第25話 黒霧の村の報せと、“偶然の浄化”
昼下がりの《前借亭》は、いつものように活気に満ちていた。
焼き立てのパンの香りと、煮込みスープの湯気。
客たちの談笑が、木の梁に心地よく響く。
「フィン、そっちはもう片付いたか?」
「はいっ、このテーブルで終わりです!」
フィンは軽やかに返事をし、笑顔で皿を運ぶ。
彼とボビンは冒険者登録こそしているものの、前借亭の店主に拾われてからずっと、
冒険者としての仕事が重ならない時は、昼の時間帯は店の手伝いとして働いている。
ちょうどその時、厨房と客席の境目から、ずんぐりした影がぬっと顔を出した。
「……フィン、その皿、落とすなよ」
「落としませんよっ!」
裏方として雑務を器用にこなすボビンが、
無言でトレーを差し出しながらつぶやく。
「さっき床で派手に鳴ってた音は?」
「……気のせいです」
そんな他愛のないやり取りが続いていたところで――
バンッ!
店の扉が勢いよく開いた。
「た、大変だ! ギルドから《全冒険者緊急招集》らしいぞ!!」
店の空気が、瞬く間に張り詰める。
「……緊急、ねぇ」
カウンターでコーヒー豆を挽いていたカケルが、
少しだけ眉を上げた。
「“ねぇ”じゃありません。行きますよ、カケルさん」
ルシアナがエプロンを外しながら振り返る。
「そう言えば、俺も冒険者だったな。最低ランクの」
「まぁ、最近はすっかり前借亭のマスターですけど」
そう言いながら、ルシアナは冒険者に向き直った。
「ギルドよね?」
「あ、ああ! 急いでくれ!」
「フィンとボビンも行きます!」
「おう」
フィンが元気よく手を上げ、
ボビンも静かに頷き、巨大な盾を背負い直した。
ルシアナは、前借亭の扉に「準備中」という札をぶら下げ、
手伝ってくれている孤児たちも引き上げさせてギルドへ向かった。
◇
リベリス冒険者ギルドのホールは、すでに満員だった。
ざわめき、ざわつき、武具の揺れる音。
普段から騒がしい場所だが、今日は雰囲気が違う。
「……みんな、刺々しいな」
フィンはそう呟き、肩をすくめる。
「怒気だな。空気が重い」
ボビンが短く言う。
彼は感覚が鋭い。
こういう“雰囲気の変化”には特に敏感だ。
前方の壇上にはギルド支部長ハリスと数名の熟練職員、
隣に立つのは受付嬢のノエル――
そしてなぜかルシアナも、紙束を抱えて立っていた。
(……なんでルシアナさんが?)
フィンは首をかしげたが、
その理由はすぐに分かることになる。
「静かに!」
ハリスの声が響く。
「北方のスヴァレ村からの報告だ。
数日前から《黒い霧》が村中を覆い、人々が些細なことで大喧嘩を起こしている」
「黒い霧?」
「ただの村の揉め事じゃねぇのか」
冒険者たちのざわめき。
ハリスは首を振った。
「問題は、原因がまったく分からないことだ。
戻ってきた斥候は、こう言っていた。“怒りが空気に混じっているようだった”と」
場が静まり返る。
その時、ノエルがそっと壇上で口を開いた。
「……あの、支部長。この件ですが……
昔から、この地方には“感情の霧”についての言い伝えがあります」
ノエルが持っていた羊皮紙を、ルシアナに渡す。
ルシアナはそれを受け取り、軽く頷いた。
「すみません、こういう古い文献は、私の方が読み慣れているので」
ルシアナは少し前に出た。
「ここには……こう書かれています」
羊皮紙を広げ、少し迷いながら読み上げる。
「――“怒りの情が土地に満ちるとき、
黒霧は人を惑わし、禍つ風が巡る”」
冒険者たちは、眉をひそめながら聞き入る。
「“禍つ風”という表現は古いですけど……
現代語に直すなら、災厄ってところでしょうね。
つまり、怒りの感情が溜まり、災厄を呼ぶ――そんな伝承です」
そこでノエルがそっと補足した。
「もちろん、これはあくまで昔話です。
ただ……“人の心の乱れが災いを呼ぶ”という警告として語られていました」
ルシアナが羊皮紙を折りたたむ。
「感情エネルギーが強いとでも言うか……
怒りという感情はそれほど扱いが難しい。
溜まれば争いを引き起こし、広がれば災害にすらなる。
……今の黒霧は、それと似た現象なのかもしれません」
冒険者たちがざわつき始めた。
「オイオイ、災害レベルの話じゃねぇか」
「黒霧の正体、マジでヤバいのかもな……」
その空気を切り裂くように、カケルが腕を組んで言った。
「原因が分からない以上、放置はできないってことだな。
よし、行こう。俺も調査隊に――」
「ちょっとカケルさんは座っててください」
ルシアナが静かに制止した。
「(あなたが張り切りすぎると、
“調査”じゃなくて《事件解決》になってしまいますから)」
「(……それ、褒めてる?)」
「(褒めていません。また負債が増えたらどうするんですか?)」
二人のやりとりの雰囲気で、ホールの張り詰めた空気が、わずかに和らぐ。
だが――
(……まだ、ちょっとイライラしてる人が多い)
フィンは敏感な耳で、場の“チリチリした感じ”を感じ取った。
理由のない怒り。
意味のない苛立ち。
そういう気配に、彼は誰より弱い。
(……嫌な感じだ)
そのとき。
「カケルさん、下がって――」
ルシアナの言葉が終わらぬうちに、
カケルの肘が、背後の木棚にコツンと当たった。
棚に置かれた古びた壺が――ぐらり、と揺れる。
「――っと!?」
次の瞬間。
ガシャンッ!!!
壺が派手に床へ落ち、粉々に砕け散った。
ふわり、と。
青い香草の匂いが広がった。
「……あれ?」
「なんだ、急に空気が軽く……?」
「頭がスーッとする……」
ホールのざわめきが、急速に沈静化していく。
怒りの気配が、霧のように消えていく。
「すみませんっ! すぐ片付けます!」
慌てて駆け寄って来たギルド職員が、壺を見下ろして目を丸くした。
「これ……《浄化壺》じゃないですか。
倉庫の奥で眠ってた古道具ですけど、香草と簡易結界で怒気を弱める効果が――」
「おお……俺、またやっちまった系?」
カケルは申し訳なさそうに頭をかいた。
職員はにこりと笑って言った。
「結果的には助かりましたよ。
今日のホール、ちょっと雰囲気が不穏でしたから。
あとはこちらで片付けておきますね」
そう言って、器用に破片を集め始めた。
「……ほんとに偶然なんだよな、これ……?」
「ええ。分かっています」
ルシアナがため息をつきながらも、わずかに笑った。
「でも、そういう“偶然”に助けられることがあるのも事実ですから」
その言葉に、ホールの冒険者たちも素直に頷いた。
ざわめきが落ち着き、ハリスが再び声を張る。
「では、調査隊を募る!
北方《スヴァレ村》の異変――
黒霧の調査と、住民の保護だ!」
その声に、フィンの心臓が跳ねた。
怖い。
理由のない怒りの気配が、
背筋の奥をざわざわと撫でてくる。
でも。
「行くのか」
横から聞こえた低い声。
ボビンが、静かにフィンの方を見ていた。
フィンは、ぎゅっと拳を握った。
「……うん。行く。
僕……こういう時に、何もしないのは嫌だ。
きっと誰か、困ってる人がいる」
ボビンは、ゆっくりと頷いた。
「なら、俺はその隣を歩くだけだ。
お前を一人で行かせるつもりはない」
その言葉に、フィンの胸がじんわりと熱くなる。
「……ありがとう。ボビン」
《感情発生:決意120,000 ルーメ》
こうして二人は、
四魄柱「憤」へと続く長い冒険の、最初の一歩を踏み出したのだった。
お読みいただきありがとうございます! フィンとボビン、調査隊への参加を決意しました。
さて、シリアスな雰囲気で準備を進める前借亭ですが……。
次回、「嵐」が店に突っ込んできます。物理的に。
同日投稿です。続けてお楽しみください。




