第3章「道化師の記憶」
夜の冷たさが薄れ、草原を渡る風はやわらかくなっていた。
ティアは、ジョーカーの後ろを少し離れて歩いている。
小さな足音が草を踏みしめ、鈴の音と重なった。
「……ねぇ、どうしてあたしを連れて行ってくれるの?」
ティアがぽつりと呟いた。
ジョーカーは振り返らずに答える。
「お前は“余白”だからさ」
「……余白って、なに?」
「この世界で、誰にも選ばれなかった者のことだ」
ティアは俯く。自分に押された烙印をぎゅっと握るように。
「選ばれなかったってことは……あたしが悪いの?」
その言葉に、ジョーカーの歩みが一瞬止まった。
彼の脳裏に――ある夜の光景が、鮮やかに蘇る。
白い塔。
まるで世界の中心に突き立てられた、静寂そのものの建造物。
道化-ジョーカー-として生きる事を決めた16歳の少年、ヴィンチェ。
こっそりと王城へ忍び込んだ夜だった。
「……見てしまったか」
豪奢な玉座の間にいたのは王だった。
選別の儀式の本当の姿。
水晶玉に映し出されていたのは、神秘でも希望でもない――ただ「余白を消す」ための仕掛けだった。
“選ばれる”とは、生きる価値を塔に認められること。
“選ばれない”とは、存在を世界から消されること。
「やはりお前は危険だ。消してしまえばいい」
あの王の冷たい声。
あの時、ヴィンチェは確かに消されるはずだった。
――でも、消えなかった。
塔は彼を「削除」できなかった。
ヴィンチェの身体の中に、塔のルールの外にある何かがあった。
鈴の音が、ヴィンチェを道化にした少女の願いが彼を救ったのだ。
「……“余白”が悪いんじゃない」
ジョーカーは今に戻り、静かにティアに言った。
「悪いのは、そうやって線を引いた側さ」
ティアは目を瞬かせた。
「……線?」
「そう。誰かが勝手に決めた線だ。お前はこっち、あいつはあっち、ってな。そうやって“余白”を塗りつぶすのが――塔のやり方だ」
ジョーカーは歩きながら、帽子の鈴を鳴らした。
チリン――澄んだ音が風に乗って遠くまで広がる。
「俺もな、昔はお前と同じだった。選ばれなかった子どもで、選ばれなかった事に絶望した」
「……ジョーカーも?」
「ああ。本当の名前だって呼んでくれたやつはひとりだった。ジョーカーってのは――自分で選んだ名前だ」
ティアの表情に、ほんの少しだけ光が差す。
“自分で選ぶ”――それは、この世界では許されなかったことだったから。
「お前も選べるさ」
「……なにを?」
「どう生きるかを、だよ」
歩みを続けると、やがて小さな街道沿いの宿場町が見えてきた。
煙突からは白い煙が昇り、人々の話し声が聞こえる。
まだ「塔の沈黙」が及んでいない場所だ。
ジョーカーは足を止め、ティアの頭を軽く叩いた。
「ここで少し休もう」
「……いいの?」
「ああ、子どもは寝る時間だ」
からかうような声に、ティアが小さく笑った。
その笑顔はまだ脆いけれど――確かに、生きようとする音が宿っていた。
宿屋の明かりがふたりを包み込む。
その夜、ジョーカーはひとりで外に立ち、塔があるという北の空を見上げた。
白い塔の残像が、記憶の底からじわりと浮かび上がる。
あの優しかった彼女の声。あの鈴の音。
あの王の声、あの夜の冷たい光。
「……お前たちは、まだ塗りつぶそうってのか」
風が吹き抜け、鈴がかすかに鳴った。
――盤面は、もう一度ひっくり返される時を迎えようとしていた。




