第62話 裏側の歩み――沈まぬ男と沈みゆく柱
時はカケルが失踪した時に遡る……
◇
世界が沈むとき、
音は光を忘れ、光は風を忘れ、
森は“涙の影”だけを残す。
ここは《哀》の本体領域。
人の感情の底が肥大化し、世界と接続するときだけ開く、
静かで、深く、ひどく脆い場所。
白い霧が淡く揺れ、
地面は硬質なのに水底のように沈み込む気配を持ち、
木々は輪郭だけを保ったまま音を失っている。
その中心で――
一つの白い影が立っていた。
哀。
四柱のひとつにして、悲しみの象徴。
神でも魔でもない、“世界の感情そのもの”が形を得た存在。
白い仮面、白い指先、揺らぐ髪、涙を宿すように震える輪郭。
仮面には、涙を模した雫のような模様が入っている。
美しさと脆さ、神性と陰影が絡まった存在。
既に封印は解かれていた。
「……来たな、人よ」
その声は、
湖底に落ちた鈴のような冷たさで響いた。
「汝がこの領域に踏み入れし時点で、
汝の悲しみ、悔恨、沈む感情はすべて――余が受け取る。
覚悟はあるのだろうな?」
柱として当然の威厳。
圧倒的な静謐。
本来なら、人は恐怖で膝を折る。
だが――
「悪い、ちょい待ってくれ。ミュコが怯えてるんだわ」
「………………は?」
哀の白い影が、かすかに揺れた。
「ぴゅ……ぴゅい……(こわい……)」
「だよなぁ。柱は怖ぇよな」
カケルはミュコを庇いながら、
平然と紙とペンを取り出し、何かを書き始めた。
この神域に似つかわしくない“カリカリ”という音が響く。
『前借亭のみんなへ。
森の奥で、昔の俺と繋がるものを見つけた。
どうしても見過ごせなかった。
ひとりで追う。
だが……正直、いやな気配がしている。
ミュコを連れてきてしまって悪い。
途中で無理やり帰した。
しばらく戻れない。
必ず帰る。
カケル』
「よし。ミュコ、これ持って。んじゃ次は巻物だな」
カケルはインベントリから光る巻物を取り出す。
高位転送魔法の魔法陣が淡く輝き始めた。
「ミュコ、ここで待ってろ。すぐワープだから」
「ぴゅ……!」
光に包まれ、ミュコは前借亭へ送還された。
「よし、OK」
「……汝……余の前で……
なぜそのように“日常の雑事”のごとく振る舞える……?
ここは神の領域なのだぞ……!」
「いや、説明しないと心配するだろ」
「余の理解の範疇を超えている……!」
「それから、昔の上司の声で呼びかけるの止めてくれる?
鬱陶しいから。」
「ふふふ。
貴様の記憶の中から、無視できない声で呼びかけをしてやったのだ。
ここに来られずにはいられなかっただろう」
「はぁ~。
もういいわ。
無視もできるから、止めないってんならそれでいいや。
それじゃ、帰るから」
「いや、ま、待て。
お前を感情の地獄へ連れて行くまで帰すわけにはいかぬ。」
「ん、地獄ねぇ。
ま、また封印にひきこまれても困るから、一応ついて行ってやるか」
「そ、それは良かった。
は!コ、コホン。
……では参ろうか」
哀は“威厳を保とう”としていた。
しかし、影の揺らぎはすでに乱れている。
哀は必死に心を整え、再び神としての声を生む。
「……よい。
では《沈歩》の領域。
一歩ごとに心が沈み、
テンポを奪われ、感情が泥の底へ堕ちる――
柱の力、受けてみよ」
「ちょっと聞くけどさ。
四魄柱のボスのラグナってさ。
お前らの感情攻撃って効くの?」
「貴様!ラグナ様を呼び捨てにするとは、何と無礼な!
……まぁ、良いだろう。
どうせこの後に廃人か死者になる身だ。
その問いに答えてやろう。
いくら四魄柱とは言え、
我らを統べるラグナ様に
我らの攻撃は効かぬ」
「ああ、そうなんだ。
ラグナ以上の奴には四魄柱の攻撃は効かないんだな。
そういえば、憤の時もそうだったしな」
「な、何を言っておる、貴様」
カケルが何事も無かったかのように一歩踏み出す。
空気が沈み、世界の色が抜け、
心を冷たく締めつける“沈む波紋”が押し寄せた。
通常なら心が凹み、恐怖すら生まれる。
しかし。
「……あー、沈む沈む。沈んでるわー。
めっちゃ沈んでる。沈みまくってるねぇ」
「汝……沈んでおらぬな?」
「いや、ちゃんと気を遣って“沈んでる”って言ってるだろ」
「沈みとは気遣いではない……!!
沈むは自発的な現象!!
人が“努力して沈む”のはおかしい!!」
「ほら、柱に気を使わねぇと悪いかなって。
封印にひきこもられても困るし」
「余は人から気遣われる存在ではないわーーー!!」
(威厳が……威厳が消える……!!)
哀は心の中で悲鳴を上げながらも、
なんとか姿勢を保った。
(……余は柱……威厳は……保てる……
まだ……大丈夫……)
「つ、次へ行くぞ……!」
(※哀の威厳:残り68%)
「では《跡》を抜く。
汝の悲しみを抽出し、形と成す。
汝は悲しみを抽出されるたびに、もう一度、その悲しみを味わうのだ。
何倍にも増幅されてな。
これを受けて沈まぬ者など――存在せぬ!」
「ほぉ」
哀が手を振ると、
カケルの“影”が地へ浮かんだ。
しかし――
その跡は妙に肩の高さが違い、首の角度も不自然で、
どう見ても「雑」。
「……お前、芸術的センスねぇな」
「………………は?」
「何その肩のライン。曲がりすぎだろ。
首も変な角度。5点だな」
「点数!?!?
余は芸術家ではない!!
悲哀の柱である!!」
「いや、見栄え考えた方がよくね?
これ、他の人が見ることになるんだよな。
お前の作品として。
高名な芸術家なら、地面に叩きつけて割るレベルだぜ。
こんなもの、この世には出せん!とか言ってさ。
そもそもこの感情攻撃は、
この跡を見た人間にもダメージを与えるべきだろ。
なのに、こんなボヤーっとした物見せられても
誰も恐怖なんて感じないぜ。
恐怖まんがの巨匠に弟子入りでもしてこいよ」
「えーい!黙らんか!!!
余の存在意義に“見栄え”を求めるな!!
それよりも、なぜ沈まんのだ!」
哀の威厳が40%吹き飛んだ。
「……ならば……!
跡を増やす!!」
哀は焦りからか、
怒涛の勢いで跡を抜きまくる。
立つ跡。
倒れ跡。
座り跡。
呻く跡。
胸を押さえる跡。
手を伸ばす跡。
しかしカケルは――
「20点」
「これ7点」
「これは……3点」
「お、この倒れ方逆に笑える。10点」
「採点基準が謎すぎる!!
なぜ余が評価されねばならん!!」
「いやさ……これじゃインスタ映えの写真、一枚も撮れねぇだろ?」
「イン……? スタ……?
バエ……?
何の神術だそれは!!?」
「いや、映える写真って意味だよ。
お前の跡は映えてねぇんだよ。
切り抜きが下手すぎる」
「余はバエ?を追求する存在ではない!!!」
「いや、美的に問題あるだろ」
「ぬぐぁぁぁぁぁ。余の神性が崩れるぅぅぅ!!!」
哀の威厳は粉々になった。
「しょうがねぇな。
俺がポーズ取ってやるよ。
いい感じで跡をぬいてみな」
「余が人に指示される立場とな!?!」
カケルは勝手にポーズをとり始めた。
座り。「カシャッ」
寝転び。「カシャッ」
手を伸ばし。「カシャッ」
呻き。「カシャッ」
顔を覆い。「カシャッ」
膝を抱え。「カシャッ」
絶望のポーズ。「カシャッ」
遠い目のポーズ。「カシャッ」
倒れかけのポーズ。「カシャッ」
「カシャカシャカシャッ!」
と、口でカメラのシャッター音の真似をしながら。
「何だその音は!?
何の魔術だそれは!!
余の精神に響く!!」
「気分だ」
「気分で余の気分を害すなーーー!!!」
哀はついに地面に手をついた。
「……よい……
ならば……汝の心の深層を見る……!
人の“本物の悲しみ”は……
必ず深層に眠っている……!!
それを影として取り出し、
汝の悲しみの奴隷として徘徊させる」
「へぇ」
哀が精神へ触れた瞬間――
哀の白い影が震えた。
「な……これは……!?
汝の深層……“空白”だと……!?
どういう構造だ……!!」
「ああ、それ?
ブラック企業の地獄を全部放り込んだからな」
「ブラック……?
何だその世界の災厄の名は……?」
カケルは語る。
「月400時間労働」
「週7勤務」
「終電逃したら“会社泊まれ”」
「パワハラ上司の怒号が3階まで響く」
「新人の質問に“ググれ”とだけ返す」
「昼休憩10分」
「仮眠室の布団はカビの温床」
「辞めようとすると“甘えるな”」
「休みは“病院行けるだけマシ”」
「退職者はみんな行方不明扱い」
「給料は手取り13万」
「同期が半年で半分いなくなる」
「倒れた先輩の席が翌日には新人で埋まる」
「社長が“家庭より仕事だろ?”と笑う」
「心の休みは存在しない」
「俺が召喚されたのは……働きながらだった」
哀は……
本気で後ずさった。
「や……やめよ……
汝の世界……
それはもはや……哀ではない……
呪詛……!!
魂の構造が歪んでおる……!!」
「いや、この世界来れてラッキーだったわ。
あっちの地獄全部置いてきたし」
「置いてくる!?
悲しみの源を“置いてくる”などという理屈……!!
どうなっておる汝の心は……!!?」
「いや、割と普通じゃね?」
「普通の基準が破壊されてゆくぅぅぅ!!!」
哀の神性は完全崩壊した。
霧の奥、哀は膝を抱えて震えた。
「……も、もう無理……
余は……沈める柱……
悲しみを抱く者……
なのに……
汝を沈めるどころか……余の方が沈む……!」
哀の仮面が外れ、
涙が水滴となり
地面へ落ちる。
哀は女性の姿となった。
「お願いよ……
誰でもいいから……
来てちょうだい……
私を助けて……
彼を……連れ帰ってよ……
私、もう持たない……!」
そのとき――
外の世界が揺れた。
救出組が近づいてきたのだ。
哀は震えながら、霧の向こうを見つめる。
「……来た……来てくれた……
私を……救ってくれる者が……」
その期待に震える中――
救出隊と対面する。
そしてその後ろの霧の奥から、
何でもない日常音のような声がする。
「いや、だから俺は悪くなくね?」
カケルが、
散歩帰りのような顔で姿を現した。
お読みいただきありがとうございます!
カケル無双(メンタル面)、炸裂回でした。
四魄柱《哀》相手に、インスタ映えを要求し、ブラック企業のトラウマ(呪詛)を叩きつける男。
そりゃ神様も心折れますよね……。
「普通の基準が破壊されてゆく」という哀の悲鳴が聞こえてきそうです。
カケルにとっては「異世界の危機」より「前世の職場」の方がよっぽど地獄だったという皮肉。
次回、現代に戻り、哀編の決着です!
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