6.断りきれない提案
決意と恐怖を胸に抱えながら、アリアは地獄の門――じゃなかった、宰相執務室へと歩みを進める。
アリアは心の中で必死に自分を落ち着かせようと、震える手のひらをエプロンの上で握りしめていた。そして重厚な扉の前まで辿り着く。
この宰相執務室は、いわば彼のテリトリー。
アリアは一度大きく息を吸い込んでから、慎重に扉をノックをした。
「入ってくれ」
中から低くよく通る声が返ってくる。
おそるおそる扉を開けると、目に飛び込んできたのは窓際に立つセドリックの姿だった。
第一宰相、セドリック・グレイヴナー。
逆光に縁取られたシルエットは輪郭が鋭く浮かび上がり、この前回廊で会ったときよりも威圧感が増している気がする。
(うわ、もう帰りたい……)
蒼玉色の瞳は何かを見通すようにこちらを見ている。
視線が絡んだ瞬間、アリアの心臓が跳ねた。
(視線が怖い……けど、宝石みたいに綺麗な色だなぁ)
そんなことを思っていると、セドリックはデスクからファイルを取り上げながら静かに言った。
「来てくれて助かる。そこに座って」
指し示されたのは一人掛けの椅子。
アリアは背筋を正し、なるべく無害そうな顔で小さく礼をして席に着く。
セドリックは座らないまま手元のファイルを一瞥すると、淡々とした口調で問いかけてきた。
「君は王宮に仕えて何年だ?」
「えっ……あの、それって……どうして、」
「聞かれた質問に答えてくれ」
語調は柔らかいのに、有無を言わせない圧がすごい。
「……十四のときからなので、六年になります」
「配属経歴は?」
「最初の一年は洗濯場で…その後配膳室から倉庫管理を経まして、昨年から王太子殿下私邸へ配属になりました。それでこのたびはエレナ様の部屋付きに……」
一語一句言い間違えないよう慎重かつ正確に、アリアは努めて平静を装いながら答えた。
一方のセドリックは、ファイルを軽くめくりながら少しも表情を変えない。いよいよ取り調べ感が増してきた雰囲気に、アリアはごくりと喉を鳴らした。
「ふむ、人事局から取り寄せた内容と相違はないようだな」
「え……っ?」
ぽつりとこぼされた一言に、アリアの思考が止まる。
(待って、すでに全部調査済みってこと!?っていうか、もし嘘ついてたらどうなってたの…!?)
「それはもちろん、君の想像するようなことになっていただろうな」
「私、何も言ってませんけど!?」
(なに?どういうこと!?心の中読んだ!? この人、怖い!!)
口元は弧を描いているけれど、目が笑っていない。
「では本題に入ろうか」
(まだ序章だったんですか!?)
アリアの心の中で、再び悲鳴が上がった。
「あ、あのっ……!ど、どうして私なんかに、こんな……」
「君のことが気になっているから」
「…………は?」
今、この人はさらりと言った――気になっていると。
直球にもほどがある言葉に、アリアの思考回路が一瞬真っ白になる。
(はっ……!?いま気になってるって言いました!?え、えええ、誰が!?誰を!?違う違う、そういうフラグはいらないんですって…!!)
相手はこの国の第一宰相。王政を支える筆頭閣僚でとんでもなく優秀だと噂されるような人。かたや自分はただのメイドで、地位も家柄もまったく釣り合わない。
社会的にも身分的にも『そんなこと』が成立するわけがないのだ。
ということはつまり――
(毒針ブローチの件、やっぱり私が怪しまれてる!?)
過去のループでは、あの件はどちらかといえばお手柄として評価された。よく気づいたと褒められることはあっても、ここまで探るような目を向けられたことはない。
それだけに、今回の流れは想定外だった。
(どう対処するのが正解なのかが分からない……!)
「……っ、あの、用件が済んだのでしたらそろそろ失礼させていただきたいのですが…?」
必死に笑顔を作って頭を下げながらも、早くこの空間から出たい気持ちでいっぱいだった。そんなアリアの様子を、セドリックは黙って見つめている。
「焦る必要はない。君だってすんなり解放されるとは思っていないだろう?」
かすかに細めた瞳に光るのは――興味と、探るような色。
「些細な変化にも気づく勘の良さと、それを実行できる行動力。君のような存在は王宮では貴重だ」
「いやいやそんな!私はただのメイドですし…!!」
「ただのメイドで済むのなら、わざわざ呼び出したりはしない」
きっぱりと言い切られてアリアは何も言い返せなかった。
完全に会話のペースを握られている。
「君はなぜ王太子殿下とクラヴィス嬢にあれほど入れ込んでいる?何か目的があるのか?」
ファイルをパタンと閉じたセドリックが、真面目なトーンで問いかける。
アリアは思わず言葉に詰まる。けれどごまかしたところでこの人には通用しないだろうと悟って、迷った末に正直に答えることにした。
「それは……お二人が私の『推しカプ』だからです…!」
「……推しカプ?」
「推しているカップルの略称です。私の場合はミカエル王太子殿下とエレナ様のことですね。お二人の幸せが私の幸せなので!!」
その言葉にセドリックは一瞬だけ黙り込んだ。
「……つまり君は、殿下とエレナ嬢が無事に婚姻を結ぶことを心から望んでいるというわけか」
「もちろんです!!」
アリアは胸を張って即答した。
「むしろ私の悲願と言っても過言ではありません!お二人が無事に結婚式を挙げるお姿を見られたなら、その場で燃え尽きても後悔はないです!」
自分で言っておいて、ちょっと感極まってくる。
ループ五回目ともなれば、このカップルへの心情も深く重いのだから。
セドリックはアリアの熱量を不思議そうに――まるで絶滅危惧種の珍獣でも見るような目でじっと見つめていた。
やがて、ひとつ頷いて言う。
「なるほど。つまり俺と君の目的は一致しているわけだな」
「……は、はい?」
「クラヴィス公爵家は由緒正しき名門だ。過去に王宮官僚を何人も輩出して貴族派にも強い影響力がある。国家の安定を図るうえで、殿下がその嫡嬢と結ばれるのは何より望ましい」
「……はあ」
アリアは曖昧に頷きながらも呆気に取られていた。
推しカプの尊さを語ってたつもりが、いつのまにか壮大な国政の話になっているのだから。
「それならば、目的が同じである君に適任の仕事がある」
「し、仕事ですか…?」
きょとんとしたアリアに、セドリックは微笑すら浮かべず淡々と告げる。
「君の観察眼を活かして俺のもとに二人の観察報告をしに来る仕事だ。日々の王太子殿下とクラヴィス嬢の様子を君の言葉で詳細に報告してもらう」
あまりに自然に提案されたその内容に、アリアは一瞬思考が追いつかなかった。
「は、はい~~!?!?」
アリアの反応にセドリックがわずかに眉を上げた。
「何か不満か?君の推し活を正式な職務にするようなものだ」
「いやいや待ってください、そんなことのために!?」
「そんなこと?国家の安定のために、二人の仲が順調に進むか否かは重要な事柄だろう?それを日々観察し、適切な報告を行う君の存在は極めて有用だ」
(真面目な顔で何言ってるのこの人……!?!?)
冗談だと思いたかった。心からそう願った。
けれどセドリックの顔は至って真剣で、ツッコミを入れる余地など一ミリもなかった。
「明日から毎日、午後の休憩時間にこの執務室へ来て報告するように」
有無を言わさない圧に、アリアは完全に飲まれていた。
相変わらず一方的なペースにもはや口を挟む隙がないことを悟る――というか、押し切られた。
宰相閣下からの命令に、一介のメイドがノーと言えるはずもないのだから。
アリアはぐらりと崩れそうになる体勢を何とか立て直す。
「……分かりました。できる範囲で報告させていただきます」
「うん、それでいい。助かるよ」
セドリックは初めて満足げに頷いた。
綺麗な青玉色の瞳は、どこまでも理知的で冷静で。
けれど、その奥にあるわずかな光にアリアは気づいていなかった。
それが、明らかに熱を帯びた色をしていることに。