第54話 《哀》編プロローグ ――沈む気配と、戻らない影
ウェルダ熱帯林圏での激闘から、三日が過ぎた。
リベリスの街は活気を取り戻し、
南方交易の復旧で市場は久しぶりに香辛料の匂いに満ちている。
だが――
前借亭だけは、妙に静かだった。
昼下がりの店内。
皿の音も会話も、どこか遠くに聞こえる。
「……カケルさん、本当に戻らないんですね」
カウンターの端で、フィンがぽつりと呟いた。
笑顔を作ろうとしても、上手く形にならない。
「“調べたいものがある”と言い残して、ひとりで行くなんて……」
ミレイユは机に広げた資料から視線を上げ、
くぐもった声で答える。
「カケルの最後の報告……“森の最奥で違う波長を感じた”。
あれだけは、私にも読み解けなかったのよね」
彼女の眉間には、深い皺が寄っていた。
「……ルシアナ、何か心当たりは?」
グレンが尋ねる。
ルシアナはグラスを拭きながら、視線を斜め下へ落とした。
「……嫌な予感はしてるわ。
でも、まだ断言できない。
古文書に書かれていた“深層波”の気配、だったのかもしれないけど……」
いつも理性的な彼女の声に、珍しく迷いが混じっていた。
「そういえば……」
ふいに、ノエルが店内を見回しながら言った。
「ミュコちゃん、さっきから見てない気が……しません?」
「……え?」
フィンが慌てて店内や厨房を見回す。
「あれ? 本当だ……!
いつもならカウンターの上か、看板のところで寝てるのに……!」
ボビンが外を覗く。
「……裏の薪小屋にも、いない」
アニスも腕を組んで周囲を確認した。
「ミュコって、勝手に外出するタイプじゃないわよね?
あの子……誰かの後ろを追いかけたりすることはあっても」
「待って……まさか、カケルさんと一緒に……?」
ルシアナの呟きに、場の空気が鋭く震えた。
誰も否定できなかった。
カケルなら――
あの男なら、“行くな”と言った舌の根の乾かぬうちに、
ミュコを抱えて森へ飛び込んでいてもおかしくない。
「……やっぱり変だよ。
あの時、カケルさん、“一人で行く”って言ったのに……」
フィンの声が細く震える。
「でも、ミュコがいない理由が……他に思いつかない」
全員が言葉を失い、重い沈黙が落ちた。
コン……コン……。
前借亭の扉が、弱い音で叩かれた。
「ん? この時間にお客さん?」
グレンが警戒しながら扉へ向かう。
扉を開けた瞬間――
風と一緒に、小さな影が倒れ込んできた。
「……ミュコ!?」
泥だらけで、ひどく震えている。
フィンが慌てて抱き上げる。
「ミュコ! 大丈夫!? どこ行ってたの!?」
ミュコはフィンの胸の中で身体を震わせ、
泣くような声で「ぴゅ……ぴゅ……」と鳴いた。
その小さな手のような突起に――
ぐしゃぐしゃに濡れた紙片が握られていた。
「これ……手紙……?」
フィンが震える指で紙を広げる。
文字を見た瞬間、息を呑んだ。
それは、確かにカケルの筆跡だった。
『前借亭のみんなへ。
森の奥で、昔の俺と繋がるものを見つけた。
どうしても見過ごせなかった。
ひとりで追う。
だが……正直、いやな気配がしている。
ミュコを連れてきてしまって悪い。
途中で無理やり帰した。
しばらく戻れない。
必ず帰る。
カケル』
「……カケルさん……」
フィンが紙を握りしめ、肩を震わせた。
「途中で……無理やり帰した……って……」
ミレイユは紙を覗き込み、顔色を変える。
「……この紙、ただ濡れただけじゃない。
“記憶を沈める波長”に晒された痕跡がある……!」
「記憶を……沈める?」
「ミュコの震えも、それが原因だと思う……!」
全員が息を呑む。
ルシアナは紙を見つめながら、極めて低い声で呟いた。
「……これは“哀”の波……」
ボビンが盾を握りしめる。
「“哀”……?」
「四魄柱《憤》《狂》と同格の……
《哀》よ。心を沈め、記憶を奪い、過去を抉る柱――」
アニスが首を横に振る。
「そんなものが森の奥に……?
カケルはそれを追ったっていうの?」
「いえ……違うと思うわ」
ルシアナの声は、冷たく震えていた。
「カケルが追ったのではなく、“呼ばれた”のよ。
哀の波長に――」
ミュコはフィンの胸で、泣くように鳴いた。
「ぴゅ……ぴゅい……」
風鈴は揺れず、ただ空気だけが静かに沈んでいく。
「……行こう」
フィンが立ち上がった。
「カケルさんを……迎えに行かなきゃ……!」
その声は震えていたが、
確かな強さを宿していた。
《感情発生:決意1,200,000ルーメ》
お読みいただきありがとうございます!
いよいよ新章、第4章《哀》編のスタートです。
いつもの賑やかな前借亭とは違う、静かで重い幕開けとなりました。
ミュコが握りしめていた手紙、そしてカケルの失踪。
「昔の俺と繋がるもの」とは一体何なのか? ここから、カケルの過去と《哀》の領域に踏み込む物語が始まります。
シリアスな展開が続きますが、ぜひ最後まで見届けてください!
次回、頼もしい仲間たちが集結します。
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※第4章は、内容を考えて本日と明日で全話を投稿いたします。
お楽しみいただけましたら幸いです。




