昔、自分をいじめていた奴と友情は成り立つのか
1
会社帰りのバス停で、俺はその名前を聞いた。
「なあ、佐伯。中学ん時の山岸って覚えてるか?」
同僚の何気ない一言。飲み会の流れで出た昔話に、突然“その名”が混ざった。
忘れたかった。
いや、記憶の奥に押し込めただけだ。
机に描かれた“死ね”の落書き。
背中に浴びせられた悪口。
体育倉庫に閉じ込められ、夕暮れまで一人で泣いていた。
その中心にいたのが、山岸だった。
「……覚えてるよ」
声が震えたのが自分でもわかった。
同僚は気づかず笑っていた。
「アイツ、最近見かけるんだよな。駅の近くの定食屋で働いてるっぽいぞ」
その瞬間、胸の奥がざわついた。
恐怖なのか怒りなのか、あるいはその両方なのか。
会いたくなかった。
でも——どこかで、会わなきゃいけない気がした。
2
数日後。
仕事帰りにその定食屋の前を通ると、夕食時でにぎわっていた。
そして厨房で動く姿を見つけてしまった。
——山岸だ。
昔と違う。
痩せたのか、雰囲気がやけに落ち着いている。
でも顔は間違いなかった。
俺の足は勝手に店の中へ向かっていた。
席に座り、注文し、運ばれてきた料理を見つめる。
そして山岸が、俺を見つけて固まった。
「……佐伯?」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
十年前の教室に戻ったような感覚に襲われる。
「久しぶりだな」
なんとかそれだけ返すと、山岸は気まずそうに視線をそらした。
「ちょっと……いいか? 休憩入る」
3
店の裏口に出ると、冬の風が吹いていた。
山岸は深く頭を下げた。
勢いよく、まるで地面にぶつかりそうなほど。
「本当に……すまなかった。
あの時、俺たちがやったこと……最低だった」
声は震えていた。
昔の山岸なら、こんな風に謝る姿なんて想像すらできなかった。
「謝って済む問題じゃないだろ」
俺は静かに言った。
怒鳴りはしなかった。でも胸の中では嵐のように感情が渦巻いていた。
山岸は唇を噛み、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「わかってる。
いじめた側が何言っても、許される資格なんかない。
ただ……俺はずっと、自分のしたことを悔やんでた。
あの頃の俺は、本当に弱かった。
みんなに合わせることしかできなくて……でも、そんな言い訳、通用しないよな」
俺はしばらく黙っていた。
“許せない”という気持ちは確かにある。
でも——“許したくないだけ”なのかもしれない、という思いもあった。
「……なんで今さらなんだよ」
山岸は目を伏せ、吐くように言った。
「親が病気になってさ。看病して、嫌でも自分の生き方と向き合った。
そしたら……俺、誰に対してもまともに向き合ってこなかったことに気づいたんだ。
特に、お前に」
その言葉は嘘ではなかった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
4
「なあ、山岸。友情ってさ、ゼロから積み上げるもんだろ。
でも俺たちは、マイナスからなんだよ」
俺の言葉に、山岸はゆっくり頷いた。
「マイナスでいい。
そこから……いつかゼロに戻せるように頑張りたい。
今日会えたのは、最後のチャンスだと思ってた」
風が吹き、二人の間の沈黙が少し軽くなる。
「……いきなり友達は無理だ。正直、まだ怖い」
俺がそう言うと、山岸は少しだけ笑った。
悲しさと安堵が混ざったような笑みだった。
「わかってる。
でも、話すくらいなら……またしてくれないか?」
しばらく考えた。
十年前の俺なら、絶対に許さなかっただろう。
けれど今の俺は、大人だ。
心の傷が消えたわけじゃない。でも——
「……話すくらいなら、いい」
そう口にした瞬間、胸の奥に張り付いていた硬い氷が、少しだけ溶けた気がした。
山岸はほんのわずか、肩の力を抜いた。
「ありがとう。
いつか“友達”って呼んでもらえるように……ちゃんと変わり続ける」
5
その後、たまに連絡を取り合うようになった。
距離はある。
疑いも残っている。
でも会うたび、山岸は誠実に向き合おうとしていた。
十年前の影はまだ完全には消えない。
けれど、その影に怯えるだけの自分も、少しずつ変わっていく。
友情が成り立つかどうかは、まだわからない。
答えは急には出ない。
ただ、一つだけ確かに言える。
——過去は消えない。
でも、人は変われる。
そして変わった人間に、もう一度向き合う勇気もまた、未来を変える。
それが、俺が一歩踏み出して知った“答えの途中”だった。




