第22話 風の導き、三つの心
昼過ぎの《前借亭》は、珍しく穏やかだった。
昼の客が帰り、店内にはパンとコーヒーの混じった香りがゆるやかに漂っている。
カウンターの奥で、カケルが棚を整えながらぽつりと呟いた。
「……そろそろ頃合いだな」
「また“偶然の頃合い”ですか?」
ルシアナが椅子を回してこちらを見る。
「ん。フィンとボビンがそろそろ顔を出す時間だ」
「それ、偶然じゃなくて連絡受けてたわよね?」
「どっちも似たようなもんだ」
そう言いながら、カケルはミュコを呼んだ。
「ミュコ、例のやつを」
「ぷにゅ♪」
ミュコが跳ねると、カウンター裏の石窯から白い蒸気がふわりと立ち上がる。
――焼き上げるのは、「森の蜜パン」。
表面に香草の蜜を塗り、ミュコの蒸気で柔らかく仕上げた、ほんのり甘く、少し焦がし砂糖のような香りが特徴のパンだ。
「まさか、それ……」
ルシアナが眉を上げる。
「そう、“グレンの大好物”。あの男、香りに敏感だからな」
「わざと焼いたんですか」
「偶然、焼きたくなったんだ」
「……偶然を名乗る犯罪です、それ」
ルシアナが呆れたように言う横で、
カケルは窓の外を見た。通りを抜ける風が、
ちょうど北東の方角――グレンの定宿の方向へと流れていく。
カケルの唇が、いたずらっぽく笑んだ。
「風も味方してるな」
その数分後、
ドアの鈴が鳴った。
「こんにちは!」
「おう、来たか」
フィンとボビンが入ってくる。
ミュコが「ぷにゅ♪」と跳ね、焼き立てのパンの香りがさらに広がった。
カケルがコーヒーを注ぎながら言う。
「今日は上出来の香りだぞ。二人の報告祝いってことで、特別に焼いた」
「すごくいい匂い……!」
フィンが鼻をひくつかせる。
「ミュコ、すごいな」
「ぴゅっ」
ボビンは席に腰を下ろしながら、少し真剣な声で言った。
「カケルさん……俺たち、今日また新しい依頼を受けました。
けど、まだ全然足りないんです。力も、経験も」
フィンも頷く。
「でも、それでも守りたい人たちがいる。だから……前に進もうって」
カケルは黙って二人を見ていた。
やがて、にやりと笑う。
「いい顔だ。……ちょうどいい」
その時だった。
店の外から、靴音が近づいてくる。
ルシアナが小声で呟く。
「まさか、本当に来るとは……」
「パンは正直だからな」
「香りで人を操るとか、どんな奇術ですか」
ドアの鈴が鳴った。
「すみません……まだパン、残ってますか?」
入ってきたのは、灰色の外套をまとった青年――グレンだった。
ほんのり焦げた甘い香りを追ってきたらしく、眉をゆるめて言う。
「……この香り、森の蜜パン。これに目が無いんだ」
「焼きたてだ。ちょうど出すところだった」
カケルがにっこり笑ってカウンターを指さす。
「今度は“ちょうど”の魔術師?」
ルシアナが呆れながら言った。
グレンは席につき、パンを一口かじる。
「……やっぱりうまいな。王都でもこの味は出せない」
「ミュコ特製です」
「ぷにゅっ♪」
ボビンが気づいて声を上げる。
「グレンさん!」
「おお、ボビンか。久しぶりだな」
「以前のギルド依頼の時はお世話になりました。まさか、ここで会うとは」
「こっちのセリフだ。……運命ってやつか」
グレンはフィンの方に目を向ける。
少年は緊張したように姿勢を正した。
「僕、フィンって言います! あなたみたいに、誰かを守れる人になりたいんです!」
その言葉に、グレンは一瞬言葉を失った。
パンを置き、息を吐く。
「俺みたいに、か。
……俺は、ただ逃げずに立ってるだけだよ。剣は強いが、俺自身はまだ迷ってる」
「でも、それでも前に立ってるじゃないですか。僕、そんな人になりたいです」
グレンはふっと笑い、肩をすくめた。
「まいったな。そう言われると、少しは胸を張らないとな」
ボビンが口を開く。
「俺も、フィンと同じ気持ちだ。守りたい人たちがいる。
そのためなら、どんな危険でも構わない」
カケルがそのやり取りを聞きながら、コーヒーをゆっくり啜る。
「――ちょうどいい。グレン、チームを組め」
「は?」
「お前、最近単独で動いてるだろ。力を分け合える仲間がいた方がいい」
「……なるほど。で、偶然この二人がここにいたと」
「偶然だ」
「香りに誘われた偶然、な」
「そうとも言う」
グレンは小さく笑い、席を立つ。
そして、真剣な目で二人を見つめた。
「よければ、俺と組まないか。
“守りたい”って気持ちは、ひとりより三人の方が強い」
フィンとボビンは驚いたように顔を見合わせ、すぐに頷いた。
「お願いします!」
「ぜひ」
その瞬間、カケルの視界にウィンドウが浮かぶ。
《感情発生:絆・覚悟900,000 ルーメ》
ルシアナが横で呟く。
「……この店、本当に人を繋ぐ場所になりましたね」
「“香りの偶然”ってやつだ」
「その言葉、特許取れますよ」
ミュコが「ぷにゅっ♪」と跳ねる。
グレン、フィン、ボビン――三人の笑顔が並び、
《前借亭》の午後に、心地よい風が通り抜けた。
夜。
カケルは二人用に入れた茶を飲みながら呟く。
「……今日も上出来な“偶然”だったな」
ルシアナが呆れながら笑う。
「あなたの場合、偶然じゃなくて“香り付き誘導”ですけどね」
「偶然の香りってやつさ」
「もう、何でも偶然って言えば済むと思ってるでしょ」
「まぁ、だいたい済む」
窓の外では、夜風が心地よく流れていた。
その風が通り過ぎた先で――
三人の“守りたい”が、新しい物語を動かそうとしていた。
次の話は、討伐ランクS級の魔獣、炎鱗獣マルガドスが現れます。
グレン達3人は、他の冒険者を守るため立ち向かいますが、どうなるのでしょうか?
お楽しみに。




