第2章「余白の子」
夜明け前の風は、草原を渡って冷たく頬を撫でた。
ジョーカーは帽子の鈴を軽く揺らし、ひとり北東の街道を歩いていた。
平和の国から離れれば離れるほど、空気の質が変わっていく。
あの国の空は柔らかい鈴の音に包まれていたが、この道は静かすぎる。
「……嫌な音だ」
いや、“音がしない”ことそのものが、嫌な音に聞こえるのだ。
ジョーカーは肩をすくめ、帽子の鈴を指先で弾いた。
チリン――澄んだ音が夜の闇に広がる。
それだけで少し、心の底に溜まった冷たさが和らいだ気がした。
その時、草むらの奥からかすかな気配がした。
ジョーカーは歩みを止め、静かに耳を澄ます。
微かに息を呑む音。震えている。
「出てこいよ。道化は、怖くない」
ジョーカーが冗談めかした声をかけると、背の低い草の影から、小さな影がよろよろと現れた。
薄い灰色の髪。大きな瞳。
まだ十歳くらいの少女――ティア。
彼女はボロボロのマントを羽織り、裸足のまま震えていた。
夜の冷気が肌に突き刺さるような中、それでも目だけはしっかりとジョーカーを見ていた。
「……だれ」
かすれた声。音に怯え、信じるものが何もない声だった。
ジョーカーはしゃがみ込み、目線を合わせる。
「ただの道化師だよ。鈴を鳴らして歩いてるだけの、ろくでもないやつさ」
チリン――鈴を鳴らしてみせると、少女の瞳が一瞬だけ揺れた。
「……こわくないの?」
「怖いのは沈黙だけさ」
ティアの体がふるふると震える。
寒さのせいだけじゃない。
彼女は「余白の烙印」が押されたのだ。
追放された者だけに刻まれる、忌まわしい印。
「……追い出されたのか?」
ジョーカーの問いに、少女は小さく頷いた。
「……いらないって……言われた」
その言葉は、まるで昔の自分の声を聞いているようだった。
――ヴィンチェ。
あの白い塔の時代。
初めて“余白”を押しつけられ、世界から弾き出された少年。
ジョーカーは息を吸い込み、目を閉じた。
胸の奥に沈んでいた冷たい鉄が、少しずつ熱を帯びていく。
「行くあては?」
「……ない」
「なら、俺と来い」
ティアは目を丸くした。
「……どうして?」
「俺も昔、お前みたいな顔をしてたからさ」
ジョーカーは立ち上がり、マントを翻す。
鈴の音が草原に広がった。
「道化はな、盤面をひっくり返すために歩くんだ。お前も、カードになれる」
ティアは何もわからないまま、それでもその声の中に“温度”を感じてしまったのだろう。
一歩、そしてもう一歩とジョーカーに近づく。
ジョーカーは迷いなく彼女の頭に手を置いた。
「ようこそ、余白へ」
その瞬間、夜明けの光が地平を染め始める。
ティアの震える小さな手が、ジョーカーのマントをそっと掴んだ。
「……いきたい」
鈴の音が再び鳴る。
冷え切った草原に、はじめて“音”が満ちた。




