動の“余波”であり、意思など持たない。
それが勝手に集まって形を成すなど、あってはならない。
「あれ……誰かに“呼ばれてる”みたいだな」
「呼ばれて……?」
「集まって、一方向に流れてる」
光の残渣たちは、踊り場の奥——
さらに暗い階層へと、ずるずる吸い込まれていくように消えていった。
その光景に、ルシアナが震えた声で呟く。
「……そんな……
残渣は意思を持たないはず。
呼び寄せられてるとしたら、それは——」
「“ラグナ残滓”か?」
カケルが言うと、ルシアナは強く頷いた。
「可能性は高いわ。
冷律会が“基幹層の律を参照”とか言っていた……
あれは、たぶん——」
「本来の基幹層じゃなくて」
「ラグナが死ぬ前に残した、“影の層”よ」
空気がひんやりと沈み込んだ。
踊り場の奥は、ただ黒い闇に包まれ、何も見えない。
しかし、その奥から確かに微かな低い音が響いていた。
——ボ、ボウ……ウ……
「……なんだ、この音」
「情動が……“逆流”してる音よ」
「情動が逆流……?」
「感情が生まれる前に、根こそぎ吸われている……」
ルシアナの声は凍りついていた。
「この先に、
異常の“中心”があるわ」
◇
「行くのか?」
「行くしかない」
ルシアナが小さく息を吸う。
「調律会の神々は、ここから先に踏み込むと“律に縛られる”の。
干渉しようとすれば、律が反応して弾かれる」
「つまり、神じゃどうにもならねぇ場所ってことだな」
「ええ。
だから、あなたが必要なの」
ルシアナがカケルを見つめた。
「あなたは……
“神界の律から外れた存在”」
「……なるほどな。
邪魔されねぇってことか」
カケルはゆっくりと拳を握った。
(よし……
世界がどうとか神界がどうとか、難しい話は分かんねぇけど)
(“感情を奪おうとするヤツ”がいるなら、殴ればいい)
「行くぞ、ルシアナ」
「ええ」
二人は暗い階層へと向かった。
奥へ進むほど、音は低く、重く、深くなっていく。
——ボウ……ウ……
——ボウ……ウ……
情動が吸い込まれる音。
世界の心臓が、止まりかけている音。
◇
そして——
二人が闇の入口を越えた瞬間。
空間全体に、ひび割れるような低い声が響いた。
《——情動、不要。
ゼロへ収束せよ》
「っ……!」
「来た……!」
ルシアナが目を見開いた。
「これ……“誰か”の声じゃない。
“律の声”よ!」
《——削減。削減。削減……》
世界を凍らせるような響き。
カケルは拳を握り、闇の中心へ向けて言い放つ。
「……上等だ。
出てこいよ、ラグナの残りカス」
闇が、揺れた。
静寂のエリア、基幹層への入り口です。
感情の残渣が勝手に動く……ホラーですね。
ルシアナの解説で、敵の正体がおぼろげに見えてきました。
次回、ラグナの「残りカス」とご対面。
……の前に、神界の防衛システムが牙を剥きます!
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