第8章「塔の子ら」
塔の沈黙に入った“ひび”は、まだ小さなものだった。
黒い結晶はそれでも脈動を続け、まるで怒りを帯びたように塔全体を震わせている。
壁の奥から、冷たい風が吹き抜けた。
「……来るぞ」
ジョーカーは、鈴を指先で弾きながら低く呟いた。
ティアが震える声で問いかける。
「なにが……?」
足音――いや、“音のない足音”が響いた。
空間の奥から、ひとりの少年が姿を現す。
年齢はティアとそう変わらない。
白い衣をまとい、瞳の奥はまるで塔そのもののように冷たい。
「……余白、だな」
ジョーカーが小さく呟いた。
「余白?」ティアが聞き返す。
少年はゆっくりと二人に歩み寄る。
まるでこの空間と一体になっているような静かさだった。
「僕は……“塔の子”」
その声には抑揚がなかった。
けれど、確かに人間の声だった。
「……塔の子?」
「余白から生まれ、塔に拾われた者。ここで“沈黙”になることで、生き延びたんだ」
ジョーカーの表情がわずかに曇る。
その言葉の意味を、彼はよく知っていた。
塔は余白を消すだけではない。
稀に“取り込み”、塔自身の声として育て上げる。「沈黙の代弁者」――塔の中核に仕える、もう一つの余白だ。
「……お前、名前は?」
ジョーカーの問いに、少年はほんの一瞬だけ眉をひそめた。
「……名前なんてない。塔は名前を必要としない」
「そっか。じゃあ――俺が勝手に呼んでやるよ」
ジョーカーは軽く笑った。
「“エコー”だ」
少年――エコーはその名を否定しようとはしなかった。
だが、その目に光はない。
「余白は消えるためにある。塔がそう言ってる」
「お前、本当にそう思ってるのか?」
「……僕は、選ばれなかった。塔だけが、僕を受け入れた」
その声には静かな絶望があった。
ティアはその表情に、かつての自分を重ねた。
「……わたしも、選ばれなかった」
ティアが小さな声で呟く。
エコーの目が、かすかに揺れた。
「……でも、お前は……」
「わたしは、生きたい」
沈黙の中で、その言葉はあまりに鮮やかだった。塔が最も嫌う“意志”の音。
それを前にして、エコーの手がかすかに震える。
「……生きても、居場所はない」
「あるよ。自分でつくる」
ジョーカーは口元に笑みを浮かべた。
「お前も、昔の俺と同じだ。塔に拾われた余白。名前も、音も、全部奪われた。でもな、奪われたものは――取り戻せる」
「取り戻す……?」
「そうだ。塔は盤面、俺たちはカード。ひっくり返す権利がある」
鈴が鳴る。――チリン。
エコーの瞳が、大きく揺れた。
その音は、彼が塔に拾われる前に持っていた“音”の残滓を刺激した。
「やめろ……その音を鳴らすな」
「それが怖いのは、お前じゃなくて――塔だろ?」
塔全体が震えた。
まるでエコーの揺らぎに、塔自身が焦っているかのようだった。
「エコー!」ティアが一歩踏み出す。
「わたし、あんたのこと、わかるよ……。ここにいたら、声がなくなるんでしょ?」
エコーは息を詰まらせた。
「……僕は、もう……声なんて……」
「ある!」
ティアの声が響く。
「聞こえるよ。まだ消えてない」
沈黙の心臓が一瞬脈動を乱した。
エコーの瞳が揺れ、塔と少年の境界線がきしむ。
ジョーカーはその揺らぎを逃さず、帽子の鈴を高く鳴らした。
――チリンッ!
塔の壁が震え、空間が微かに軋む。
エコーの膝がわずかに崩れ落ちた。
彼の中に埋め込まれた“塔の声”と、“本来の声”がぶつかり合っている。
「……うるさい……やめろ……」
「お前の声は、お前のもんだ。塔のもんじゃない!」
エコーは顔を伏せ、歯を食いしばる。
塔の沈黙が、少年の内側から抵抗を始めた。
「……たすけて……」
その小さな声を聞いた瞬間、ティアはためらわず駆け出した。
ジョーカーが止めようとしたが、彼女は立ち止まらない。
沈黙に震えるエコーの手を、強く掴んだ。
「大丈夫、声は、消えてない!」
塔の沈黙が裂けるような音を立て、空間が振動した。
黒い結晶が一瞬、赤い光を放ち――
その瞬間、塔の内部で初めて、二つの余白の音が共鳴した。




