第9章「裂け目」
塔が、うなっていた。
沈黙の塔が――音を拒絶するその構造そのものが、今、音によって震えている。
ティアの声とエコーの声、そしてジョーカーの鈴の音。
その三つの響きが重なった瞬間、塔の壁面に細い裂け目が走った。
白く濁った壁から、まるで血のような黒い光が漏れ出している。
「……来たな」
ジョーカーは口の端を持ち上げ、低く笑った。
「なに……これ……」
ティアが呟く。塔が、壊れている。
でも――同時に、塔は反応していた。
天井全体から低い振動音のような“無音”が押し寄せた。
耳を塞いでも意味がない。
それは音ではなく、存在そのものを押し潰すような波だった。
「……塔が“防衛”に入ったな」
「防衛……?」
「俺の時もそうだった。塔は余白の音に反応し、“世界”を閉じる」
塔の裂け目が一瞬大きく広がり、空間の奥に暗い空隙が現れる。
その向こうには、夜と空が混ざったような不気味な虚空が広がっていた。
「……あれ、なに?」
「塔の裏側。盤面の外だ」
ジョーカーは短く答えた。
「塔は余白を消すために生まれた。でも、“消す”ってのは、“閉じる”ことでもあるんだ。余白が増えると、塔は外の世界との境界を閉ざそうとする」
ティアの喉がごくりと鳴った。
まるでこの空間全体が飲み込まれそうな感覚だった。
エコーもその光景を呆然と見つめている。
彼の中の“塔の声”が不安定に揺れているのがわかった。
「エコー、聞こえるか?」
ジョーカーが声をかける。
少年は顔を伏せ、額を押さえながら震える声を絞り出した。
「……うるさい……塔が、叫んでる……『余白を、閉じろ』って……」
「なら、お前はどうする?」
ティアが一歩近づき、まっすぐエコーを見つめた。
「塔の声じゃなくて……“自分”は、なにを望んでるの?」
エコーの身体がびくりと震えた。
塔に拾われてから、彼はずっと塔の“命令”だけで動いてきた。
でも――ティアの声が、奥の奥に埋もれていた自分自身を揺さぶる。
「……ぼくは……」
その時、塔が大きく軋んだ。
裂け目がさらに広がり、塔の根幹が露出する。
沈黙が波のように押し寄せ、ティアとエコーの身体を吹き飛ばそうとする。
ジョーカーはすかさず鈴を鳴らした。
――チリン!
音の波が沈黙の圧力と正面からぶつかる。
「いいか、エコー!」
ジョーカーの声が空間を切り裂く。
「塔の声なんか、世界の端っこにでも捨てちまえ! お前は塔に拾われたんじゃない。お前が、“塔に奪われた”んだ!」
エコーの目が大きく開かれた。
塔の支配と自分自身の声がぶつかり合い、身体全体が震えている。
その中で、ほんの一瞬、彼の口が開いた。
「……たすけて」
その小さな声は、確かに彼自身のものだった。
ティアはその声を聞いた瞬間、迷いなく走った。
沈黙の風が頬を切る。
塔の奥に吸い込まれそうになる。
それでも、エコーの手を掴んで離さなかった。
「大丈夫。声は、消えない」
ジョーカーが後ろから鈴を高く鳴らした。
――チリンッ!!
その瞬間、裂け目の向こうにあった暗い虚空が波打つように揺らぎ、塔の心臓部に亀裂が走った。
空間がきしみ、沈黙の膜が震える。
「……いける」
ジョーカーの声が低く響いた。
「盤面を、ひっくり返す準備は整った」
塔の裂け目から吹き出した風が、三人を飲み込もうと渦巻く。
それは沈黙の逆流――塔が最後の抵抗を始めた証だった。




