第12話 パンとスライムと前借亭の朝
朝のリベリスは、焼きたてパンの香りで満ちていた。
《前借亭》の煙突からは、白い湯気が立ち上っている。
――店の厨房では、スライムが発酵を担当していた。
「ぷに♪」
ミュコがぷるぷる震えるたび、パンの生地がふんわりと膨らむ。
焼き上がった瞬間、甘い香りが通りにまで溢れ出した。
「ぷにパン……こりゃ、もう看板メニュー確定だな」
「神の奇跡より膨らんでますよ!」
「そりゃ発酵は生命活動だからな。神より偉いかもしれん」
「そんな神学論争いりませんっ!」
カケルとルシアナの掛け合いが、パンの香りよりも店を温めていた。
◇
少し前まで二人は、ギルドで紹介された宿屋《風見亭》に滞在していた。
だが《前借亭》を始めたことで、カケルが提案する。
「せっかくだし、店の奥を改装して住もう。通勤ゼロ、管理も楽」
「……つまり、家賃削減目的ですね?」
「まあ、それもある」
ウィンドウを操作すると、いくつかの金貨の山が一瞬で消えた。
《改装開始:店舗奥スペース→居住区》
《建築費:金貨400枚(自動支出)》
数分後、店の奥が静かに変化していく。
床が張り替えられ、扉が二つ並ぶ。
一方には「カケル」、もう一方には「ルシアナ」とプレートをルシアナが掛ける。
「ちゃんと個室、分けておきましたから」
「助かる。俺、寝相悪いし」
「そんな情報いりません!」
ルシアナは新しい部屋を見回していたが、ふと眉をひそめた。
「……ところで、浴室は?」
「ああ、作ってある。向こう」
扉を開けると、湯気がふわりと広がった。
広い湯船に磨かれた石床、湯口からは一定温度の温泉水が流れ続けている。
「す、すごい……立派なお風呂!」
ルシアナの目が輝く。
「これでやっと銭湯通いから解放されます!」
「……元女神、よく毎晩あの銭湯行ってたな」
「だって! あそこしかお湯張ってる場所なかったんですもん!」
「ま、庶民生活も悪くなかっただろ」
「“悪くない”じゃありません!もう、戻りたくない。……でも今は最高です!」
ルシアナは湯気の向こうで腕を広げてくるくる回り、
その姿を見てカケルは小さく笑った。
神々しさよりも、今はずっと“人間らしい”。
◇
昼。
子どもたちが「ぷにパン」を食べに来て、通りが活気づく。
店のカウンターには、ギルド制服のノエルが顔を出した。
「こんにちは。“ぷにパン”ありますか?」
「もちろん。」
ノエルが笑ったその時、扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、鎧を脱いだグレン。
昨日より、どこか穏やかな顔だ。
「あ……ノエルさん」
「グレンさん。こんにちは」
二人は少し照れながら、違うテーブルに座った。
カケルとルシアナは奥からこっそり覗く。
「(あの感じ、まだ距離がありますね)」
「(まあ、何事も急がずに。長期に投資してこそ利益が出る)」
「(恋愛を投資扱いしないでください!)」
その微妙な距離感に、確かな“温かさ”があった。
《感情発生:温かさ・信頼50,000 ルーメ》
ルシアナが帳簿を覗き込む。
「……昨日より少し減ってますね、数値」
「ああ。少しだけ新たな“偶然”が必要かもな」
ルシアナは目を瞬かせた。
「……あなた、神界の官吏官がお似合いかもしれませんね」
「俺、元会社員だぞ?」
「皮肉が通じない人間は最強です」
◇
夕方、子どもたちが帰り、店に静けさが戻る。
カケルはカウンターを拭きながら言った。
「こうして見ると、悪くないな。この暮らし」
「宿屋の頃より、ずっと落ち着きますね」
「風見亭もいい宿だったけど、いちいち通うの面倒でな」
「私はあの銭湯通いの時間、二度と戻りたくありません!」
「神様でも、風呂問題は深刻なんだな」
「神も人も、お湯の前では平等です!」
ミュコが“ぷに♪”と鳴き、カウンターに飛び乗った。
その柔らかな音が、まるで「おつかれさま」と言っているようだった。
カケルは椅子に腰を下ろし、ルシアナにカップを差し出す。
「ほら、飲め。今日はよく働いた」
「はい……いただきます」
湯気の向こうで、二人の笑みが交差した。
そこには恋も憧れもなく、ただ“信頼”があった。
――世界を動かす風は、まだ静かに吹いている。
看板がかすかに揺れた。
次の話は「偶然のナッツ」炸裂!です。
お楽しみに
本日の投稿も2話です。
また、平行してもう一つの連載を開始しました。
「魔法使いが束になっても、俺の詠唱「カバディ」は止められない」
https://ncode.syosetu.com/n8966lm/
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