第2話 影を拾う者
第2話 影を拾う者
山を下りるバスを降りたとき、風が肌にざらついた。
乾いているのに、どこか湿った匂い。
田島陽一は首から下げた記者証を握り、周囲を見回した。
“霜影町”——地図にはあるが、ネットにも情報が少ない。
地元紙に載った行方不明事件の記事をきっかけに、デスクの柴田に送り出された。
「早川が、消えた。
宿の関係者は“帰った”と言い張ってる。
お前も一度、霜影を見てこい。 早川の代わりに、な」
柴田の声が、脳裏に残っている。
——“早川真琴”。
週刊誌の先輩ライターの失踪。
そして、“影に飲まれた”という不可解な噂。
胸の奥に、妙なざわめきが残っていた。
「早川先輩…好奇心旺盛だからなぁ
出発前に心配して声かけたけど、聞く耳持たないから…」
バス停の向こうに、古い木造旅館が見える。
看板には「霜影旅館」。
記事で見た写真と、同じ建物だった。
玄関先の引き戸が静かに開く。
白い和服の女が立っていた。
年齢は四十前後か。
張りのある声で言った。
「ようこそ。霜影旅館へ」
田島は軽く頭を下げ、手帳を見せる。
「田島と申します。実は、少し取材を——」
「ええ、聞いておりますわ」
女は穏やかに頷いた。
「柴田さまから、お電話をいただきました」
田島の眉がわずかに動く。
——デスクが? いつの間に。
女将は靴を脱ぐよう促した。
廊下はやけに暗い。
窓はすべて障子で閉ざされ、昼なのに光が届かない。
「この町ではね、陽の光が強すぎると、影が怒るんですよ」
女将がふと振り返り、微笑んだ。
その笑顔が、どこか懐かしかった。
——いや、見覚えがある。
田島は立ち止まった。
女将の手が、何気なく下唇を撫でた瞬間、
背筋がぞくりとした。
まるで誰かが背後で、同じ仕草をしているような錯覚。
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客室に案内されると、女将は茶を出した。
香りは妙に冷たく、湯気の代わりに白いもやが漂う。
「昨夜はずいぶん冷えましたの。山の上ですから」
彼女の声が、空気を撫でるように柔らかい。
田島は録音機をそっと置いた。
「最近、このあたりに女性のライターが宿泊されたと聞きまして」
女将の手が一瞬止まる。
だが、すぐに微笑んだ。
「ええ、確かにお泊まりになりました。……早川真琴さん、でしたかしら」
その名を聞いた瞬間、
田島の胸の奥で、何かが“響いた”。
声に出してはいないのに、
耳元で、囁く声が重なった。
——“見つけて”
---
録音機のランプが、カチリと点いた。
スピーカーから、微かなノイズが漏れた。
そこには、確かに“もうひとりの呼吸音”が混じっていた。
録音機のノイズは、どこか“水音”にも似ていた。
しゅう……しゅう……と、何かが擦れる音。
田島は再生ボタンを押したまま耳を近づけた。
——「見つけて」
女の声。
いや、もっと細く、溶けるような音だった。
空気が耳の奥に“染み込む”ような。
「……おかしいな」
思わず呟くと、背後で障子がかすかに鳴った。
風かと思った。
だが、外は静まり返っている。
障子の紙の向こうに、
ゆらりと“影”が浮かんでいた。
人の形。
だが、上半分が“揺らいで”いる。
田島はそっと立ち上がり、近づこうとした瞬間——
女将の声が、廊下の向こうからした。
「お食事の用意ができましたよ」
影がふっと掻き消える。
まるで呼ばれて引き戻されたように。
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夕餉の席。
膳の上には、山菜と川魚。
だが、どれもやけに“白っぽい”。
光のせいではない。
素材そのものが、色を失っているようだった。
女将は穏やかに言った。
「この辺りのものは、日差しに弱いんです。
影の下で育ったものばかりだから」
「影の下……?」
田島が聞き返すと、女将はゆっくりと笑った。
その指先が、また下唇をなぞる。
ぞわり、と皮膚が粟立った。
——その癖。早川先輩がよくやっていた。
「女将さん、あなた……どこかで、早川真琴に会ったことが?」
「ええ、少しだけ。取材でご一緒しました」
女将は、箸を置いた。
そして静かに言った。
「早川さん、ね。
とても真面目で……そして、光が強すぎる方でした」
「光……?」
「ええ。影を恐れない人は、たいてい、影に好かれてしまうんです」
田島は、茶を啜る手を止めた。
女将の声が、いつの間にか“耳の奥”に直接届くように聞こえていた。
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夜。
眠れずに録音を聴き返していた田島は、
ふと机の引き出しに紙片を見つけた。
——“祠 地下 鏡”
手書きのメモ。
筆跡は、早川先輩のものだった。
田島は思わず立ち上がり、
旅館の廊下を歩き始めた。
床板が、踏むたびに“うねる”ような音を立てる。
やがて、裏庭の先に階段を見つけた。
木戸には「関係者以外立入禁止」の札がかかっており、錆びた鍵は折れていた。
——地下。
メモの言葉が脳裏をよぎる。
階段の下からは、微かに冷たい風が吹き上がってくる。
その風の中に、
はっきりと、女の声が混じっていた。
——「田島くん……」
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懐中電灯の光を向けると、
地下の土間に“祠”があった。
中には、湿った空気が充満していた。
蝋燭が並び、古びた祭壇。 そして奥の壁には——無数の影が貼り付いていた。
祠の前に、黒く塗られた鏡が置かれている。
鏡面は曇り、何も映らない。
だが、田島が近づくと、
ゆらりと影が“浮かび上がった”。
女の顔。
そして、その唇が微かに動く。
——「ここは、光のないところ」
田島の足がすくむ。
鏡の中の女は、確かに“早川真琴”だった。
だがその輪郭の周囲で、
もう一人の“黒い女”が彼女を包み込んでいた。
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背後で、階段の木が鳴った。
田島が振り返ると、
そこには女将が立っていた。
白い着物が、蝋のように冷たく光っている。
「…ここは、関係者以外立入禁止ですよ」
「……あなたは……何者だ」
女将は微笑んだ。
そして、ゆっくりと田島に歩み寄る。
「私はただの女将です」
その瞳の奥で、
“先輩の影”がゆらりと揺れた。
---
田島は後ずさる。
鏡が勝手に傾き、床に落ちた。
黒い面が上を向き、
そこから“腕”のようなものが伸びてきた。
「やめろ……!」
田島は足を踏み出すが、
冷たいものが足首に絡みついた。
——影だ。
女将が手を伸ばす。
その手が、まるで“早川先輩”のもののように見えた。
「ねえ、田島くん……」
同じ声。同じ仕草。
女将の唇が、下をなぞる。
「私、見つけてもらえて……嬉しい」
第2話 完




