30.逆転の芽
ライナスは静かに、手にした書類の束をアリアに差し出した。
「これが……全部、ルガード家の……?」
アリアは、そっと一冊の古文書を両手で受け取った。
黄ばんだ羊皮紙、封蝋の跡、そして表紙に押された古い紋章。視線がそこに吸い寄せられる。
「アリア嬢。これは、私たちにとって逆転の芽になり得ます」
「え……?」
真剣な眼差しでライナスが言った。
「今、クラヴィス嬢はマルタユ帝国と内通して偽造通貨を作り、国家転覆を狙っていたとされています。しかし、今回の陰謀すべてが五十年前から続く『ルガード家の計画の一部』だと証明できれば、この敵側の筋書きは成り立たなくなる」
アリアは、はっと息をのむ。
「ルガード家の計画が今も生きていることが分かれば、それを暴こうとしたセドリック様に着せられてる罪も…!」
「ええ。国家反逆どころか、閣下は真実を明らかにしようとしたことの証明にもなります」
アリアの言葉に、ライナスは大きく頷いた。
「今回の一連の罠を仕掛けた者の意図が明確になれば『王政転覆の計画』がクラヴィス家のものでないと証明できるでしょう。審問会に間に合えば希望はあります」
アリアはぐっと拳を握った。
エレナとセドリック、二人を助けることができる。
そう思うと、アリアの胸はドクドクと高鳴った。
それと同時に、さっきからずっと引っかかっていた感覚が、はっきりと輪郭を持ち始める。
(この紋章……やっぱりどこかで見た。毒針ブローチのカードに刻まれていたあの紋章と、同じ……)
アリアは無意識に資料を持つ手に力が入る。
頭の奥で、遠い記憶がかすかに鳴った。
「どうしました?」
「この紋章、見たことがあるんです。でも、それがどこでだったかずっと思い出せなくて……」
「君の最初の配属は洗濯場でしたね。その後は配膳室を経てから倉庫管理でしたか」
ライナスはふと懐かしげに微笑んだ。
「よく覚えてますね」
「閣下の命令で、人事局から君の資料を取り寄せましたからね」
くすりと笑いながら、片眼鏡がきらりと光る。
(倉庫……)
アリアの胸に、どくんと心臓の音が響いた。
自分のループの起点はいつも、エレナ嬢の部屋付きに任命された日。
けれど、その最初のループが始まる前。
王宮で勤め始めて三年目のとき、自分は王宮倉庫の担当をしていた。
あのころの記憶は、何度もループを重ねるうちにぼやけてしまって、忘れかけていたけれど――
まだ王宮の構造も、人間関係も、何ひとつ知らなかったころ。
雑用と整理に明け暮れていた日々。
薄暗い倉庫でひたすら棚卸ししていた、あの時間。
そのとき――偶然、開けてしまったのだ。
棚の隅で忘れられたように、まるで誰も触れたがらないような不気味さを纏った木箱を。
鍵は錆びついていて、蓋は重たかった。
長年降り積もった埃を払って、蓋をそっと開けたとき。
(そう……蓋の裏に、焼きごてで押したように刻まれていた紋章があった……)
その記憶が鮮やかに蘇った瞬間、パチンと何かが弾けた。
(……思い出した……!あの紋章が『ルガード家』の紋章だったんだ!)
どうして今まで思い出せなかったんだろう。
でも、記憶がよみがえった今なら、そのときの光景も不気味なほど静かな空気さえも、ありありと思い出せた。
「ライナスさん……」
アリアの声が震える。ようやく一つの線として繋がり始めていた。
「王宮の南にある物品保管庫は、今も残ってますか……?」
* * *
アリアはいったんライナスと別れた。
そして夜の王宮を急いで駆け抜けると、南の端にある物品保管庫へとたどり着いた。
ここは王宮の中でもほとんど誰も足を踏み入れない、いわば不用品の吹き溜まりだった。
壊れた食器、年代の分からない家具、誰のものかも知れない古びた衣装――処分保留と名のつく曖昧な理由のもと、ただ積まれて忘れ去られていく品々。
倉庫担当の雑用係が積まれた不用品を棚卸して、そしてまたすぐに次の不用品が積み上がっていく、そういう場所だ。
(でも、あれだけは不用品じゃなかったんだ……)
アリアは胸の鼓動を感じながら、広い倉庫の中へと足を踏み入れた。
記憶を頼りに、埃と沈黙に満ちた迷路を進んでいく。
(……あった……これだ…!)
棚の上に手を伸ばしてかすかに触れた、ざらりとした感触。
白い布をかぶせられたまま、誰にも気づかれずにあのときから眠り続けていた箱。
アリアは両手でそっとその箱を棚から下ろした。
そして、あのときのように錆びついた留め金を開ける。
裏返したその箱には、焼印のように紋章が刻まれていた。
アリアの息が一瞬止まる。
(やっぱり、ルガード家の紋章で間違いない…!)
そして箱の中に入っていたのは、大きな金属板だった。
「……これは……偽造硬貨の鋳型……?」
硬貨を鋳造するときに使う鋳型だ。
金属の塊に彫り込まれたデザインは、南市街でセドリックと共に見つけた偽造硬貨とまったく同じだった。王宮貨幣局の正式な紋章の上から、それを塗りつぶすかのようにルガード家の紋章が重ねられている。
(間違いない、これは証拠になる……!)
五十年前に、ルガード家が別の経済圏を作ろうとしていた証拠。
これがあれば、エレナもクラヴィス家も、偽硬貨の製造に関わっていないことは明白だ。
そして、セドリックが暴こうとしていた五十年前の出来事が、過去ではなく今の陰謀に繋がっていることの証明になる。
(これを審問会に提出できれば…!)
そのときだった。
「あぁ、それを見つけちゃったか。まったくアリアは本当に予定を狂わせてくれる」
背後で、カツン、と乾いた足音とともに響く声。
「…ユーリ……!」
その顔は相変わらず穏やかで、優しげで。
けれどその笑みの奥には、冷たく濁った底知れぬ闇があった。