第1話 霜影町の噂
編集部の蛍光灯が、わずかにチカチカと瞬いていた。
深夜のニュースデスク前、パソコンの冷たい光に照らされた顔が三つ。
早川真琴と、後輩の田島陽一。二人は新聞記者。
そして編集室主任の柴田。
コーヒーの酸っぱい匂いと、印刷機の低いうなりだけが、この時間の会社の生きている証拠だった。
「……早川、行ってみるか」
背後から声をかけられたとき、私は手を止めた。
デスク——柴田が資料をひらひらと持ち上げる。薄い笑み。
あの、何かを知っているような、どこか見透かすような目つき。
「霜影町、って……これ、怪談特集のネタですか?」
「まあ、そんなとこだ」
柴田は淡々と答える。
「“影が人を呑む町”って、週刊誌の見出しみたいな話だが、地元じゃけっこう根が深いらしい。町の歴史も古いし、変な噂も多い。君、こういうの好きだろ」
私は指先を下唇に触れた。
考えるときの癖だ。
好きかどうかと問われれば、否定はできない。
昔から“変な話”には目がない。人の噂の裏には、だいたい誰かの思惑がある。
だから、こういう地方取材は嫌いじゃなかった。
「行ってきます」
私は即答した。
デスクがわずかに口角を上げた。
「さすが、反応が早いな。そういう前向きなやつが一人は必要だ」
「一人、ですか?」
「ああ。田島は今別件で手が離せん。お前ひとりで、まずは様子見だ」
柴田の指先が、机の上の地図をとんとんと叩く。
地図の端に「霜影町」と小さく印刷された文字。
山に囲まれた小さな町で、鉄道も途中で途切れている。
中心には“霜影旅館”という、古びた旅館の名前が書かれていた。
「宿はここを取ってある。古いが評判は悪くない。……まあ、夜はあまり出歩くなよ」
そう言いながら、柴田は机に残っていたコーヒーを飲み干した。
その指先が、ふと震えたように見えた。
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「先輩、本当に行くんですか」
翌日、出発前の駅のホーム。
田島が不安そうに私を見る。
この若い後輩は、何かと心配性だ。まだ入社三年目の私を“先輩”と呼ぶのも妙に律儀で、
それが逆におかしくて、私は笑ってしまった。
「デスク命令だもの。しかも怪談取材、断る理由がないでしょ」
「そういうの、気味悪くないですか? “影が人を呑む”とか……」
「怖い話なんて、みんな誰かの記憶の断片。科学的に見れば、ただの現象よ」
強がりでもなく、本気でそう思っていた。
何かがおかしいとき、人はすぐ“超常現象”に逃げたがる。
だけどその裏には、必ず人間の理由がある。
それを暴くのが記者の仕事だ。
発車ベルが鳴り、私は小さく手を振った。
田島は最後まで渋い顔のままだった。
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列車を三本乗り継ぎ、バスを二本。
夕方、霜影町の入り口に着いたころには、すでに空が群青色に沈みかけていた。
山の影が濃く、町全体が薄暗い膜に包まれているように見える。
バス停のそばにある地図を見ても、霜影旅館の場所は書かれていない。
代わりに「火ノ影神社」「御影川」「影坂」と、影のつく地名ばかりが目立つ。
歩き出すと、民家の間を抜ける細道がやけに長い。
人の姿がない。
電灯が一つ、ぼんやりと灯っているが、やけに弱い光だった。
町全体が、まるで光を吸い取っているような——そんな気配。
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「霜影旅館」と書かれた木の看板が、ようやく見えたのは、日がすっかり落ちたころだった。
昔ながらの日本家屋。格子戸に吊られた提灯が、風に揺れてかすかに鳴る。
中から、ゆっくりと障子が開いた。
「ようこそ。……お一人でございますか?」
出迎えた女将の声は、柔らかかった。
だが、どこか冷たい。まるで空気の温度だけが変わったような感じがする。
「はい。新聞の取材で来まして——」
「はいはい。お話は伺っております。お部屋をご用意しておりますので」
先回りしたような口ぶりに、私は一瞬だけ首を傾げた。
でも、すぐに納得する。デスクが予約を入れたのだろう。
柴田の顔が一瞬、脳裏をよぎる。
あの人はいつも、どこまで段取りしているのか分からない。
女将は、白い襟の割烹着を着ていた。
黒髪を低くまとめ、年齢は四十前後だろうか。
目尻の皺の形が妙に印象的だった。笑っているようで、笑っていない。
「こちらへどうぞ」
案内された廊下は、異様に暗かった。
提灯が一定間隔で吊られているが、光が弱い。
しかも——明かりの届かない場所に、影が重なり合って揺れている。
まるで、人の形をした何かが壁に貼りついているように見えた。
私は思わず下唇に触れた。
けれどその指先が、少しだけ冷たく湿っていた。
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部屋は、想像よりも広かった。
八畳の和室に、古い桐箪笥。窓際には丸いちゃぶ台と急須。
障子越しに見える庭は黒々としていて、灯篭の影が細く伸びていた。
「お食事は七時にお運びしますね」
女将は静かに頭を下げた。その動きの途中、ふと何かを思い出したように、私の肩越しを見た。
そして、ごく小さな声で囁いた。
「……影、踏まれませんように」
「え?」
聞き返したときには、もう襖が閉まっていた。
——影を、踏まれませんように?
意味が分からない。
でも、あの声が耳の奥にこびりついて離れなかった。
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荷をほどいてから、私はカメラを持って町を歩いた。
夕食までにはまだ少し時間がある。
薄暗い町並みを撮るのも、記事の導入にちょうどいい。
だが、歩き出してすぐに、気づいた。
この町には、光がない。
街灯はある。家の窓にも明かりが灯っている。
でもそれらの光は、まるで壁に吸い込まれるように、広がらない。
道の端には、黒い筋のようなものが幾重にも走っている。
まるで、影だけが濃く生きているようだった。
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「よそ者かね?」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、白髪の老人がひとり、石垣に腰を下ろしていた。
薄い目を細めて、私のカメラを指差す。
「取材で? ……ふふ、あの人に言われたんだろ」
「あの人?」
「柴田とかいう、新聞の人だ」
私は息を飲んだ。
名乗っていないのに、デスクの名前が出てきた。
「ご存じなんですか?」
「ああ。前にも来たことがある。あんたみたいに、夜に歩き回ってた。
あれも、何かを“撮りたい”って言ってたなあ……」
老人の声は妙に湿っていた。
その笑いには、親しみよりも諦めが混じっている。
「で、あの人、どうしたんです?」
老人は首を振るだけだった。
その動きに合わせて、足元の影がぐにゃりと揺れた。
人の形に、わずかに似ていた。
「この町では、光の下に立つな。
影は生きてるんだ。
お前さんの姿を覚えたら、もう帰れんぞ」
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宿に戻ると、ちょうど夕食が運ばれてきた。
女将は無言で膳を置き、味噌汁を湯気ごと差し出す。
その手の動きが、どこか見覚えがあった。
——あ。
思い出した。
編集部で、デスクがよくやる癖。
話しながら、無意識に指で机を三度、とん、とん、とんと叩く。
その癖を、女将も同じようにやっていたのだ。
「……女将さん、柴田って人を——」
言いかけたとき、女将がこちらを向いた。
まるでそれを予期していたように、ゆっくりと微笑んだ。
「“柴田さん”なら、よくご存じですよ。
——あの方には、いつもお世話になっておりますから…」
ちゃぶ台の上で、湯気が止まった。
味噌汁の中の豆腐が、ゆっくりと沈んでいった。
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夜中、ふと目が覚めた。
誰かが廊下を歩いている音がする。
ぺた、ぺた、ぺた……。
裸足のような、湿った音だった。
時計を見ると午前二時。
客は私ひとりのはずだ。
私は下唇に触れた。
恐る恐る襖を開けて、廊下を覗いた。
誰もいない。
ただ、板張りの床に——黒い跡が点々と続いていた。
濡れた足跡のように見えたが、乾かない。
それどころか、廊下の灯りを呑み込むように、じわじわと濃くなっていく。
私はカメラを構えた。
シャッターを切った瞬間、廊下の突き当たりに——人影が見えた。
白い着物、長い髪。
それがこちらを向いた、ように見えた。
だが、次の瞬間、影は消えた。
ファインダーの奥に残ったのは、壁に滲んだような黒い染みだけだった。
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翌朝。
女将は何事もなかったように朝食を運んできた。
私は気づかぬふりをして味噌汁をすすったが、口に含んだ瞬間、ひやりとした。
冷たい。
湯気も出ていない。
箸を置くと、女将が微笑んで言った。
「……お口に、合いませんでしたか?」
そのときの女将の仕草——
どこか、身に覚えがあった。
下唇をそっと触れる仕草。
あれは、私が考え事をするときにやる癖だ。
なぜ、彼女がそれを?
偶然? それとも、私を見て真似を……?
いや、それにしては自然すぎる。
まるで昔からの自分の癖のように馴染んでいた。
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その日の午後、私は町の古老を取材した。
霜影町の“影蝕伝説”について、わずかに資料が残っていたのだ。
「むかしは“影守り”っていう役目があってな。
村の明かりが強くなりすぎると、影蝕が怒るんじゃ。
だから、夜になるとわざと灯りを落としてた。
それでも影蝕が現れるときは……“贄”を捧げたそうな」
「贄って、つまり——」
「人じゃよ」
老人は乾いた笑いを漏らした。
「旅人、よそ者、記者……よう似たようなもんじゃ」
背筋が冷えた。
——じゃあ、あの女将は?
あの宿こそ、“影守り”の巣ではないのか?
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夜、私は旅館の裏庭へ忍び込んだ。
そこには、古びた石段があった。
下り口は苔に覆われ、木戸には「関係者以外立入禁止」と札がかかっている。
鍵は錆びており、軽く押すと折れた。
中には、湿った空気が充満していた。
蝋燭が並び、古びた祭壇。
そして奥の壁には——無数の影が貼り付いていた。
人の形をした黒い跡。
それは壁面からわずかに浮き上がっており、微かに脈動している。
「……っ!」
思わず後ずさると、背後から女将の声がした。
「——ここは関係者以外立入禁止ですよ」
ゆっくりと振り向く。
女将は白装束に変わっていた。
顔は笑っていたが、瞳孔がなく、真っ黒だった。
「影は光を食う。
人もまた、影を落とす。
だから、こうして繋がなければならないのです。
影蝕が町を喰わぬように……」
女将が近づくたびに、足元から黒い何かが絡みついてきた。
カメラを落とし、逃げようとした瞬間——
床一面の影が、波のようにうねる。
「この町は、光を恐れています。 灯を掲げる者は、必ず影蝕に喰われる。
けれど——その命が、新しい影を生むのです」
女将の声が柔らかく、耳の奥に染みていく。
その瞬間、私は気づいた。
——自分の影が、動いている。
石の床に落ちた影が、私の意思と関係なくゆらめき、 次第に形を変えはじめた。
輪郭が崩れ、もうひとりの「私」が立ち上がる。
そいつは唇をなぞるように、指先をゆっくり動かした。
「……あなた、誰?」
問いかけた。 けれど、その影が返したのは、私の声だった。
「——私だよ。もう一度、町を照らそう」
薄れる意識と共に、広がっていく暗闇の中で、誰かの声がした。
——次は、あなたの番。
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数日後、霜影旅館の前にひとりの男が立っていた。
記者証を首に下げた若い男。
名は、田島陽一。
デスク・柴田に命じられて、この町を訪れたばかりだった。
女将が玄関から現れ、柔らかく微笑んだ。
その手は無意識に、下唇をそっと触れていた。
「ようこそ。……霜影旅館へ」
(第1話・完)




