4.推しが尊すぎて尋問中だということを忘れた
数日後の午後。
文官たちの姿が少なくなる南回廊を、アリアは書類を抱えて歩いていた。
(次はエレナ様にこれを届けて、そのあと控え室に戻って……)
そう思考を巡らせていたところに、ふいに前方から現れた人物と目が合う。
「君がアリア・セルフィアだな?」
「……っ!?」
一瞬、誰かの名前を聞き間違えたかと思った。
黒の礼服に身を包み細部にまで乱れのない完璧な身なり。
どこからどう見ても、隙のない上級閣僚そのものの佇まいだった。
アリアは反射的に足を止める。
「……申し訳ございません、どちら様でしょうか…?」
「第一宰相セドリック・グレイヴナーだ」
『ほら、急遽新しい宰相様が来ることになったじゃない?セドリック・グレイヴナー第一宰相』
先日、配膳室で耳にした名前を思い出す。
(宰相閣下…この人が…!?)
動揺で胸がドクンと跳ねる。
過去の四回のループでは、王宮にグレイヴナー宰相という人物は存在しなかった。そしてこの顔にも見覚えはない。
(なのに今回、いきなり……!?)
この男は、五回目にして現れたイレギュラーだった。
これまでの宰相はもっと高齢の文官が務めていて、政務にはあまり口を出さず儀礼に従って座していたと聞いている。
(まさかこんなところで遭遇するなんて、というよりなんで私の名前を知ってるの…!?!?)
王宮で働くメイドにとって、宰相という肩書は陛下や王太子殿下に並ぶほどの雲の上の存在だ。ふだんの業務で言葉を交わすこともないし、話しかけられるなんてそれはもう何かの間違いレベルである。
(もしかして廊下で花瓶をぶつけたのがバレた?いやあれは三回目のループのときだし!じゃあなんで…!?)
そんなアリアの焦りなど知る由もなく、端正な顔立ちの下の蒼玉色の瞳が彼女を射抜いている。そこにはわずかな揺れもない。
「君に、少し聞きたいことがある」
「……は、はい……!?」
カツカツと靴の踵を鳴らしながら距離を詰められて、アリアの返事は見事に裏返った。
「クラヴィス嬢宛ての贈り物に毒針が仕込まれていた件、君が第一発見者だと聞いた。そのときの状況を詳しく教えてもらいたい」
予想もしていなかった単語が飛び出して、アリアの背筋に冷たい汗が伝う。
空気の張り詰め方が、これまで出会った誰とも違う。
歩き方ひとつ目線ひとつに、支配する者の品格が滲んでいる。
(ど…どうしよう……!?)
アリアはごくりと喉を鳴らしながら『ループの秘密』を隠しつつ、どう乗り切るべきか頭を高速回転させ始める。
「えっと、それはほんの偶然でして……念のために中を確認しようと思っただけで……」
視線を泳がせながらも、アリアはなんとか答える。
だがその言葉を聞いたセドリックは微動だにせずさらりと続けた。
「確認しようと思った理由は?」
「え……ええと……」
追い詰められた小動物のような目で、アリアは助けを求めるように周囲をちらりと見た。だがこの回廊にはセドリックと彼女の他に人影はない。
「私、身の回りの品に関しては、なるべく目を通すようにしていて……その、丁寧な確認というか……」
「毒針の仕込みはかなり手が込んでいたと聞いている。ぱっと見ただけでは判別がつかないほどに。君はどうやってそれに気づいた?」
質問が細かい。そして的確すぎる。
まるで裁判官の尋問のような圧に、アリアの背中を汗がひとすじ伝った。
(え、ちょっと待って、もしかして『私が仕掛けた』って疑われてる…!?自作自演とか!?)
アリアは顔中の筋肉を総動員してごく自然な微笑みを作りながらも、内心では冷や汗が噴き出す勢いでパニック中だった。
(違うんですけど!むしろ推しカプのために奮闘しているだけなんですけど~~!?)
「たまたまなんです……!本当に、たまたま……!」
ほぼ反射的にそう叫んだ。
セドリックは無表情のままだったが、目元の奥にわずかな笑みが浮かべる。
「……ふむ」
彼はほんの一拍だけ間を置き、興味深そうに小さく息をつく。
「本当にたまたまなのだとしたら君の目は相当に良い。あの細工を即座に見抜けたとなれば、ただの偶然では済まされない精度だ」
「え、ええと……ほ、褒められているのでしょうか……?」
「もちろん。君はなかなか……面白い」
その声はどこか楽しげで、アリアの背中に再び悪寒が走った。全力で後ずさりしたい衝動をなんとか抑えていたそのとき。
ふいに風が吹き抜けて、視線をさらわれた。
中庭のそよ風に揺れる花々の中で、ひときわ眩しい存在が目に入る。
ミカエル王太子殿下と、エレナ嬢。
殿下が自然な所作で彼女の手を取って、自分のほうへと引き寄せる。
肩を寄せ合いながら、殿下が何かを囁く。するとエレナが顔を赤らめながら小さく頷くと、柔らかく微笑み返して――
「あぁぁああ……尊い……!!あの角度…あの空気感……!!」
(よかったぁぁぁぁ!なんか今回いい雰囲気になるの早くない!?ちゃんと恋愛ルートに入ってるし、これはいける……!!)
恍惚とした眼差しを二人に向けているアリアに対して、セドリックは完全に取り残されていた。
その表情はポカンと言っても過言ではない。
理知的で隙のない男が、今まさに完全に思考がフリーズしている。
「……尊いとは、どういう意味だ?」
「えっ!?」
ようやく我に返ったアリアが飛び上がったように振り向くと、セドリックはあくまで真面目な顔でこちらを見ていた。
「だって見てくださいよあのお二人を……!!」
アリアは中庭を指さして声を弾ませる。
花咲く庭園の真ん中で、エレナとミカエルが寄り添い、静かに笑い合っていた。
その様子を見て、アリアは目を潤ませる勢いで手を胸元に当てる。
「殿下があんなふうに微笑んで、エレナ様が頬を染めて!これが尊くないわけないじゃないですか!?」
言葉を熱く紡ぐその表情は、あまりに真剣だった。
(…今、俺の存在を完全に忘れていたな)
つい先ほどまで自分に対して警戒の色を見せて、怯えたような声で弁解していたというのに。今の彼女は、完全にミカエル殿下とエレナ嬢にしか意識が向いていない。
「…………」
王宮内の人事はすでに頭に入れてある。
アリアが以前、どの部署にいてどの寮に所属していたかもすでに確認済みだ。
ライナスの報告によれば、アリアがエレナ嬢付きのメイドになったのは数日前のこと。それ以前にクラヴィス家との関わりも殿下との接点も記録に残っていない。
(……それでいて、ここまであの二人に執着するものか?)
セドリックは思わず小さく息をついた。
言葉よりも前に出る無意識の兆候を拾うのは、彼にとっては息をするのと同じくらい身についている。
他人の感情を把握して数手先の思考を読むことも、裏をかくことも、誰より上手くやれる自信があった。
だが――このメイドだけは、行動原理がまるで読めない。
毒針の存在にいち早く気づいて冷静に対処した。
かと思えば、中庭で肩を寄せ合う王太子とその婚約者を見ただけで謎の感情爆発を起こす。
(毒針を見抜いた冷静さと、それとは真逆の異常な熱量……)
セドリックは眉を寄せたまましばし黙っていた。
彼にとって、こんな反応を見せる人間は想定外だったからだ。
(……やはり、ただのメイドとは思えない)
冷徹な観察者であるはずのこの男が、わずかにその思考に揺らぎを覚えている。
それは『好意』と呼ぶにはまだ程遠く『関心』というには熱がありすぎた。
「……君は、ますます興味深いな」
その呟きは誰に向けたわけでもなく。
けれど確実に、この空間に静かに溶けていった。